榮華之夢(下)

「この前はまだ蕾だったが今は蓮の花盛りだ」

「見事ですね。い香りがこちらまでします」

 不意に耳に飛び込んできた会話に私も池の向こうの北周もビクリとして振り返る。

 大王様――現代日本人に馴染んだ言い方に即せば呉王の夫差ふさだ――と西施様が連れ立って歩いてくるところであった。

――バシャッ!

 向こう岸の朋輩はどこか固い笑顔を張り付けてこちらに泳ぎ始める。

 私もそうすべきか。

 迷っている内に視野の中で二人の姿が大きくなる。

 虹色に輝く蝶の簪を頭に挿した西施様の方が黒玉じみた大きな双眸をふっと細めた。

「こちらの人魚さんは私たちと同じ苧蘿ちょらの出ですわ」

 さりげなく出てきた“私たち”という言葉に妙に胸がどきついた。

 大王様もこちらに眼差しを向ける。

「そなたたちと同郷の者か」

 隣の発光するように白い肌の西施様に対しどこか鞣革なめしがわじみた滑らかに浅黒い肌をした呉王夫差はこちらも円らな二皮目を細めた。

 そうすると目尻に柔らかに刻まれた皺でもう若くはない人と知れる。

 この人が二十一世紀の日本というかこの時代の基準でも美男子に該当するかは疑問だが、西施様と並んでも全く卑しく見えないという点で犯し難い風貌だ。

南周なんしゅうにございます」

 何となく名乗らなくてはいけない気がするので口にはしてみたが、自分の声がいかにもぎこちなく響くのを感じた。

「そうか」

 西施様や今は居ない鄭旦様――会ったこともないのにこんな敬称を付けるのも妙な話だが、西施様や大王様に連なる人だと思うと何となく呼び捨てる気にならない――と比べてもおさなく、また恐らくは大きく見劣りするであろう侍女に頷く大王様は飽くまで穏やかだ。

 決して“何だ、お前は醜い、下がれ”とか“同郷の娘というのに期待外れだな”などと言ったりはしない。

「そちらは」

 大王様は少し離れた場所にやや紫に変じた唇に固い笑顔を貼り付けたまま体を浮かしているもう一人の人魚に問い掛けた。

「私は、北周ほくしゅうにございます」

 この子――といっても今の世界の私にとっては年上だが――は改まった口調になると、観ているこちらがハラハラするほど固い声になるのだ。

「楚の国より参りました」

 まるでそこまでが名前のように付け加えた。

「そうか」

 目尻に柔和な皺を刻んだままの笑顔で大王様は大きく頷いた。

「池の中の方が陸より平和であるな」

 全員が笑顔のまま水面の上を微かに冷えた風が吹き抜ける。

 ふと西施様が白く指もあえかに長い手で着物の胸を押さえた。

 滑らかに白い面の眉間に切なげな皺が刻まれる。

「また痛むか」

 大王様も痛ましげな面持ちで西施様の肩を抱く。

 浅黒いその手は肌白く骨細い妃の絹で織られた衣の肩に置かれてはどこか獣じみて大きく見え、眺めるこちらの胸が奇妙にどきつくのを感じた。

「少しですが」

 飽くまで澄んだ声で語りつつ苦しさをこらえて笑おうとする面持ちがまた観る者の胸を締め付ける。

「まだ風が冷たいからな」

 まるで生まれたばかりの赤子を風から守るように愛妃の肩を抱いて大王様は立ち上がってその場を後にする。

「そなただけは大事にせねばならぬ」

 後ろ姿になった大王様の顔はもう見えないが、その静かな声には深い苦みが潜んでいた。

「人魚さんたちも風邪をひかないように」

 振り返って西施様はまだどこか苦しさを秘めた面持ちで微笑んだ。

――あたし、きれい?

 顔をクシャクシャにした東施の大娘さんを何故か思い出す。

 絶世の美女西施と村一番の醜女東施で面差しは似ても似つかないが、真っ直ぐで濁りのない瞳や温かな空気は不思議と似通っているのだ。

 蓮の香りが池に取り残された私たちの間を漂い過ぎていく。


*****

さぁみい」

 乾いた布に体を包んで唇をまだ紫にした北周は消えかかった火に向かって手を擦り合わせる。

 こちらもいちいち口にはしないが体が冷えるのは一緒だ。

「あ……」

 向こうから現れた人影に思わず口から声が漏れる。

 小さな体に薪を背負ってきた、粗末な身形の子供。

まきをお持ちしました」

 象牙色の肌にふっくりした頬をした面差しもいとけない声も玲羽そのものだ。

おっせんだよ」

 向かいの北周が苛立った声を飛ばす。

 自分より遥かに背高い相手の言いかけに子供はビクリと荷物を背負った小さな肩を震わせた。

「早くくべなっ」

 怒鳴るだけでわざわざ動くのは寒いのか布で包んだ自分の体をより強く抱き締める。

「はい」

 まだ七つにも届かない幼児は体の半分以上はありそうな量の薪を背中からあたふたと降ろす。

「火の扱い、大丈夫かな?」

 こちらは西施様に倣う風に極力穏やかに声を掛ける。

「大丈夫です」

 いとけない声に反して手慣れた様子で薪をくべる。

 パチパチと火がまるで蘇ったように勢いを取り戻した。

 初夏の暮れかかった暗がりの中で私たちの集まった場所だけが朱色の灯りに照らし出される。

「お名前、何ていうの?」

 この世界でこの子は私の子ではない。

 相手の目には自分より少し年上で身分もやや高いお姉さんといった立場だろう。

 そうは知っていても、やはり他人とは思えなかった。

翰児かんじって呼ばれてる」

「そう」

 この人懐こい、笑うと両の頬に小さな笑窪が刻まれる顔は玲羽だ。

 頷く私に北周は鼻で嗤う。

「おっかさんみたい」

 パチパチと火が燃え上って、白い蛾が炎を求めて寄ってきた。

 


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