第5話

「あちきもついていって良いでありんすか?」


 先程までの顔とは全く違う表情が時雨しぐれの顔に浮かんでいた。

寝ぼけていた顔も、場を凍り付かせた顔も、おどけていた顔もなく、真剣な表情だった。

勘左衛門かんざえもん東雲とううんは暫く見つめ合い、ついてきて良いと返事を返した。

そして、四人は東風こちのいる部屋の前に着き足を止めた。


東風こち勘左衛門かんざえもんだ。

今日は東雲とううん先生に往診を頼んだ。

入るよ」


 薄暗い部屋の中、東風こちは布団の中にくるまっていた。

部屋には微かに淫水いんすいの匂いが漂っている。

勘左衛門かんざえもんは入らず、東雲とううんと男弟子が中に入った。

時雨しぐれは部屋が空いた瞬間から鼻をひくひくさせ、匂いを追っているようだ。


東風こち、ちょっと診察をさせておくれ」


 何も反応がないので男弟子が東風こちの布団を引きはがす。

二人はおもわず目を疑う。

東風こちは床の上で丸まっていた。髪はぼさぼさで血色も悪い。

そして手は陰部いんぶへと延び、手淫しゅいんの最中だった。

なにより目を引いたのは床に広がる淫水いんすいの染みである。

それは通常の淫水いんすいの量では考えられないほどの染みであった。

粗相そそうをした子供のそれのように広がっている。

男弟子が東風こちの身体を仰向けに寝かせ、長襦袢ながじゅばんと腰布を脱がせてゆく。

東雲とううんがすべてを脱がせ終わった東風こちの身体を隅々まで調べてゆく。


 そして、二の腕の差し掛かったとき、東雲とううんの目線の動きが止まった。

腕を持ち上げじっくりと観察する。

それは両腕におよび、何かを考えるそぶりを見せた。

東雲とううんの診察はそこから下へは行かず、顔に戻った。

首筋に手を当て、口を開かせる。

そして口の中の匂いを嗅ぐ。そしてまた何かを考え込む。

おもむろに、淫水いんすいの染みたところへ手を伸ばすとまだ湿っている床に指を当て、湿りを指に付け、匂いを嗅ぐ。


茂蔵しげぞう、診察してみろ」


 東雲とううんは男弟子の名を呼んで場所を譲る。

茂蔵しげぞうと呼ばれた男は東風こちの身体を上から下まで観察し、まぶたを開き目を観察する。

心の臓の音を聞き、東雲と同じように口の中の匂いと淫水いんすいの匂いを嗅ぐ。

そして自分の考えを述べ始めた。


「正直、分かりません。気になったのは腕にできた裂傷と淫水いんすいの量くらいでしょうか。

爪の間に皮膚がありますので自分でやったのだと思います。

しかし、深さが異常です。

普通はここまでできません。

それと心の臓の動きが幾分鈍いような気がしましたが、これはまだ問題ないと思います。呼吸も少し浅いような気がしました。

先生のまねをして口の中と淫水いんすいの匂いを嗅いでみましたが、特に何も感じませんでした」


 これが茂蔵しげぞうの診断の結果である。東雲もうんうんと頷いている。

納得したように頷いているがその表情は険しいものだった。


「まだまだ、半ばだの。

だが通常の町医者やそこらのやぶ御殿医ごてんいと比べてみれば上出来だ」


東雲とううんの言葉にうれしいような何か釈然としないような表情を浮かべた茂蔵しげぞうがいた。


「正直、儂もそこまでは同じだ。ただし、少し違うのは口の臭いと淫水いんすいの匂いだ」


 東雲とううん茂蔵しげぞうと場所を交代しながら、もう一度東風こちの口を開き、匂いを嗅ぐ。

東雲とううんがふと目をあげるといつの間にか目の前に時雨しぐれがいた。

時雨しぐれも腕の傷をそっと撫でて、その後、口の中の匂いを嗅いでいた。


「……そういうことでありんすか」


時雨しぐれの言葉はいつになく暗く、厳しいものであった。

東雲とううんと目を合わせ二人が同時に頷いた。

二人の顔にはわずかながら落胆の表情が浮かんでいる。


東雲とううん先生、何か分かったのですか。

時雨しぐれもなにか分かったのなら教えてくれ」


 部屋の外から見守っていた勘左衛門かんざえもんが、心配そうに中を覗き込んでいた。

そばにはお京も姿を現している。

年季奉公ねんきぼうこうの者、苦界の者とはいってもこの喜瀬屋きせやで働く者である。

 勘左衛門かんざえもんは娘に接するように心がけていた。亡八ぼうはちと世間で呼ばれていても心配する心は大きい。

東雲とううん時雨しぐれは揃って勘左衛門かんざえもんの方を向いた。


 同時に二人の口から聞きたくない絶望的な言葉が発せられた。


阿芙蓉あふようだな……」

阿芙蓉あふようでありんす……」


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

阿芙蓉あふようじゃと?!」


 二人の言葉を聞いた勘左衛門かんざえもんとお京はその場へへたり込んだ。

遣手婆やりてばばのお京に至っては顔色を真っ青にし、身体をがくがくと震えさせている。

 阿芙蓉あふようのその症状と末路はよく知られている。

強力な中毒となり廃人と化す。

直す術はない。

 阿芙蓉あふようは幕府管理の元、少量、医術用としてしか出回っていない。

管理状態も非常に厳しいものだ。


「し、しかし先生、阿芙蓉あふようを吸引した際に出るという青班せいはんなどは身体のどこにも……」


 先程診察した茂蔵しげぞうが信じられないという顔で再度東風こちの全身を調べている。茂蔵しげぞうは自分の持てる知識を総動員していた。

医学書で学んだ症状の半分も症状が出ていない。

茂蔵しげぞうははっと顔を上げ全員の顔を見渡した。


「こ、この部屋の他の遊女ゆうじょたちに同じ症状は……」


 基本的に阿芙蓉あふようは吸引が主だ。

当然近くにいる者達にも多少は影響が出るはずだ。

その言葉に勘左衛門かんざえもんはさらに顔を真っ青にし震えているお京にすぐに指示を出す。


「お、お京。この部屋の娘達をすぐに私の部屋に集めろ。

すでに客を取っている者もだ。

旦那衆には支払額の倍、い、いや三倍の金を払って帰ってもらえ! 後日、私がお詫びに行くと伝えて……」


 慌てて部屋を飛び出してゆくお京を見送り、飛び掛かるように東雲とううんに詰め寄る勘左衛門かんざえもん


東雲とううん先生、とりあえず私の部屋へ……、他の者達の診察をお願いします」


慌てて部屋を飛び出してゆく勘左衛門かんざえもんの後を東雲とううんが追う。


茂蔵しげぞう、取りあえず両手を布で固定しておけ。治療には根気が必要だぞ。後で見に来る」


 そう言うと東雲とううんは部屋を出ていく。

部屋には茂蔵しげぞう時雨しぐれのみが残った。

 茂蔵しげぞうはとりあえずさらしを取り出し、東風こちの動きを封じるように束縛してゆく。

東風こちを束縛しながら茂蔵しげぞうが口を開いた。


「姫、姫は何故阿芙蓉あふようだとお気づきに……」


時雨はにっこりと笑って茂蔵しげぞうを殴りつけた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る