第四章 剥離する因果
めきめきと鍍金が剥離する音が内側から聞こえる。
内部より崩壊していく。
芥子家の言うとおり、私は私は……
芥子家と付き合っていないにも拘らずふたりに噓を吐いた。
半ばふたりを嗾けた。
私は芥子家恭介を愛していた。けど彼は振り向いてくれなかった。何としてでも芥子家を振り向かせたかった。愛美と麻美子をその気にさせるのは容易だった。ふたりを利用すれば彼も鬱陶しく感じるようになって私に靡くにちがいないと思った。
現実はそう甘くなかった。
私の見通しは甘かった。
芥子家は振り向くどころか遠ざかっていく一方だった。手を伸ばせば届く場所にいるのに、私の思いは届いてくれない。降り頻る雨のなか傘も差さずにひとり佇む哀れなおんなになっていた。
救いようがない。
諦めれば良いものの私はこの世に芥子家恭介しかいないと思い込んだ。思い込もうとしていた。縋りに縋れば芥子家は私を好きになってくれるだろうと思っていた。アダムとイヴになってくれるものと考えていた。
しかし私の考えは間違っていた。芥子家は私を視界に入れていなかった。前提が間違っていた。興味を持たれていなかったのだ。じゃあ彼はどんな
答えは一様に異性に興味がない、だった。結婚願望はないし、家庭を持つ概念すら抱いていないんじゃないかと彼らは口を揃えて言った。
深淵に突き落とされた気分だった。
だって結婚は誰もが憧れるものではないの? 愛する人と一緒に生活を送り、可愛い子どもたちと大きな犬が庭でかけっこをする姿を見る、そんな彩りに彩られた人生を誰もが希求しているのではないのと疑った。
彼は誰もが望む生活を渇望しているわけではなかった。異性に別段興味がないのではないことがあとで判った。彼は家庭という縛りが制度が気に入らないのだと。恐らく育って来た環境が環境だっただけにそう思うのだろう。
実弟を余所の家に預け、自分だけ悠々自適な暮らしをする。否、させられる。平等とは決して言えない生活を彼は無理矢理強いられていた。家族に対して並々ならぬ絶望を誰よりも抱いていた。
そんな事情を知らなかった私は彼に愛されようとした。そりゃあ届くはずがない。
私は芥子家恭介を諦めざるを得なかった。
秋彦を選んだのは妥協だ。
芥子家でないのなら誰でも良かった。
秋彦との結婚生活に愛があったか問われればなかったと答える。彼を心の底から愛していたわけではない。どうしても彼である必要がないのだから、愛する必要も愛を与える謂れもありはしない。
私は未だに芥子家恭介に恋焦がれている。
どうしても、あなた、でないと行けないの。
旧姓の游河を使っているのは芥子家に間接的にアプローチするため。手続きが面倒だからとか使い分けようなどと浅い考えで旧姓を用いているわけではない。
殊勝な心掛けで游河を使っている。あとはそうね、気に入っているというのはあるかな。馬木田より断然良い苗字だと自負している。他人の前で旦那の苗字を名乗ったことはないかもしれない。
だってどうでもいいと思っている人の苗字を名乗る謂れ、ないでしょう?
結果的に愛美の恨みを買う羽目になってしまった。
麻美子を巻き込み、その後の人生に大きな影を落とすことになったのも。
ともすればやり直すべきなのは学生時代からではないの?
神の悪戯とご大層なことを言うつもりはない。
意地悪だとも思わない。
けれど、それでも、やり直す時間は家族が崩壊する前である必要はない。
私にどうしろと言うの。
文字どおりやり直せと?
柚葉は大事だ。最愛の娘が亡くなってしまったが故に家族は崩壊した。
私たち夫婦が夫婦たらしめていたのは確実に柚葉がいたからだ。
仮面夫婦が辛うじて夫婦の体裁を保っていられたのは紛れもなく娘の存在が大きい。柚葉を身籠もっていなかったら、疾うに離婚していた。
秋彦と結婚して良かったのは可愛い柚葉をこの手で抱けたことくらいだ。
それ以外で幸せに感じたことは一度もなかった。
愛美に秋彦を取られてもダメージはない。どうでもいい相手を寝取られたところで何とも思わない。ただ柚葉を連れていくのはちがう。
どんな手段を講じてでも柚葉だけは、娘だけは必ず取り戻す。
ふたりの住まいを探り当てるのに四ヶ月要した。その間に二〇一九年になっていた。仕事の合間を縫って、探偵と密にやり取りをしていた。基本的に自由な職場であるから隠れて行動しなくても良いのだが、曲澤には知られたくない。どうでもなくとも、芥子家が余計なことを言った所為で関係に亀裂が入りかけているのだ。破綻だけは避けなくてはならない。
向こうから辞めると言われたら仕様がないけれど、現状はその素振りはない。
会話が大幅に減ったのは否めない。
何気ない話が出来ていただけに彼の信用を失ってしまったのは大きな損失だ。
仕事をする振りをしながら探偵と連絡を取るしかない。探偵を雇っているのは彼に話していないので、露見すれば何言われるか判ったものじゃない。
二ヶ月も要したのは点々と渡り歩いているからだった。逃亡犯のように拠点を変えていて、特定と把握に予想より膨大な時間を掛けることになってしまったようだった。
皆瀬家の不動産は各地に存在し、そのうちの幾つが次男が所有しているものかを調査するだけでも半月から一ヶ月を要した。絞り込んでからはどの家に住んでいるのか虱潰しするフェーズに移行とあって、二ヶ月で探り当てたと感心頻り。
愛美たちはどれだけ長くても二週間で次に移動しているとのことだった。
柚葉は幼稚園に通いながらで先方にどう言い訳しているのか気になる。探偵から幼稚園から何か連絡はないか質問されたので、当然のようにそのような連絡はありませんと返した。
秋彦が突けばすぐにばれる噓を吐いたと予想している。信頼度だけは人一倍高いので鵜呑みにしたのだろう。
年明けに皆瀬怪童の訃報が届いた。死因は公表されていない。享年は六十六。
麻美子も愛美もこのおとこを振り回しに振り回したのか。気の毒に思いながらも本人にすれば還暦を過ぎても衰え知らずの性欲をあますところなく消費出来たのだから満足の行く生涯を送れたのではないだろうか。天寿はまっとう出来たろう。
葬式は近親者のみで執り行われたとニュースで報じられていた。
大企業の創設者となるとテレビで大々的に取り上げられるようだ。
柚葉の訃報が届いたのは一月も終わり掛け。
長野県警から柚葉の死亡が確認された趣旨の電話が掛かって来た。その直後に児相からも連絡が来た。押し寄せる波に飲み込まれた私は自我が崩壊する寸前に陥った。予期しない事態に見舞われた私は大学に休日の申請をした。
曲澤には何も告げずに新幹線に乗って長野に向かった。探偵にも報告し、現地で合流することとなった。ホテルの手配を済ませずだったので探偵に手配してもらった。
長野駅に到着すると女性の探偵と合流し長野県警に向かった。タクシーのなかでひととおり話を聞いた。詳細は警察でとなった。
県警に赴くと担当刑事の他に児相もいた。
柚葉は長期に渡り虐待を受けていた。言うことを聞かないとご飯を与えてもらえず放置されていた。反抗めいた動きを見せると風呂場に連れて行かれ折檻されていた。泣き止まないことに苛々が募るとタバコを押し付けたような火傷が確認された。
聞いているだけで胸が締め付けられる。
どうして柚葉がそんなに目に遭わないと行けないの。
あまりに惨すぎる所業に嘔吐しそうになる。
極め付けは虐待の首謀者が秋彦であったこと。
絶句して二の句が継げなかった。
警察の見解では同居している交際女性の指示によるものだろうとのことだった。
『交際女性』
いくら秋彦に愛情がないと言っても、腐っても婚姻関係にあったのだ。他人から交際女性の四文字を聞くのは堪えるものがある。
愛美が秋彦を操って、我が子を虐待させていた。
胸糞悪い話で済むわけがない。
私は強烈に愛美に殺意が芽生えた。
死んでしまえばいい−−
心の底からそう思った。
秋彦が柚葉を連れていくのは計算外だったのだろう、愛美の計画では。
秋彦の独断で娘を連れ出した結果がこのザマであるなら余計に許せない。
ふたり共々、死んでしまえばいい。
あの時に無理を押しとおしてでも柚葉を傍に置いておくんだった。こんなことになるんだったら。
ふたりは既に長野にいないと警察は言った。行方は追えておらず、他県の警察に協力を申請していると教えてくれた。必ず逮捕すると明言してくれた。
柚葉は軽井沢の別荘で発見された。衰弱死だった。
あの娘はランドセルを背負う前に……
そういう運命なのかもしれない。
皆瀬怪童は自分が望む人生をまっとうした。
残酷なコントラストに辟易する。
娘さんにお会いしますかと言われたが断った。現実を受け止めきれていない状態で会うことは出来ない。刑事も察したのかそれ以上は言わなかった。
警察を辞去してから当て所なく歩いた。途中、怪しげな団体に勧誘されたが精気の抜けた相手と断じた瞬間、汚物を見るような視線を浴びせられる。私の横をとおり過ぎて行った彼らはすぐに別の通行人に話し掛けていた。誰でも良いのだ、あの手の連中は。
日付が変わる間際にホテルに戻ると探偵が死んでいた。
誰が殺したか瞬時に判じた。警察に連絡をした。
テーブルに封筒が置かれていた。
封を切ると一枚の手紙に手書きの文字で、
『哀れな哀れな子羊さん。貴女の所為で周りは不幸になる。すべては貴女の所為。哀れな遊木巴。可哀想。本当に可哀想。殺されたくなくば、大人しく死になさい。それが貴女のためであり、悲しき柚葉ちゃんのため 愛美』
と、書かれていた。
破り捨ててやろうかと思ったが、証拠になるので捨てられない。
ものの十分で警察は到着した。刑事にことのあらましを簡潔に説明し、手紙を渡す。封を切ってしまったのを素直に詫びる。手紙は速やかに鑑識に渡される。
部屋の捜索は手短に行われた。ホテルに頼み、別の部屋に泊まることになった。何があっても困るので部屋の外となかに警備が配置されることになった。
刑事は、頻りにお詫びの言葉を口にした。愛美が県内にいないと想定していたからだ。どうして彼女は戻って来たのだろう。深入りしたらどうなるかを見せしめるために?
捜索範囲を広げる必要があると刑事は言って本部に帰って行った。
起きているか判らないが私は担当の探偵にメールをした。事態が思わぬ方向に動いている。
どうしてこうなった。
何処で選択肢を間違えたのだろう。
探偵にメールした序でに芥子家にメールをした。
翌日、帰京した。
愛美が接触するか判らないので警護として警官がひとり付いて回ることになった。仕事に行っても問題はないと言われた。その代わり、常に警官を連れて歩くようにとお達しを受けた。それと探偵とも連携を取りたいので連絡先を教えて欲しいと言われたので、電話番号を伝えた。
これらが私が過ごした二ヶ月。
ここから怒濤の日々が私を待っていた。
ふたりの住処を特定するのにそこから二ヶ月も要したのは、海外へ逃亡していたのもあったが、税関で捕まり、強制送還を喰らったことが判明してからはあっさりだった。その間に芥子家から返信はなかった。
ふたりは愛知県の離島に居を構えていた。
動向したかったが、止められた。厳重に警護していても、何が起こるか判らない。安全圏で警護がいるほうが助かると説得された。
東京で吉報を待つことにした。
なるべく普段どおり過ごそうと決め、警官が大学まで送ってくれる。教官室にまで着いてくる。そこは仕方ない。講義まで来られると拙いと思ったが、私服だから問題なかろうと思って、いちばん後ろの席で見守ってもらうようお願いした。
大手を振って歩くのは気恥ずかしい。学生たちに屈強なおとこが一定の距離感で歩いているのだから、不思議に思うのも当然。流石の曲澤も突っ込みを入れざるを得なかった。
四ヶ月振りに会話をした。
「兄貴、心配してましたよ」曲澤は警官を気にしながら話す姿は新鮮だった。
「そうなんだ」嬉しい気持ちはあるのだが、だったら返信くれてもいいじゃんと思わなくもない。
「メール返信するか最後まで悩んでましたけど、来てないですよね?」きょうだい仲睦まじくなっているのは嬉しいが、何か話すたびに芥子家に洩れてしまうのは釈然としない。逆も然り。情報の共有をしないで欲しい。
「来てない」
「ですよね」
この会話を最後に曲澤と会うことはなかった。
ひととおり仕事を終え、警官を随えて帰路に着く。
車庫に車を入れるとシャッターが勝手に閉まりだす。
「え⁉︎」
「落ち着いてください」
想定にない出来事に慌てる私を警官は冷静になるように言う。
シャッターが完全に閉まり、闇の空間が完成する。
警官はライトを点ける。
映し出された人間は……
枕木愛美だった。
離島に秋彦といるはずの彼女が、何故ここに……?
警官は静かにシートベルトを外すと私のも外してくれる。
愛美が何か言っているが車内にいるので聞こえない。
「応援要請してください」警官は小声で言う。「想定外の出来事です。本部から連絡は来ていません。当てが外れたとも思えません。離島にいるのは旦那さんだけでしょう」
「愛美だけ?」
「貴女を殺しに来た」警官は言った。「両者の間で話し合って決めたのだと思います」
「税関で引っ掛かって、強制送還を受けたのはわざとですか」声が震えて上手に発声出来ず、上擦ってしまった。「たぶん、そうだと思います。この時、この瞬間を狙っていたのでしょう。手紙にも書いてあったとおりに貴女を殺すためだけに全神経を注いだ、箱庭的計画です」
殺されたくなくば、死になさい−−
あの文章に込められていた含意は、自殺か自分に殺害されるか、だった。
柚葉を殺したのは精神的に追い込み、自殺させる。
もし自殺しなかった場合は自分が殺す。
「探偵を殺したのも計画のうちだった?」
「彼女の死は向こうとしても想定外でしょう。探偵がいると予想していなかったのではないでしょうか。部屋に忍び込み、あわよくば貴女を殺す算段だったのが大幅に書き加える必要が出たので、手紙を置いていったのだと思います」
「なる程」理路整然とした推測。警護するだけが仕事ではないこと教えてくれる。
「自殺を推進しておきながら自らの手で下すには時間がなさ過ぎではありませんか?」
「絶望することを想定していたのではないでしょうか。娘さんは貴女にとって命に代え難い存在であるのを重々承知しているからこそでしょう。況してや旦那さんの手によって殺されたとなればなおさらです」警官は言った。愛美は何か呟いている。ボディランゲージが烈しくなる。後ろから何かを取り出す。
拳銃だった。
警官は時間切れのようですと言って車外に出る。
両手を上げて、外に出る。
「何、話していたの」充血した眼。息が荒い。正常ではないのが伝わる。
「世間話です」警官は言う。「死ぬのであれば最後にこれくらいのことはしないと」
「あら、そう。ご苦労なことね。死ぬ覚悟が出来ているとは」
じゃあお望みどおり殺してあげるわ−−
無慈悲な銃弾が警官の心臓を貫いた。
押し殺した声を出して警官は鈍重な物音を立てて、凶弾に斃れた。
銃口は私に向けられる。
「この瞬間を待ち侘びた」愛美は言う。冷静な姿が確かにあった。
「殺すなら早くして頂戴」私は言う。言葉を重ねても彼女が諦めてくれるとは思えない。「会話は不要でしょう?」
「そうね。これで、秋彦くんは私のものになる」愛美は口角を上げる。
「柚葉を殺したのは死んでも許さない。次こそ貴女を葬り去るわ」私は宣言する。
後ろポケットが振動する。こんな時にいったい誰だ。警察だろうか? 探偵か。
「ねえ、ひとつ質問してもいい?」
「何?」
「あのおんなは誰だったの」探偵だと知らなかったのか。そして彼女は自分の身分を一切明かすことなく亡くなったのか。そうか、では私も彼女に倣って何も言うまい。
「彼女?」
「噓を言わないで! 恋人なわけないでしょう」愛美は言う。「無類のおとこ好きの貴方が同性を好きになるはずがない! そんなことは有り得ない!」
激昂する愛美。
「女性はバイセクシャルになりやすいそうよ」私は言う。
「だから?」血走った眼が私を捉える。「おんなも抱けると言いたいの?」
「貴女の解釈次第」私は言う。振動は止まらない。建設的な会話はもう出来ないと判断した私はドラマで良く見るブラフで拳銃を取り出すシーンを脳内で流しながら真似をする。
実際に取り出したのは携帯だけど。
武器を持っていると誤った判断を促すために。
見事に彼女は引っ掛かってくれた。
銃声が車庫内に鳴り響く。
銃弾は一ミリも間違うことなく私の心臓を貫いた。
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