第2話
時雨が姿を消してすぐに近くの路地から
彼らはその状況を見て動きを止める。
その場で吐くもの、目を背けるものと様々だ。
その中で一際大柄な男が二人の死体に近づいてゆく。
「ちっ」
大柄な男は舌打ちすると匕首を構えて立ったままの男の身体を蹴り飛ばした。
何の抵抗もなく身体は倒れる。
「おぃ、大八車と戸板を持ってこい。
早くしろぃ」
男の声に気を保っていた数名の男が引き返してゆく。
「ちっ、時雨の仕業だな、こりゃあ」
男は首だけの顔を一瞥すると、土下座している女の髪を掴み顔を引き上げる。
「喜瀬屋の白雨に間違いねぇな」
顔を確認し、男は女の顔を地面に叩きつけた。
「おい、この男の仏をどぶに捨てておけ。
役人に見つからねぇようにな」
男はそう言うと鼈甲の簪を懐にしまう。
「何人か付いてこい。
この女の死体を喜瀬屋に運ぶ。
裏口からだぞ」
そう言うと男は空を見上げる。
薄暗くなってゆく空は明け方を知らせていた。
「ふん、楽な道を選ばせやがって」
男が呟いた時、大八車と戸板が来て、それぞれが乗せられる。
廓者達は死体の処理と痕跡を消していた。
作業が終わり、廓者の一人が男に声をかける。
「源五郎親分、処理が終わりました」
男はそのまま指示を待つ。
「おぅ、分かった。
おれは喜瀬屋に行く。お前は残りの者達に引き上げるように言ってくれ。
それとそことなくこの情報を吉原全体の遊女の耳に入るよう、噂を流しておけ」
源五郎は死体のあった所をじっと見つめた後、そのまま踵を返し部下とともに大通りへと向かっていった。
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「喜瀬屋さん、ありゃあやり過ぎですぜ」
吉原の大見世の楼主、喜瀬屋勘左衛門の部屋で男は静かに、しかし鋭い眼光で部屋の主を見つめていた。
すでに午(昼九つ)の刻近い。
落ち着いた口調であるが内心では相当怒っているようだ。
「まぁまぁ、そう怒りなさんなって」
勘左衛門は男の迫力ある眼光を笑顔で受け流していた。
下級武士程度なら縮み上がりそうな眼光だが勘左衛門は意に介していないようだ。
「源五郎さん、これは必要なことだったのですよ。あなたも最近の足抜けの多さや掟破りの多さはご承知でしょう」
源五郎は勘左衛門の言葉に言い返すことが出来なかった。
吉原の治安や足抜けの防止、掟破りの取り締まりは源五郎の仕事である。
治安はともかく、足抜けや掟破りの多さは確かに酷い。
これは源五郎が舐められている証拠だ。
「源五郎さん、今回のうちの白雨と間男の最後は聞かせてもらいました。確かに今回はちとばかしやり過ぎでしたなぁ。
誰がやったかは存じませんがね」
勘左衛門は袖の中から白い紙に包まれたものを源五郎の前に差し出す。
そっと手に取った源五郎はその重さを確かめ「ふぅ」とため息をつくと、白い包み紙を懐へとしまう。
「わかりましたよ、喜瀬屋さん。
でも、往来での殺しは勘弁してくだせえ。
こちらも始末に負えねぇ場合もございますんで」
源五郎はやれやれという表情を浮かべ立ち上がるとそのまま喜瀬屋の裏口へと向かおうとする。
「あ~そうそう」
振り向きざまに一言。
「やはりあれは背の高い女の仕業ですかい」
源五郎はつい口に出した言葉を後悔した。
振り向いた先には先ほどの笑みを顔に張り付けた喜瀬屋勘左衛門が煙管を吹かしていた。
「まあ、そこは何とも……、ということにしておいていただけませんかねぇ」
普段の好々爺の気配はそこにはない。
源五郎は自分の額と背中に生ぬるい汗が噴き出していることを感じていた。
身体が動かない。
勘左衛門ではない、何か得体のしれないものがこちらの動きを縛っていた。
「あ、ああ。
すまねぇ、悪かったよ。
今のは聞かなかったことにしてくれねぇか」
なんとか喉の奥から声を絞り出す。
勘左衛門はその言葉ににこりと笑う。
「わかりました。
今のは無しということで……、お互いのために」
勘左衛門のその一言で源五郎は身体の自由を取り戻した。
慌ててその場を去る。
後には煙管をふかす勘左衛門が天井を
「なぁ、時雨。
今回はすまなかったねぇ。
白雨とは仲が良かったんだろ」
勘左衛門の問いにすっと襖が開く。
「まあ……ね。
でもこれもあちきの仕事さね。
白雨は逃げる道を選んだんだ。
こうなることは白雨も自覚していたはずさ」
時雨は勘左衛門の横に座ると懐から煙管を取り出し火をつける。
紫色の煙がゆっくりと立ち上る。
「ま、報酬を上乗せしてくれたら良いよ」
「ふん、ちゃっかりしてらあ」
勘左衛門は懐から白い包みを二つ差し出した。
源五郎に渡したものの厚みの二倍が二つである。
「あれ父様、おまけはしてくれないのかい」
時雨は二つの包みを胸元にしまいながら抗議の声を上げた。
報酬の上乗せは無かった。
「……白雨に情けを掛けたんだろう」
勘左衛門は煙管の煙を天井へ向かって吹き出し笑う。
かっっ!
時雨が煙管を煙草盆に叩きつけた。陶器でできた灰落としが真っ二つに割れる。
「じゃあね、父様。
あちきは眠りますよ。
お客が来ても今日は勘弁と言ってくんなまし」
時雨は音もなく立ち上がると襖の奥へと消えていった。
後には勘左衛門のみが残される。
煙管の火種を灰落としに捨てようとして口元をへの字に曲げた。
灰落としはすでに真っ二つで、中の灰が盆の上に散らばっている。
「やはり怒ったか。
こりゃあ暫く客は付けられないな。
まあ、贔屓の客はそれほどでもないから良いのだが」
灰落としの代わりを用意し、勘左衛門はもう一度煙管に火を入れる。
紫色の煙がゆらゆらと立ち上る。
外では小雨が降り始め、勘左衛門の周りを生暖かい空気が支配していった。
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