時雨太夫(通常版)

第1話

江戸最大の歓楽街吉原かんらくがいよしわら

こく(21時 ~ 23時)を過ぎるとその賑わいも一気に静寂に変わる。


とらの刻。(03時 ~ 05時)


 静寂の中、更に事を済ませた人々が寝静まるこの時間はさらに静かだ。

その静寂の中を二人の人物が息を切らせながら走っていた。


白雨はくう、もう少しだ、頑張れ」


 その言葉を発した男は白雨はくうと呼んだ女の手を引きながら走り続ける。

何度も突っかかり、息も絶え絶えな女もその言葉に黙って頷き、足に力を入れる。


かんっ


 白雨はくうと呼ばれた女の髪からくしが抜け落ち、地面に落ちる。

この手を引いてくれている男から貰ったものだ。

慌てて拾おうとするが男が白雨はくうの手を引っ張った。


「そんなもの、後で買ってやる」


そう言うと未練がましくくしを見ている白雨はくうの手を引き走り出そうとする。

白雨はくうは男に引き寄せられるがすぐに何かにぶつかった。

目の前には男の肩。


「てめえ、誰だ」


どすの効いた男の声。

男はふところから匕首あいくちを抜く。

白雨はくうは何が起きているかわからずに男の前に視線をやった。

そこには人の形をした一つの影が佇んでいた。


「足抜けは駄目だねぇ~」


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


時雨しぐれ、起きているかい」


 吉原の大見世おおみせ喜瀬屋きせやの主人である勘左衛門かんざえもんはとある部屋の前で、小さくそれでいて鋭くどすの効いた声で呼びかけた。

部屋の主はその声で浅い眠りから引き戻される。

 主の名は時雨しぐれ

吉原喜瀬屋よしわらきせや遊女ゆうじょだ。

現在数えで二十二。

吉原へ入り七の年月を経た。

時雨太夫しぐれだゆう

容姿はごくごく普通であるが圧倒的な知識と教養で太夫たゆうを張っている。

ただ客は付くが世間一般には好き者と呼ばれる者たちだけが常連だ。

その理由は時雨しぐれの体つきだ。

背丈は六尺二寸。

胸は大きく腰は細い。

また足も長く、全身を見れば頭九つ分はある。

顔は上から顎の方にかけてほっそりとなり、鼻は高く唇も薄いうえに、目も一重で鋭く細い。

世間一般では普通、もしくは醜女しこめと呼ばれる部類だ。


 そんな時雨は微睡まどろみの中目を覚ました。


「なんだい……父さま。

こんな夜更けに声をかけるなんてさぁ」


 ふすまの奥で、もぞもぞと布団と襦袢じゅばんのすれる音が聞こえてくる。

どうやら寝入りだったようで不機嫌らしい。


「寝入りにすまない、ちとお前さんに頼みがあってな」


 勘左衛門かんざえもんは額にぬるい汗をにじませていた。

ふすまの向こう側から強烈な殺気があふれ出ていたからだ。


「足抜け……かい?」


 吉原の足抜け(脱走)は遊女ゆうじょと男、双方にきつい仕置きがある。遊女はしばらくは仕事をできないくらいに痛めつけられる。

その後、最悪殺され寺に放り込まれる。人間として供養はされず、畜生ちくしょうと同じような扱いだ。

男の方は廓者くるわものによって痛めつけられ、処刑される。

処刑と言っても内容はただの私刑りんちだ。

 吉原の大門の横には番屋があるが吉原のことは中で片をつけることが多い。

よほどのことがないと市中の奉行所などが直に手を出してくることはない。

出してくるとなると、武家絡みか賭博とばく阿芙蓉あふようくらいのものだ。

時雨しぐれの言葉に勘左衛門かんざえもんは「あぁ」と短く答えた。


「ん~~ん、誰だい?」


寝ぼけたような間延びした声が部屋の中から聞こえてきた。

同時に衣擦きぬずれの音が聞こえてくる。

どうやら動いてくれるようだ。

勘左衛門かんざえもんはほっとした表情を浮かべる。


白雨はくうだよ。

今若い者と源五郎げんごろう親分が追っているのだがどうにもな……。

ここのところ足抜けやら心中しんじゅう未遂やらが多くてなぁ、ここらで一つ見せしめを出しておかないと寄合よりあい面子めんつがな」


 勘左衛門かんざえもんが答えたと同時に、時雨しぐれの部屋のふすまが中に風が吹き込んだかのように揺れた。


「わかったよ、気は進まないがね。

報酬は明日の朝に貰うからね」


 部屋の中から返事が聞こえたと同時に部屋の中から気配が消える。

勘左衛門かんざえもんはやれやれという表情を浮かべた。


心中しんじゅうはしたくないが一緒に暮らしたい。だが身請みうけする金はなく、年季ねんきが明けるまでも待てないから足抜あしぬけか。

抜けられなければ始末されると分かっているのにねぇ。

ま、そこが若い男女の機微きびというところかのぉ」


そう呟くと勘左衛門かんざえもん時雨しぐれの部屋の前から階下の自分の部屋へと戻っていった。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


「てめえ誰だ」


 目を血走らせた男が目の前に突然現れた女にどすの効いた声をかける。

すでに足抜あしぬけのことは知られていることだろう。

こんな所で足を止めているとすぐに追っ手が追いついてくる。

こっちは殺され、白雨はくうもどのような目にわされるか分かったものでは無い。

しかし、目の前に現れた女は微動びどうだにしない。服装から見るとどこかの遊女のようだ。

その遊女は気怠けだるそうに男と白雨はくうを見つめていた。


 男は仕方なしにふところの中から匕首あいくちを引き抜くと、腹に引き寄せ重心を低く落とす。


「そこをどけ、あんたどこかの遊女ゆうじょだろう。

どいてくれないならあんたを殺す」


 脅せば大体の人は悲鳴を上げて走り去る。

いつもならばそうだ。

しかしこの目の前の女は微動びどうだにしない。

男は市井しせいでは乱暴者で通っており、やくざ者でも一目置くほどの男だ。

やくざ者とやりあうときのごとく目を細め威圧する。


(さっさとどけ!)


男は心の中で怒鳴っていた。

声は出さない。

大声など出せばすぐに居場所が分かってしまう。

が、目の前の女はそんな男の視線を気にした様子もなく気怠そうに見つめたままだ。


 二人の距離は六尺ろくしゃく程。

男は腹をくくり飛び出そうとする。


時雨しぐれ姉様」


 突然後ろから最愛の者の声。

男は飛び出す瞬間を抑えられた。


時雨しぐれ姉様、お願いします見逃しておくんなまし」


 白雨はくうはそういうとすぐに地面に額をこすり付けた。

白雨はくうの身体は小刻みに震えている。


ぼた……、ぼたたたたた。


 風の音と共に突然白雨はくうの全身に雨が降り注いだ。

ゆっくりと顔を上げる白雨はくう

その目の前には愛した男の顔が自分を見つめていた。

同時に身体の中を何かが通り抜ける。


「ごめんねぇ、白雨はくう

これがあちきに出来る最大の見逃しだよ。

あの世で仲良くねぇ」


 時雨の声は狂気をはらんでおり、愉快ゆかいそうな声であった。


(やっぱ……り、見逃してもらえないよね。

で……も、姉さま……やさし……い……な)


白雨はくうの意識はそこで途絶えた。


 時雨しぐれ白雨はくうの前に転がった男の顔を一瞥いちべつ白雨はくうの後ろに落ちている鼈甲べっこうくしを拾い上げる。

時雨はしゃがみ込み、そっと白雨はくうのうなじを撫でた。


「逃げちゃ駄目だよ、年季奉公ねんきぼうこうなんだからさ。

我慢しなきゃあね」


時雨しぐれはそういうと白雨はくうの頭に鼈甲べっこうくしを差す。


「仲良く……ね」


ぼそりと呟くと時雨しぐれは抜き身の太刀たちさやに収めた。

近くでばたばたと廓者くるわものたちの近づいてくる足音がする。

時雨しぐれは片手で拝むように手を上げるとすぐに物陰へと身をひるがえし、もと来た道を引き返した。

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