第六章 解離する因果

 入院生活が一ヶ月ともなるとどう過ごせばいいか身に付くようになる。

 週末は柚葉を連れて姫島がお見舞いに来てくれる。娘の顔を見ると安心し癒される。恭介の意識はまだ回復していない。仮に回復しても後遺症は残るだろうと見解を示している。


 姫島に頼んで曲澤夏樹を呼び出してもらった。

 彼は暗い顔をして病室に姿を見せた。憔悴しているのが表情を見れば解る。

 椅子に座るよう勧める。

 姫島は扉の近くに待機してもらう。会話を録音するよう伝達済みだ。

「先生から呼び出すとは思いませんでした」沈んだ、覇気の失せた声。

「私が貴方を呼んだ理由解っているわね」

「……はい」シャープペンシルの替え芯くらい細い。「何処で解りました」

「盗聴器」簡潔に答える。「秋彦がティファニーブルーの花瓶を投げなかったら辿り着かなかった」

 紙一重だった。怪獣のように暴れ散らしてくれたお陰。冷静でいられたら気付くことはなかった。

「不運でした」曲澤は下を見る。「彼女の計画は完璧だと思っていたんですよ。そうではなかったんですね」

「どれだけ緻密に綿密に計画を立てても不備は出る。商談を成立させることに長けていようと人を欺くことに長けていようと関係ない。亀裂が判明すれば、そこから一気に瓦解するもの。研究だってそうでしょ? 間違いないと思っていても時間が経って、見直した際に取り返しの付かないミスが平然と見付かる」

「見直すとなれば膨大な時間を取られ、糠喜びに終わる」

 愛美は自分に都合が良いように機能する計画は立てられても、誰かを救う手立ては築けない。彼女の弱点を挙げるとすればそこね」私は言う。

 自分さえ良ければいい、私に復讐しさえすれば満足でそこに人材を投入するが、捨て駒としか考えていない。相手の弱みに付け込み利用する。

「私を駅のホームから突き落としたのは貴方ね」

「そうです」曲澤は言う。

「そして皆瀬さんは共犯」私は言う。「愛美が私を突き落とせれば問題は無かったのでしょうけど、運悪く妊娠が発覚した。だから貴方たちふたりを使って、私を殺すよう言い伝えた。自販機でコーヒーを手渡した人物こそが皆瀬さん」

「愛美さんに殺すよう言われました。どう殺すかは僕たちに委託すると言いました」

「曲澤くんが首謀者と認識していいわね?」私は言うと彼は首肯する。「趣味趣向に詳しい貴方だからこそ出来たとは言いたくないけれど、私の異変にすぐ気付く貴方ならではの殺害方法ではあったわね」

「結果的にそうなっただけです。皆瀬さんを使おうと考えたのは先生と接点のない人が良いと思ったからでした。彼女である理由は無かったのですが、都合が良かったからとしか言えません。OLみたいな服装するよう言い渡したのも僕です」

「コーヒーを飲ませて隙間を作る−−要は油断させて、電車が来るタイミングで背中を押すだけで終わる。躊躇しては行けないと思い、感情を殺しました」

「正解よ、それが。人を殺すのに躊躇いを覚えるのは命取りになる」私は言った。

 依然彼は私の顔を見ようとしない。

「皆瀬さんを視線で追うだろうも予測していました」彼の言うとおり私はコーヒーを受け取ったあと彼女を追い掛けた。見付けることは出来なかった。私の行動原理を知っているから実践に移せる芸当だ。彼だから成し得たようなもの。

「私の死を見届けた直後に貴方は後追いした。ちがう?」

「え−−」リノリウムの床と見凝め合っていた曲澤は漸く顔を上げる。

「貴方は最初から本当のことしか言っていなかったのよ」私は言う。「私は信じていたようで信じれていなかった。だから貴方は皆瀬さんに私を殺させた」

 曲澤は安堵したのかぎこちない笑顔をうかべる。苦労が報われたそんな笑み。

 それぞれがそれぞれの生き様と真実のなかで行動していた。

 なけなしの正義感を振り翳して。

「何時でも自分は味方でいるとは限らないもヒントだった。私がこびりついて離れなかった言葉。これも盗聴器が出て来たからこそ辿り着けたんだけど。御免ね、気付くの遅くなって」

 曲澤の瞳からひと筋の涙が流れる。

「優しい言葉を掛けないでください」彼は言った。声が震えている。「僕が貴女にしたことを思い出してください。最低なことをしたんですよ。許されるような、慈悲の言葉を受け取っていい人間ではないんですよ」

 どうしてそんな僕を優しくしてくれるんですかと彼は言った。

 曲澤が私にしたことは到底許されるものではない。だからって、彼だけが悪いわけではない。そもそもの原因を作出したのは他の誰でもないこの私。愛美という因果律の魔女を輩出し、秋彦という妄執の怪獣を生み出してしまった。

 凡ての因果の母親は私。

「貴女に憧れを抱いていました。貴女のような研究者になりたくて無理を言って、游河研に配属してもらいました。貴女と研究する日々は刺激の連続で付いて行くのに必死でした。追い付いたと思っても先生は先を歩いている。兄貴を見ているようでした。でも貴女は兄貴ではない。ひとりの研究者であり游河遊木巴でした。何時からか僕は貴女に好意を抱くようになりました。結ばれることのない恋愛と理解していながらもどんどん惹かれて行く。自制など出来ません。恋愛にブレーキはないと知ったのは先生を好きになって知りました」曲澤は告白する。彼を地獄に引き摺り込んでしまった要因はこの私だったのか。彼も私と一緒になりたくて何回もやり直した。

「先生を殺すのを躊躇いました。でも死んでやり直す権利が与えられるのであれば、次は僕の思いを受け止めて欲しいと我が儘になって行きました。でも僕の思いが届くことはないと知り、生きる希望を失いました」

「曲澤くん……」

「兄貴を好きなのは知っていたので勝てる見込みもないと解っていても一縷の望みに縋って、兄貴より相応しいおとこになろうと励んだんですが、結局ダメでした」

 朗らかな声で果敢な気な笑み。今にも自死を選びそうな、そんな……

「愛美さんを手伝えば、先生を手に入れられると思った僕が浅はかだったんです」

「盗聴器を仕掛けて、音声を聴いていて辛かったんじゃない?」私は尋ねる。

「答え解ってて言うんだもん、狡いなあ」曲澤は言う。徐々に元気になる。「旦那さんを送り込んだのは僕のアイデアです。兄貴が死ねばいいと思っていました。しぶといですね、僕の兄貴は」

「皆瀬さんを利用したことに罪悪感はある?」

「ありませんよ。彼女を焚き付けたのはだって、愛美さんですから」

「そう」私は言う。人差し指で合図する。姫島が近寄ってくる。曲澤を連れて病室を出て行く。


「私に何か用」病室に這入って来るなり不機嫌丸出しの愛美。呼ばれたの見当付いている癖に。

「きちんと話がしたいと思ってね」私は言う。退院が目前に迫っている。その前に片付けてしまわなくてはならないだろうと思い、姫島に頼んで呼び出してもらった。曲澤は自首をし、事情聴取を受けている。秋彦の聴取も順調に進んでいるようだ。

「話すことないでしょ」愛美は言う。「個室とは本当にいいご身分ね」

「手配したの私じゃないよ。警察だよ」私は言う。大人数の病室に移動してくれるように懇願したのだけど、了承されなかった。万が一のことがあっては困るからと。素直に飲み込むしかなかった。楽観的に構えていた所為で最悪を招いているのだから私に拒否する権限はありはしない。

「手厚いのね、警察も」愛美は言う。姫島ではなく屈強な警察官が警護に当たってくれている。名前を尋ねると優秀な刑事と勘違いされそうですのでご容赦くださいと言われ、教えてくれなかった。同姓同名とヒントはくれた。確かに迂闊に言えない。

「何周したの?」私は尋ねる。「これくらいは訊いてもいいでしょう」

「十周はしたかな」愛美は答える。「どれも満足の行く結末になりはしなかった。私は自分が望む結末を迎えるまで終わらない」

「今回も失敗?」私は訊く。

「当然でしょう。貴女から何もかも奪うまで満たされることはない」愛美は言った。

 凡てを奪うまで。

 それは途方もない話だ。

「そこだけが何度考えても解らない。復讐する意味が。恭介と付き合うダシに使われたから?」

「ちがう。その程度で私が恨むはずないでしょう。低く見ないで」愛美は言う。

「秋彦を奪われたから?」

「ちがう。あの人にそんな価値はない。芥子家くんもそう」愛美は汚物を見下すように吐き捨てる。「解らないの? 一連の流れで解るでしょう。貴女ほどの知性を持っていれば」

 愛美は瞳を潤ませる。伝えたいことを上手に親に伝えられずに泣くのを我慢する幼児だ。

「本当に解らないの? 私が貴女に伝えるためにどれだけの歳月を掛けたと思っているの。その凡てが徒労になってしまう。それだけは許されない。許されるはずがない」

 愛美は立ち上がる。彼は身構えるのを手で制する。武器は持っていないだろう。失敗と言い切った以上、武器を持ち込んで殺すのも厭わないだろうが、今はしないと思う。ここにいる愛美は枕木愛美は学生時代の友人のひとり。

 ベッドに乗り、私に近付く。

 無防備な私の唇を奪う。

「‼︎」

 意表を突かれて動揺する。そんな素振り一度も見せて来なかったじゃない。

 唇を離す愛美。

「これが動機……なの」自分を唇を触る。感触がまだ残っている。このためだけにこの人は? 信じられない。本当に信じられない。

「そう。これが動機。アホらしいと思うでしょうけど、紛れも無い真実」愛美は言った。「貴女が異性にしか興味がないのを知っていて、どうすれば遊木を振り向かせられるか必死になって考えた結果がこれであり、このザマよ」

 両手を広げる。聖母マリアなんかじゃない。マグダラのマリアの生き写しだ。残酷なまでに美しい女性の似姿が眼前に顕現している。視線を逸らしてはならない。逸らしたりしたら彼女から眼を背けることを意味する。

 この年齢になって友人と正面切って向き合う日が訪れるとは想像していなかった。

 彼女はずっと苦しんでいた。傍でずっと、長いこと。息苦しく感じていた。

 常識の虜囚にいた私は告白されるまで気が付かない体たらく振りを見せてしまった。申し訳ないとは思わない。それが私の常識だから。

 愛美の常識を理解したいとも思わない。

 正しいことだと肯定する気もない。

「麻美子を使って恭介に身を引かせるようにしたのも私のため」

 凡ては私のため。

 何もかもが私へ向けられた際限のない好意の表れ。

「秋彦の子どもを宿したのは? 当てつけでないのなら何?」

「あれは嘘」愛美は言った。「貴女と離婚するにはこれくらいのことをしないと行けないと思ってのことだった。実際にダメージを与えられたから策自体は悪く無かった

。けれど、彼は望んでいなかった。愛されているのね」

 秋彦は離婚したくてしたわけではなかったのか。

「娘さんを取り上げれば彼を操れる。だから是が非でも娘を引き取らなければならなかった。それすら後半から上手く運ばなかった」愛美は語る。「芥子家くんの弟を利用して、彼を操縦すれば良いと悟った」

 それで出来上がったのがゴジラだった。禁欲を命じて、解放されるに通底する。

 秋彦に愛されていない。彼が愛していたのは柚葉だけ。正に妄執の怪獣だ。

「四周目で秋彦に娘を殺させたのは何故?」

「確実に遊木巴を仕留めるため。私が貴女を殺害するに到る経緯はどれも私に靡かないのが確定した時だから。そして決まって貴女は芥子家くんを好きになる。引き寄せられるようにね」愛美は言った。私の傍を離れるつもりはないらしい。これだけの距離にいることを私が許容したのだから、見す見す見逃すはずがない。

 因果の中心にいたのは常時私。文字どおり因果な話だ。知りたくもない事実だ。

「麻美子は関係ないでしょ。それに皆瀬さんも」私は咎める。無関係な人間を巻き込んだことだけは許されない。いちばんは鈴音とりん子だ。

「麻美子は私の恋路を応援してくれたただひとりだった。綿雪は成り行きと麻美子の紹介」愛美は言う。私の手を握りたそうにしているが我慢している。

「貴女は私を殺してから毎回自殺をしているのね」その点だけは曲澤と同一だ。それ以外は丸っ切り異なる。「拳銃はどこで手に入れたの?」

「警官から盗んだ」愛美は言う。「探偵をホテルで殺害した時に」

 私は警官を見るが彼は首を横に振る。彼に聞いてもこの世界と前の周の彼は別人だ。どんな事件が発生していたか知らないのも当然。ただ聞き役と警護に徹しているに過ぎない。記憶と出来事を共有出来る人間は後にも先にも愛美だけだ。

「私を好きになった理由を最後に聞いてもいいかしら?」

「いいけれど、私も願いをひとつだけ聞いてもいい?」

 私は彼に外に出て行ってもらうようお願いする。不安と心配が入り混じった表情をうかべる彼に心を打たれそうになったがどうにか思い留まる。


「思い出として私を抱いて」


 服に着替えている途中で姫島が這入っている。不惑のおんなふたりが裸になっていれば厭でも察する。状況を飲み込むのが早くて助かる。

「芥子家さん、息を引き取られました」

 姫島はそう言った。

 図らずも愛美の願いは達成された形になる。

 心と体を満たされた彼女は軽快な笑顔を火照った顔に湛える。

 私の望みは叶ったと言いたげだ。

「教えてくれて有難う」私は言う。「彼女をお連れして」

 着替えを終えた彼女は去り際に私にキスをする。

 姫島に連れられて病室を出る寸前に彼女は思い出したように、


「誰かを殺してもいいくらいに貴女しか見えない。どうしても、貴女が良かったの」


 理由にもならない理由を残して枕木愛美は游河遊木巴の視界から消えた。


  

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