荘周之夢(上)
「もとはね、
蝉の鳴き声が響く中、夏の陽射しを浴びながら背中に屑入れの籠を負った翰児はすっかり陽焼けした顔に笑窪を刻んで語る。
「そうなの」
こちらは肌を陽に焼かないように
我が子にしか見えない相手から自分でない“かあちゃん”の話を聞くのはどうにも妙だ。
「とうちゃんの採ってくる魚はとってもおいしいんだよ!」
邪気の無い声の響きに少し離れた場所で涼んでいた年上の宮女たち――これは
「そうなんだ」
小さな歯並びまで玲羽にしか見えないこの子の語る“とうちゃん”もゲームが趣味で釣りなどやったこともない元の世界の夫とは恐らく別人なのだろう。
「でも、とうちゃんもおとなりのおじちゃんたちもみんな、兵隊でいなくなっちゃった」
一瞬、辺りの空気が微かに強張るのが肌で感じられた。
「とうちゃんがいなくなってから、かあちゃんと一緒にこのお
同じ館娃宮にいながらまだ会ったことのないこの子の“かあちゃん”はどんな人なんだろう。
「桃の花がいっぱい咲いた頃にかあちゃんは死んじゃった」
元の世界の我が娘としか思えない相手はこちらを見上げて続ける。
「朝になっても隣で冷たくなって起きないの」
ザワザワと蝉の鳴き声を打ち消すように庭の木々を吹き抜ける風が青々と生い茂った緑の匂いと共にこちらまで届いた。
まるで私自身が死の宣告を受けたかのように手が震える。
「あああ、
斜め後ろから沈黙を破る声が飛んだ。
振り向くと、木の枝――本番の舞では剣を使うが練習ではこれで代用している――を手にした北周が近付いてくるところだった。
結い上げた髪も、眦の切れ上がった美少年じみた小さな顔も、刀代わりの木の枝を手にした細身の背高い体躯も乱暴者になった桃太郎じみて見えた。
ビクリと傍らに立つ翰児の小さな肩が震えて後ずさるのが分かった。
縫物をしている私と翰児の間で仁王立ちになった北周は言い放つ。
「お前さ、仕事済んだら無駄口叩いてないでさっさと厨房に戻れよ。やること残ってるだろ」
「はい」
小さな背中を覆わんばかりの屑籠を負った幼子は小走りに駆けていく。
まるで悪い桃太郎から木の枝で叩かれるのを恐れる子鬼のように。
涼んでいた年上の宮女たちも水を引くように移動し始めた。
まだ半ばほど破れ目の残る衣装に針を刺したままの私と仁王立ちの北周のいる間にどこか遠くなった蝉の鳴き声が響いてくる。
木の枝を手にした相手がこちらを振り向く。
「あんたさ、何であの子に構うんだよ」
斜め下から臨む北周の顔は横向き加減のために顎が余計に尖り、目はいっそう吊り上がって見えた。
「下働きを甘やかすとつけ上がるよ」
あんたもあたしの下だよ、つけ上がるな、と刺すような声音は告げている。
「まだ小さい子ですから」
こちらは極力抑えた調子で返してから針仕事に戻る。
少なくともこれは自分が今、やって文句のつかない作業だ。
少し縫い目が乱れてしまったが、どうせ私は踊る時も後ろの方で目立たないから簡単に繕えば良い。
「小さくてかわいそうな子だから?」
小馬鹿にする風な北周の声が斜め上から降ってきた。
どうも今日はしつこいな。
思わず唇を噛んだ瞬間、バンッと何かが大きく破裂するような音が響いて感電さながらビリッと空気の震えがこちらまで届いた。
音の鳴った方に目をやると、庭土に叩きつけられた木の枝がポッキリと二つに折れて転がっていた。
思わず固まったこちらの様子がよほど可笑しいのか、相手はクスっと乾いた笑いを短く漏らす。
「父ちゃんが
言い終える頃には卵色の滑らかな顔の眉間には苛立った皺が刻まれていた。
「あんた、あの子に何かしてやれんのかい。本当のお
本当のお母さんという言葉が胸に突き刺さる。
さっと夏の陽が陰って、黒い影になった相手は押し殺した声で続けた。
「出来ねえなら、妙な馴れ合いすんな」
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