第一章 遊離する因果
現実と折り合いを付けるのに一ヶ月掛かった。
家族で生活という行為をすること自体久し振りだったのも起因していたのだろう。娘への接しかたもそうだが、夫婦ではなく家族として旦那にどのように接していたかうろ覚えだった。柚葉が私たち夫婦の前からいなくなってから、極端に会話は減り、セックスレスになるのも早かった。
その所為で秋彦は外におんなを作ったのだと思う。
離婚の原因の非は私にもある。
とは言え、電車に轢かれて死んだはずの私が何故生き返ったのかが気掛かりだ。ネットで検索してみたのだが、これと行った情報は無かった。ソーシャルメディアを駆使したが、くだらないことしか呟かれていなかった。あったとしても映画と小説の批評だけで役に立つものは万にひとつとしてありはしなかった。
現象的にはSF映画で頻繁に見掛ける時間遡行と思ったけれど、どうも塩梅がちがう。遡行というより時間が巻き戻っている風に感じる。
タイムトラベルではなくタイムリープ。
私に双方の現象のちがいが判らない。
タイムトラベルは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をすぐに想起するけれど、かの映画はタイムパラドックスにも言及しているが。
タイムリープとなると何を思いうかべるだろう?
時間が巻き戻ってメリットがあるか?
現象の対象者−−この場合は私になる−−が、後悔したことがありその後悔を取り除きたいあるいは改変したい心持ちがあり、何かしらの現象が起こり、後悔した前の時間軸に巻き戻ったと考えるのが妥当だろうか?
私に置き換えて考えるならば、柚葉の死が原因で家族が崩壊してしまったのをどうにかして阻止し未来を変えたい。
まあそんなところだろう。
そうなるとそこに到るまでのプロセスをすべて回避する、あるいは阻止する。
言語化してしまえばその程度だが、タスクをあますところなくクリアしろというのはベリーハード過ぎないか?
説明書無しにゲームを進めろと言われているようなものだ。
昨今のゲームはゲーム内でチュートリアルがある。そこで操作感をユーザーは知れるわけだが、現実はそうは行かない。
何をしたらクリアに相当するのか。
柚葉の死を回避し、離婚不成立に持ち込み、なおかつ私を突き落とした犯人を明確にする。
無理難題を誰かに押し付けられている感じがして厭だな。
探偵まがいのことまでしなくてはならないのだ、この私が。そんなこと出来るはずがないでしょうよ。
それに記憶を受け継いだ状態で私は時間を巻き戻されている。この現象に理由付けしろと問題を出されても、納得の行く答えを解答用紙に記入するのは難しい。第一、柚葉の死が第三者によって齎されたものと断ずるのが困難なのに、秋彦が浮気をしたのもその人物が関係していると紐づけるのは頭が可笑しいと言われるのが関の山。
無関係にも思えないが関係しているとも思えない。
私はこの一ヶ月間、悶々とする日々を過ごしていた。
秋彦の行動にも変化はないので、会食、付き合いと称して飲み歩くわ、キャバクラに行くわ、泥酔して帰って来ては寝ている柚葉を無理矢理起こしては誰にもらったのか判然としないお土産を渡す。柚葉が要らないと言うと逆ギレする。
秋彦は酔いが回ると暴力的になる。口の悪さにも拍車が掛かり、非道い時は柚葉の頬を抓る。止めて、柚葉が痛がってると制するのだが、静止を振り切って逆代まがいのことを平然とする。
この人は親の自覚がないのだ。
離婚したのは正解だったのかもしれない。秋彦にとって柚葉は躾のなってない犬程度としか思っていないだろう。そうなのにこのおとこは浮気をした挙句に子どもを作っている。見境がないのではなくただ節操がないだけなのだ。
おんなであれば誰でも良いのかもしれない。
性欲の捌け口としてセックスをしている感覚なのだろう。
秋彦と付き合うことになった時も彼の素行を知っている人から、彼は最初はとてもいいんだけどね、ただ付き合いが長くなるに連れて、何と言うか、横暴になるんだよねと言っていたのを漸く理解する。
情況を好転させる方法はいくらでもありそうなのに、私は無視していたのだな。もし私が聞き分けが良かったら、柚葉は死ぬことも無かったろう。秋彦を解放させるのがいちばんの特効薬かもしれない。
仕事場と言っても、教官室は言うほど出入りは多いとは言えない。
いつものように食堂で昼食を摂っていると、
「珍しいですね、食堂で食べるなんて」
「そう?」
「普段はお弁当を作ってるじゃないですか」曲澤は言う。彼の言うとおり平素は弁当を教官室で食べるのがルーティンとまでは行かないけれど、時間に余裕がないので自然とそうなってしまうだけなのだが。「
「何か解った?」曲澤は私が時間遡行していることを知っている唯一の人物。と言うより、何故か彼に見抜かれてしまった。一瞬、曲澤も時間遡行しているのではないかと疑ったが否定された。ではどうして私が非現実的な現象に巻き込まれていることに気が付いたのか尋ねたら、普段しない行動を取っているからですと答えた。良く見ているなと感心してしまった。
教官室に来て最初にすることはコーヒーを淹れる。それからメールチェックとその日に行われるあれやこれやの確認。講義が入っていれば曲澤に小事を頼むが、記憶を引き継いで私は時間遡行しているので、その日に行われることは把握済み。よって、コーヒーを淹れるだけで事は終わる。
日頃から私の動きを見ていないと確信する以前に疑問にすら抱かない。仮令気づいたとしても時間遡行していると思わないし至らない。曲澤は否定しているが私自身は彼も一定の時間軸を繰り返していると予想している。
「何も。古今東西、ありとあらゆる時間に関する論文を精査しましたが、游河先生の身に起こっている現象に就いて書いているものはありませんでした」
「そうだよねえ」
「時空転移に関する論文はありましたね」曲澤は言う。
「次元移動のことでしょう? 私は時間遡行だから」
「タイムトラベルにしろタイムリープにしろ、研究者の間でも眉唾ものと解釈されているんですね」
「有り得ないことだからね」その有り得ないことを研究するのが私たち研究者の仕事なのだが、現象を説明する数式も持たなければ前例もないので研究のしようがないのも事実。オカルトと肩を並べるようなものだしね。
「先生は実際に体験していますから眉唾では無くなりましたよ」曲澤は不敵な笑みをうかべた。
講義を終えて、教官室に戻る道すがら学生に話し掛けられた。
「游河先生、お時間宜しいですか」
「
「そうではなくてですね」口に出しにくいことでもあるのか彼女は鞄を握りしめながら口を噤む。眼を凝らして見ると彼女が使っている鞄、ブランドものだ。裕福な家庭出身なのかしら。最近の学生はあたりまえのようにハイブランドを身に付けているのを見掛けるから、私たちの年代に比べて親しみ易くなっているのだろうか。あとで曲澤に尋ねてみるとしよう。「相談したいことがあるんです」
「相談したいこと?」
「はい」
「その相談、私でいいの? 皆瀬さん、何処の学科だっけ?」
「数学科です」
「私の講義は選択に入っていないはずよね?」
「そうですけど、先生がいいんです」皆瀬は言う。
前回とちがう行動に出るとまったく別のイベントが発生するらしい。この辺の仕組みはゲームに通底するものがある。
「教官室に戻るから一緒に来る?」皆瀬に訊くと彼女ははいとか細い声で言う。
学科のちがう学生を教官室に招き入れるのは皆瀬がはじめてだ。
曲澤が福笑いみたいな顔で出迎えてくれる。事情を話すと生返事でそうなんですかと言う。私が学生を連れて来たことに驚いているのか、彼女に驚いているのかどちらだろう。
ソファに座るよう勧める。
曲澤が煮詰まったコーヒーを出す。少しは気を利かせなさいよと言うと、朴念仁は飲み終わっていないのに新しく作るほうが勿体ないですと反論してくる。
生意気だ。
「相談と言うのは何?」改めて私は尋ねる。
「その、セクハラが横行しているの知っていますか?」なる程、確かにその話題は往来のあるところで話せるものではない。曲澤が聞き耳を立てながら仕事しているのが見える。
デビルマンじゃないんだから。
「セクハラは何処でも存在するから目新しさに欠けるわね」
「そういうことではなくてですね」皆瀬は言う。さっきは気付かなかったが左手薬指に指輪をしている。「
芥子家の三文字が耳に届いたのだろう。曲澤の口が歪むのが見えた。
「曲澤くん、こっちに来たら? 気になるのに聞き耳立てられるほうが気持ち悪いから」
私は空席をぽんぽんと叩きながら縮こまった背中に声を掛ける。
「いいよね?」皆瀬に尋ねる。「正直私より彼から聞いたほうが早いよ」
皆瀬は困惑顔をうかべてかたつむりみたく丸まった背中に視線を向ける。
観念した曲澤はばつの悪そうな顔で私の隣に腰を下ろす。
「芥子家准教授と何かあったんですか?」皆瀬は早速口を開く。
「何かって言うか、あの人、兄貴です」曲澤は打ち明ける。
「え、でも、苗字ちがいますね」当然の反応をする。「異母きょうだいとかですか?」
「血縁です」曲澤は言う。「うちは複雑なんです。お−−私が誕生してまもなく、児童養護施設に送られました」
「え−−どういうことですか。取り上げられてまもなく捨てられたということですか」皆瀬は言葉を取り繕わずに言う。
「言葉を選ばずに言えばそうなります。私の実家は続けておなじ性別が生まれるかおんなの子が生まれた場合、里親に出すか、施設に出すかを繰り返していました。私とあの人は双子でした。先に取り上げられた彼は兄、後に取り上げられた私は弟になります。芥子家家の規則上おなじ性別が生まれた場合は追い出されるので私は必然的に芥子家家の人間では無くなりました。曲澤は養子先の苗字です」
曲澤は自身の出自を語る。私もこの話を聞かされた時、茫然とした。
「芥子家准教授はこのことをご存知なんですか?」
「知っていますよ。跡取り息子ですから」あっけらかんとした口調で彼は言うが内心は複雑な心境だろう。芥子家准教授の話はなるべくしないようにしているのだが、腐っても血縁。気になるのだろう、吐血する思いで毎回聞いている。
「大学を辞めようと考えたことはないんですか。だって厭じゃないですか、おなじ大学にいるのは」
「游河先生がいるのはこの大学ですから。厭とかそういう問題はとっくに終わってます。幸い、学科がちがうので顔を合わせることもないのが救いです」
「そうですか。私が芥子家准教授に言い寄られている話は厭ですよね」
「何度も厭かどうか尋ねられるほうが胸糞悪いですよ。貴女は慮ってるつもりで話してるのかもしれないですけど、普通に失礼ですし、配慮が足りない」
彼は物事をはっきりと言うタイプだ。
皆瀬は口を開けた儘呆けている。
「兄貴のおんな癖の悪さは眼に余ります。結婚する気ないのに、勝手に期待させて、気分が天辺まで行ったところで捨てるのがあのおとこが醍醐味にしていることです。碌な人間性ではありませんよ。あの若さで准教授の地位にいるのは研究者として評価されているからです。それに対して私は未だに助教です」
「気にしていたんだ」私は揶揄う。
「気にしますよ流石に。きょうだいと知られていないからまだいいですけど、もしこのことが明るみになったらコンプレックスで圧し潰される気がします」
「皆瀬さんには黙っていてもらわないと行けないね。どうする? 口でも塞ぐ」
「怖いこと言わないでくださいよ。先生の場合、本当にしそうですから」
「失礼ね」私は微笑む。「曲澤くんの話を聞いてどう思った?」
「考えてみます」皆瀬は言う。
彼女はコーヒーに口を付けない儘教官室を辞去する。
「言わなくて良かったんですか?」曲澤は皆瀬が出て行ったあとに言う。
「何を?」
「先生が兄貴と付き合ってたことです」曲澤は言う。
「昔の話だからね」
「そうですか。先生がそういうならいいですけど」
自棄に意味深な物言いをする。
その日の勤務を終えて、保育園に柚葉を迎えに行く。
家に直行する前にスーパーに寄って買い物を済ませる。
秋彦から電話が掛かってくる。
「遊木巴済まない。きょう、付き合いで飲みに行くことになったから、晩飯要らない。好きなもの食べてくれ」
「また。三日連続だよ。いくらなんでもさ、家庭を顧みないのどうかと」
最後まで言う前に電話は切れた。
秋彦は叱責を受けるのを極端に嫌う傾向にある。私の小言は彼にとっては毒でしかない。折角の買い物が台無しになってしまった。
「お父さん、仕事で遅くなるからファミレスに食べに行く?」
「ママのつくったのがいい」娘に気を遣わせてしまった。駄目な親だ。
「そうか。じゃあ帰ろうか」
夕方六時過ぎに自宅に到着した。
お風呂を入れる。お母さんと入れちがいになったようだ。テーブルに料理が並んでおり、温めて食べてねとメッセージが残されていた。
色んな人に迷惑を掛けているな。
インターホンが鳴る。
柚葉がパパだ!と言ってリビングを出てしまう。そのはずがない。まだ七時前だ。柚葉を追い掛けるべくリビングを出る。
廊下を抜けると、俯せで倒れている娘の姿が。
「柚葉!」娘を抱えると腹部から出血している。顔を上げるとそこには、フードを被った人物が真っ赤に染まった凶器を手にして突っ立っている。
「柚葉が何したって言うの」私は大声を張り上げる。
相手は何も言わない。逃げる素振りを見せるかと思ったが、凶器を振り下ろす。
娘を抱き抱えていたのもあり、逃げるのが遅くなり凶器が肩に突き刺さる。痛みが走る。続け様に腹部を刺す。深く刺しているの解る。勢い良く抜いた所為で、視界が揺らぐ。玄関に血液が溢れる。
「貴女が余計なことを言わなければ」相手は言う。女性の声だ。そうなると皆瀬が候補が上がるが、あれしきのことで殺しに来るだろうか。それとも彼女が去ったあとの会話を聞かれていた? もしそれが原因であるならもっと会話に注意するべきだった。
反撃に出たいが余力は残されていない。進展がない儘終えてしまうと言うの?
弱りに弱っている私に止めを刺す絶好の機会を相手が逃すはずもなく、私は敢えなく絶命した。
私の行動ひとつで何もかもが変わってしまうことは大きな収穫と言える。
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