第6話

 茂蔵しげぞうは一瞬気が遠くなるのを感じたが、すぐに意識を引き戻した。意識は戻したが足には力が入らず、床の上にへたれこんだ。

茂蔵しげぞうの目に美しい微笑みを浮かべながら氷のような眼をした時雨しぐれが映っていた。


「し・げ・ぞ・う・さん。二度と口にしてはいけませんよ。次はないですよ」


 時雨しぐれくるわ言葉を使っていない。

朗らかな口調だが、明らかに殺気というものが時雨しぐれ茂蔵しげぞうの間にあった。しかも殺気は先程お美津みつが浴びたものより遙かに強烈なものだ。茂蔵しげぞうが殴られていなければ確実に気を飛ばしていただろう。


「す、すみません。時雨しぐれ殿……」


 東風こちの腕を負担無く結び終えた茂蔵しげぞうは一言だけ謝った。それ以上の言葉は無い。ただ俯くだけだった。

時雨しぐれは何事も無かったように部屋の中を物色していた。特に東風こちの荷物を中心に。

そして、ひとつの空の筒を取り上げた。鼻をひくひくさせて中の匂いを嗅ぐ。それを茂蔵しげぞうの足下に放り投げた。


茂蔵しげぞうさん、匂いを嗅いでみてくんなまし」


 時雨しぐれはすでに元に戻っていた。軽く笑みを浮かべながら茂蔵しげぞうの足下に転がった筒を指さしている。

茂蔵しげぞうずと筒を取り上げ、匂いを嗅いでみた。

茂蔵しげぞうの頭が一瞬だけふわりと揺れた。これまでにない心地よいものだった。


「これは……」


 茂蔵しげぞうはすぐに筒を手元から話し、側にあったさらしを何重にも重ね蓋をする。時雨しぐれに目を向けると、煙管きせるの火入れに目を落としていた。一度だけ匂いを嗅いだ後、おもむろに火入れを煙草盆たばこぼんの上にひっくり返した。中から灰が大量にこぼれ落る。

 時雨しぐれが目を押さえながら咳き込んでいる。灰は宙に舞い上がっていた。

その中に塊となった紙らしきものがある。外はすでに真っ黒だ。時雨しぐれはその黒い塊をかんざし煙管きせるで広げようとしている。


「あの、時雨しぐれ殿。さすがにそれは無理かと……」


 時雨しぐれの横に来ていた茂蔵しげぞうが残念そうな顔で声をかけた。時雨しぐれも残念そうな顔をしている。

そこへお美津みつが入ってきた。


「話、聞きました。他の方は全員問題ないようです。こちらの方は……」


茂蔵しげぞうが黙ってさらしで蓋をした筒を指さした。


「多分、それだ」


 それだけ言うと他に何か残っていないかを探し始めた。お美津みつつつのさらしを外し、匂いを嗅ぐ。


阿芙蓉あふようですね。それも、混ぜ物がしてあります」


 お美津みつはそれだけ言うと、すぐに薬箱の内側をたたき割った。つつより少し大きめの木の板が出来上がる。それを筒の上に被せ、さらしでどんどん巻いてゆく。がっちりと巻き終えると捜し物をしている茂蔵しげぞうを呼び、つつ茂蔵しげぞうに渡した。どうやら、捜し物等の能力に関してはお美津みつの方が上のようだ。

茂蔵しげぞうはすぐにつつを持って外に出て行った。


時雨しぐれさん。どう思います?」


 お美津みつが、無造作にあちらこちらを探し回っている時雨しぐれに声をかけた。きょとんとした顔をお美津みつに向ける。お美津みつ時雨しぐれの横に移動し、ひっくり返したものを見回した。


「どういうことでありんすか?」


美津みつの問いかけに?という顔で返す。


「いや、時雨しぐれさんは阿芙蓉あふようが吸われたとは思っていないですよね。

すでに火入れをひっくり返しておられるし。当然最初に疑って匂いを嗅がれたはずですから……」


 煙草盆たばこぼんの上にひっくり返された灰と解体された燃やされた紙の残骸を見ながら呟いた。時雨はにこっと笑っている。


茂蔵しげぞうさんと違ってよくわかっていらっしゃる」


 時雨しぐれはお美津みつの口に突然唇を近づけた。そのまま濃厚な口吸いをする。舌がお美津みつの舌と触れ、絡み合う。

美津みつは突然のことに頭が真っ白になっていた。初めての唇を太夫たゆうといえど遊女ゆうじょに奪われたのだ。

しかし、拒まなかった。むしろ薄紅色の唇に吸い付いていく。

二人はしばらくの間、お互いの口で愛し合った。

どちらともなくそっと離れてゆく。二人の舌は二人の唾液で繋がっていた。


「おっちゃん、今宵こよいあちきのところにおいでくななまし」


お美津の顔は上気していた。頬は薄く染まり、畳の上に座り込んでいる。

必死に声を絞り出そうとしているようだ。


「あ、あの、金子きんすが……、それに……太夫となんて」

「お美っちゃん、今宵のおあし花代はなだいはあちきのおごりでござんす。遠慮しないでくださいまし」


時雨しぐれはにっこりと笑ってお美津みつの肩を抱き、耳元にふぅっと息を吹きかけた。

美津みつはくねくねと腰を動かし身悶える。


「来てくれんすね」


やんわりとした微笑みがお美津みつの最後の砦を打ち砕いた。


「……はい」


 時雨しぐれは満面の笑みでお美津みつを抱きしめた。そしてそっと放す。


「じゃぁ、今夜、ね。

私は父様もところへ戻りんす。東風こちのことよろしくお願いしんす」


 そのまま立ち上がりぬるりと動き部屋の外に出て行く。あとにはぼぅっとなったお美津みつ東風こちが部屋に残された。


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 勘左衛門かんざえもんは事件の報告をするために寄合場へと足を運んでいた。東雲とううん茂蔵しげぞうは一度療養所へ戻り筒の中を調べに、また東風こちを長期の治療をするために自分の診療所に連れて帰るのであった。

そしてお美津みつはそのまま喜瀬屋きせやに泊まり込むこととなった。

寄合場へ歩く足取りは重い。阿芙蓉あふようを使用した者が出たことは見世みせの評判に大きく響く。しかし同時に、同じ事が起きないように吉原中に報告する義務もある。

とにかく一度寄合いを開いてもらい、方針を決める必要があった。


「おやじさん、至急寄合いを開いてください」


寄合場へ着くとすぐに勘左衛門かんざえもんは吉原の創立者に声をかけた。

おやじと呼ばれた男はじっと勘左衛門かんざえもんを見た。

吉原で一、二を争う大見世おおみせの店主が突然寄合いを開いてくれと言ってきたのだ。それも深刻な顔をして。


「どうしました、勘左衛門かんざえもんさん。詳しく話してください」


 勘左衛門かんざえもんに取りあえず上がるように勧め、茶を用意するように近くの女中に声をかけた。

出された茶を飲みもせず、勘左衛門かんざえもんはこれまでのあらましを話し出した。

話の内容を最初はふんふんと聞いてたおやじと呼ばれた男も段々と事の重大性に気づいてきたようだった。


勘左衛門かんざえもんさん、そりゃぁえれぇこった。今夜か明日にでも寄合いを開けるように手配する。直ぐに知らせてくれて助かるよ」


 おやじと呼ばれた男はすぐに家中の男衆おとこしを集め、大見世おおみせ中見世ちゅうみせ小見世こみせ楼主ろうしゅに使いの者を出した。この夕方にでも寄合いの日取りが決まるだろう。それだけの男なのだ。

勘左衛門かんざえもんはおやじと呼んだ男の決断力と行動力に心の中で頭を下げた。

これで被害は最小限に抑えられる。

勘左衛門かんざえもんは結果を見世みせで待つと伝え、帰路についた。

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