第4話

「旦那様、あれはいったい……」


 遣手婆やりてばばのお京が勘左衛門かんざえもんに声をかけてきた。

 お京は三十後半の女で以前はここ喜瀬屋きせや太夫たゆうを張っていた。

年季ねんきが明けて吉原よしわらから出られるようになっても、間夫まぶもいないし、帰るところもない。ということで遣手婆やりてばばとして残り、遊女ゆうじょ全体の管理をしていた。

 今は勘左衛門かんざえもん情婦じょうふでもある。

大概のことには驚かないお京ですら顔をしかめて表に出てきたほどだ。

 東風こちが客を引いてすでに二刻にこくが過ぎている。

外は夕日が差し、吉原よしわらの大通りにも段々と人が増えてきた。

東風こち嬌声きょうせい喜瀬屋きせやの前を通りかかる男達が足を止め、何事かと覗き込む。

 そのようなことが一刻いっこく半ほど前から続いていた。

当然、他の遊女ゆうじょ達からも文句があがっている。

しかし、事の最中に止めに入るわけにはいかない。


「ふぅむ」


勘左衛門かんざえもんは手を組み考え込んでいた。


(なんだ、いったい。

さすがにあの声は普通じゃない。

しかも二刻にこくも叫び続けている。

ただ、声は苦痛のこえではないのだよなぁ。

うぅむ) 


じっと考え込む勘左衛門かんざえもんの横にお京が座る。


「あのぅ、源五郎げんごろう親分を呼びましょうか」


 源五郎かんざえもん廓者くるわものの頭領で先日の白雨はくうの件でも始末をつけてくれた。

荒っぽいがほとんどの問題は解決してくれる存在だ。


「うん?

いや、もう少し様子を見よう。

かれこれ二刻にこくだ。

持久力があって抜かぬかろくをやったとしてもそろそろ終わるだろう」 


「時間は良いのですが、あのこえがねぇ」


 二階を見上げながらお京が溜息をつく。

お京もかれこれ三十年近くこの商売に関わっているが呆れかえっていた。

 

「ま、あと半刻くらい様子見だ。

お京、すまないが他の遊女ゆうじょたちを押さえてくれ。

それと旦那衆から文句が来たら知らせてくれ。

私が謝罪に行こう」


「わかりましたよ。

では行って参ります」


お京は立ち上がり、格子こうし部屋の方へと歩いて行った。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 先日の東風こちの件は相手が絶倫だったということでけりが付いた。

あの後、一刻後には静かになり、商人風の男は宿泊する。

それ以後嬌声きょうせいが上がることはなく、夕餉ゆうげだけが運ばれていった。

商人風の男は迷惑料と言って五両もの大金を置いていった。


 それから数日、東風こちは雰囲気ががらりと変わる。

今までと一線を画すような妖艶ようえんな雰囲気を醸し出し、客を引き、嬌声きょうせいを上げる。

それは時折旦那衆から苦情が出るほどのものだ。

もっとも東風こちを相手にした客からの評判は良い。

身体つきも良くなり具合もかなり良いという風だ。


 勘左衛門かんざえもんもそうなっては東風こちに文句を言うわけにもいかず、時折苦情の出る客に詫びを入れることになった。


ただ、一月も経ったころ、それは起こった。


「なんで、東風こちという遊女ゆうじょとは遊べないんだ!」


喜瀬屋きせやの店先で怒号が響き渡る。


 一人の若者が大声を上げたようだ。

 あの日以来、東風こちを買おうと大勢の男達が江戸中から集まっていた。

それほど良い評判が吉原中、江戸市中まで広がっていたのだ。

 しかし、肝心な東風こち張見世はりみせはおろか、見世みせ自体に顔を出さない。

需要はあるが供給が全くされない状況に陥っていた。


 これには喜瀬屋きせや勘左衛門かんざえもんも頭を抱えていた。

それは東風こちの状態にもあった。

先日から東風こちの様子がおかしくなったからだ。

 突然意味の分からないことを叫び出し、体が震え、小水を所かまわず漏らすようになった。

それから食事もとらなくなり、寝込むようにもなった。

 同室の者からは気味が悪い、部屋を変えて欲しい等中から苦情が出始める。

見世で客引きの最中に手淫しゅいんを行い役人から指導を受けたほどだ。

その後は勘左衛門かんざえもんの指示で見世には出さなくした。

日がな一日手淫しゅいんを行い仲間の遊女ゆうじょたちは離れていった。


東風こちですがお医者様に見ていただいた方がよいと思います」


 同室の遊女ゆうじょから抗議が入った数日後、お京が勘左衛門かんざえもんに申し出てきた。

勘左衛門かんざえもんもそのことは頭の片隅にはあったが見世みせの評判にもかかわる。

 しかし以前見世みせを引っ張る太夫たゆうを経験したお京が様子を見てそう言うのだ、よっぽどのことなのだろう。


「そうだな、一度東風こちを医者に見せてみようか。

これから医者を呼ぶのでみんなに部屋から出るように言っておいてくれ」


 勘左衛門かんざえもんはそれだけをお京に伝えると若い者に医者を呼びに行くように伝える。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 遊女ゆうじょ達の健康管理を任せている町医者がやってきた。


喜瀬屋きせやさん、何か大変なことになっていますな」


 この者、名を東雲とううんという。

吉原の医療を一手に引き受けている人だ。

歳の頃は四十代後半、壮年のがっしりとした体格だ。

とても医者とは思えないほどの体つきをしている。

弟子らしき荷物持ちを二人連れている。

男女二人だが、また大した面構えだ。

 男の方は三十代であろう。

東雲とううんと変わらない体格をしている。

勘左衛門かんざえもんから見ても何某なにがしかの武術をやっているように見える。

 一方の女性の方は二十そこそこといったところだ。

一見華奢きゃしゃなようには見えるが動きに隙が無い。

絶えず周囲に目を配っている。


 医者の東雲とううんは入り口付近に腰を下ろした。

直ぐに下女げじょが足を洗いにやってくる。

勘左衛門かんざえもんもすぐに東雲とううんの横に近づいて行った。


「いや、お恥ずかしい。お待ち申しておりました。お手数をおかけいたします」


勘左衛門かんざえもんは申し訳がなさそうに言う。


東雲とううん先生、申し訳ないですが、東風こちのやつが部屋から出られる状況ではないので、そちらの方で診察をお願いいたします」


 勘左衛門かんざえもんは立ち上がりながら東雲を奥へと誘う。

東雲とううんは黙って頷くと弟子を連れて見世の中へと入ってゆく。

二人の弟子も足を洗ってもらい、東雲の左右に控える。

 裏手の方へ入ると奥から着物を着崩し、ふらふらとした足取りで一人の遊女ゆうじょが現れた。

太夫の時雨である。

寝起きらしくまだ髪は結っていない。

どうやら昼風呂に入るつもりらしい。

ここ喜瀬屋きせやでは遊女ゆうじょのために一日中風呂を沸かしている。

これは江戸市中すべての風呂屋でもやっていないことだ。


「あら、東雲とううん先生じゃござんせんか」


 時雨しぐれは寝ぼけ眼を擦りながら、深々とお辞儀をする。

着崩れた着物の胸の間から白く深い谷間が露わになった。


「おやおや、時雨太夫しぐれだゆう。おはよう」


 東雲とううんはにこやかに挨拶をし、勘左衛門かんざえもんの後に続く。二人の弟子達も軽く頭を下げ一緒に歩いて行く。


「お美津みつちゃん。

殺気が洩れすぎよ」


 すれ違いざまに時雨しぐれの今まで寝ぼけていた眼と口調が一瞬で変化する。

氷のような冷たい気配がその場を支配した。

歩いていた四人の歩みが止まる。

 お美津みつと呼ばれた女弟子の顔色は真っ青になっていた。

道具箱を持つ手がかたかたと震えている。

それは明らかに怒りではなく恐怖のそれだった。

 勘左衛門かんざえもん東雲とううん、男弟子、三人とも同じように足を止めていた。


「……あ、あ、あの、その」


 お美津みつと呼ばれた東雲とううんの弟子は喉の奥から言葉を出そうとして必死になっているようだが、全く言葉になっていなかった。

すでに身体がすくみ、どうにもならないようだ。

思考も止まっているようだった。


「駄目よ、もっと修行しなさい」


 時雨しぐれが急に優しい声を出した。

その場の空気が一瞬にしてもとのそれに戻る。

美津みつはその場にへたり込んだ。

顔色は相変わらず真っ青のままだ。


「ところで東雲とううん先生、今日は何をなさいにこられたのでござんすか。

今日はまだ診察日では無いはずですが……」


 時雨しぐれはお美津みつを抱き起こしながら、東雲の方を向く。


「なぁに、東風こちの様子を見に来たんだよ」


 その返しに時雨しぐれの眼つきが鋭くなった。

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