どうしても、あなたと……

蟻村観月

プロローグ

「離婚して欲しい」


 仕事から帰宅するなり秋彦あきひこはそう言った。

 突然のことに私は戸惑いを隠せなかった。

「え、何? 上手く聞き取れなかったんだけど……」髪の毛を耳に掛けながら私は言う。眼が遠泳し出す。秋彦に動揺しているのがはっきりと伝わったにちがいない。気まずそうな顔をするのが見て取れたからだ。

「離婚して欲しいんだ」聞き逃すことを断乎として赦さない声音で秋彦は言った。

「理由、訊いてもいいかな?」

「理由……」今度は秋彦の眼が動く番だった。「訊いて意味ある?」

 月並みなことを言う。台本でも憶えて来たのだろうか。それとも誰かの入れ知恵か。

「あるとかないとか関係ないでしょ。離婚したいと言われてさ、急に。それで、はい、そうですかと言えるわけないじゃん。私そこまでメンタル強く出来てないよ。それに秋彦くんも判っているんだよね? 柚葉ゆずは、来年小学校だよ。そのことを解った上でその発言してるの?」

「なあ、落ち着けよ」

「落ち着いてるよ!」

「いや、落ち着いてないだろ、どう見ても」秋彦は言う。

「落ち着いてるってば!」

「いいや、落ち着いてないのは遊木巴ゆきは、君だ」優しく私の肩を抱く。「柚葉はいないんだよ。俺たちの娘は死んだんだ」

 そんなこと言わないで。

 仮令そうであっても死んだ、なんて口にしないで。

 まだお葬式をしてあげられていないんだから。もう関係ないからそんな冷たいことを簡単に言えるのかもしれないけれど、割り切れてしまえるのかもしれないけれど、私たちの子どもであることに変わりはないんだよ? どうしてそこまで突き放せるの?

 信じられない。

 私はまだ柚葉の死を受け止め切れていないと言うのに……

「あの娘がいないから私と離婚したいの?」私は尋ねる。

「そうじゃない」秋彦は首を振る。「ただ、その……」

 言いにくそうな顔で私を見る。気まずそうな表情をする時は決まって後ろめたくて口に出したら私に叱られるのを知っているから。子どもが悪さを隠すのと一緒だ。叱られたくないから子ども騙しで誤魔化す。そうすれば怒られずに済むのを知っているから。でも貴方はもう大人でしょう。社会的地位もあって、たくさんの頼れる部下がいて、何でも話せる同僚もいる。子どもの親なんだから恥ずかしそうにしないで。

 見苦しい。

「料理が冷めちゃうから靴脱いで」私は背を向ける。秋彦は言われるが儘にスリッパに履き替える。「あー、でもこの時間だからもう食べないか」

「いや、遊木巴が作った料理だから食べるよ」力なく秋彦は言う。先程までの元気は何処かへ霧散してしまった。妻に見透かされたのを肌で感じ取ったようだった。哀れな人だ。眼に見えて気落ちするなら最初から素直になれば良いのに。

 秋彦が食べると思ってきょうは彼が好きな献立にしたのに、凡てが無駄になってしまった。盛り付けにまで拘泥こだわったというのに。リビングに入って来た秋彦が背後で何やら言っているが貴方が悪いの。

 普段であればネクタイを緩めて上着を脱ぐ秋彦がそのままで椅子に座るのをはじめて見た。

「何か飲む?」秋彦には私が悪魔に見えているのか判らないが遠慮すると言って苦笑いをうかべる。「珍しいね、飲んでも来た? そんなわけないか」

「このあと誰かと飲むみたいな物言いだね」私は秋彦を見る。


「……妊娠したんだ」


 お皿が割れる音が真下からきこえた。音のするほうを見ると手に持っていたお皿を落としてしまったらしい。

 予想していなかった。

 私が予想していた斜め上の事態が起こっている。

 正直に飲み込める自信はない。

 今の私に旦那の犯した罪を自覚出来る自信は、微塵もありはしない。

 私に見抜かれたと思ったから秋彦は白状したに過ぎないと言うのに。

 秋彦の顔色が悪くなって行っていることにすら気付かないくらいに私は動揺している。有り得ない事態が事象が私の眼の前で巻き起こっている。

 どうしたら良いのだろう。

 どう反応するのが正しいのだろう。

 判らない。

 何も判らない。

 最悪を予想していた。

 その最悪を軽々と凌駕するなんてまったく思っていなかった。

 てっきり私は結婚したい相手がいるから離婚したいと言い出したとばかり思っていた。見通しが甘かった。詰めが甘かった。

 秋彦のことを何も知らなかった。

 柚葉が死んでいなかったら貴方は外におんなを作らなかった? 孕ませたりしなかった? 柚葉がこの世にいないから貴方は代わりを作ることにしたの?

 私がいるのに? 

 私では役不足だと言うの? 

 もう代わりになりはしないと言うの? 

 ヒステリーを良く起こすから? 

 メンタルに不安があるから?

 子宮に問題を抱えているから?

 セックスの相手に相応しくないと貴方に烙印を押されてしまった私はおんなとしての価値はないのね。

「相手は誰なの」

「……言えない」秋彦は死んだ魚みたいな声で言う。「何も知らずに離婚してくれないか。頼む」

「納得出来るわけないでしょ」

「納得出来る出来ないの問題じゃないんだ」秋彦は言う。今にも死にそうな顔をしている。「遊木巴は知らないからそんなことを言えてしまうんだ。もしこのことを知っていたら恐れ多くて口に出来るはずがない」

 私は誰と会話しているのだろう。

「何を言っているの? 秋彦くん、大丈夫」私は秋彦の肩に手を置く。「ねえ、教えてくれる? 込み入った事情でも私、受け止めてみせるから」

「生温い覚悟で言うなよ。何も知らない癖に。呑気なものだな」秋彦は言う。

「大事なことを隠しているんだもの、判るわけないでしょう」

「俺はちゃんとシグナルを出してたぜ? 気付かなかった遊木巴が悪い」何を言っているんだ、この人は。この展開を招いたのは私に責任があると言いたいの。何処まで自分勝手なんだ。「とにかく、記入してくれ」

 秋彦はスーツの内側から四枚に折られた離婚届が出て来た。酩酊状態で書き殴った文字が既に記入されていた。婚姻届もそうだけど、秋彦の悪筆は本当に眼も当てられない。

「記入する前にひとつだけ質問がある」

「何だ? 答えられる範囲にしてくれよ」

「この離婚は柚葉の死と関係ある?」

「は?」

「娘が死んだから外のおんなを妊娠させて、気を紛らわせようとしたの? それとも種馬扱いされて、気持ちよくなっちゃって、妊娠させたの?」

 どちらでもしたことは最低。到底赦される行いではない。

 秋彦は眉間を揉む。

「答えられない範囲の質問をするなと言ったはずだ」

 自白したようなものだ。

 秋彦は自分の発言にいまさら気付いたのか、面を上げてあからさまに狼狽する。口がわなわな動いている。見苦しい。墓穴を掘っている。策士策に溺れるとは良く言い表したものだ。

 秋彦は弁明を饒舌に言うが聞く耳を持っていない私に届くはずがない。

「ちがう、ちがうんだ。いや、ちがわないのか」情けない姿をした秋彦。柚葉がいたらせせら笑っていたろう。

「みっともないわね」

 こうして私たちの結婚生活は終わりを迎えた。

 秋彦は離婚届を手にして家を出て行った。

 愛しの子宮の元へ−−


 結婚をした時にシングルになる未来を想像していなかった。

 可燃ゴミを出して仕事に行く準備をする。

 柚葉の渾身の笑顔に挨拶をする。

 電車の時間に間に合う。

 駅に向かって歩く。

 きょうは随分と往来が多いなと思っていると市が開催するマラソン大会が行われるようだ。沿道には既に大勢の人で賑わいを見せている。人集りを上手いこと潜り抜けて駅に到着する。交通規制が取られていてタクシーを摑えて行くことは実質不可能だった。

 電車が来るまで三分ほどある。

 自販機で缶コーヒーを買おうと思ったら、売り切れが表示されていた。こんなこともあるのか。

 離婚した翌日なのだから少しくらい気を遣ってくれてもいいのではないだろうかと思っていると、話し掛けられた。

「コーヒー、一本多く買ってしまったので良かったらどうぞ」若くて奇麗な女性だった。私は財布からお金を取り出そうとしたのだが、彼女は受け取るわけには行きません。ただの好意ですと言ってコーヒーを渡して何処かへ行ってしまった。今時優しさに溢れる人がいるとは。

 プルタブを開け、コーヒーを喉に流し込む。

 一点の濁りもない新鮮な空気をコーヒーとともに体内に取り入れるのは格別。

 電車が見えたので点字ブロックに内側に立つ。

 徐々に人が増える。さっきの女性は何処にいるだろうと思い、ほうぼうを見渡してみるが、いない。結局あの人は何だったのだろう。

 電車がホームに滑り込んで−−

 私の眼前に電車が。

 −−は?

 後ろを振り返るまもなく私は電車に轢かれた。


「……ママ。おなかすいた」

 夢でも見ているのだろうか。空腹を訴えてくる柚葉の姿があった。離婚したはずの秋彦が笑顔を湛えている。

「ママのふれんちとーすとがたべたい」柚葉は私のズボンを力なく叩く。

 ホームに投げされた私は確かに電車に轢かれたはず。

 それではここは死後の世界? それとも私の妄想の具現?

 秋彦は呑気に朝のワイドショーを観ながら、コーヒーを飲んでいる。

 私の身に起きたことなど露知らずに平然としていられるものだ。離婚などしていない風を装っているけど、離婚したいと言って来たのはあんただぞ。

 第一何時家に帰って来たんだ。出て行ったのをこの眼で目撃している。忘れ物でもした? そうだとしたらソファで寝たのだろうか。

 度量が大きくないと離婚したいと言って出て行ったあとに戻って来れるはずがない。どんな神経をしているのだ、こいつは。

「フレンチトースト作ってあげればいいじゃないか」秋彦は何処までも呑気なことを言う。元はと言えば、あんたが。

「ママ、ふれんちとーすと」柚葉は懇願する。今まではこれがあたりまえだったに存在していたのだ。この風景が私たちにとっての日常だったのだ。

 それなのに……

「ママ、どうしてないてるの?」柚葉は言う。

「本当だ。遊木巴どうしたんだ」秋彦が近寄って来る。すぐ眼の前に私に離婚しようと言って来たおとこが涙を拭う。「本当どうしたんだ?」

「どうって、だって、柚は生きてる、秋彦くんは優しい」

「柚が死んだみたいな言い種をするな。疲れてるんじゃないのか? 秋彦さんは遊木巴ひと筋なんだから、優しくするさ」平然と嘘を吐く。本当にそうなら離婚したりしないし、妊娠させたりしない。

「離婚したいんじゃないの?」涙が止まらない。「優しくしないでよ」

「何を言ってるんだ、お前」秋彦は戸惑いの顔をする。柚葉は私たちの会話を心配そうに眺めている。

 良くない良くない。

 これは夢なんだから。悪態を吐いたって仕様がない。

「二〇一八年六月十三日もはりきって参りましょう!」

「きょうって六月十三日?」テレビから流れて来る音声に唖然とした私は秋彦に尋ねる。

「そうだけど、本当にどうしたんだ。仕事に追われて疲れが出てるんじゃないのか」

 いや、そんなはずがない。

 そんなはずがない。

 これは夢、紛れも無い夢のはず。

 その、はずなのに。

 六月十三日は柚葉が亡くなる四ヶ月前。

 秋彦に離婚を言い渡される五ヶ月前。

 いったい、どうなっているの。

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