独善的な小説論


 言葉よりも、文字の羅列を好ましいと思う。

 恐らく、小説という産物を、と見做しているのだろう。残酷な話だけれど、音読された音の連なりとしての言葉にはあまり魅力を感じない。単なる音ではなく、また言葉でもなく、文字であることに価値を見出す類の物好きだからだ。

 無論、それが残酷な嗜好である、という理解も弁えている。


 私の小説は、ややもすると選民主義的なのかもしれない。

 視認と、識字とを前提として、読者を選別して憚らない小説という作品。

 単なる言葉、言語としての日本語ではなく、「文字」という媒体を必要不可欠のものとして要求する独善的な行為。執筆という行為が、小説という産物が、文字に依存する以上、読者に視覚と識字能力を要請するのは語るまでもなく自明の話だろう。


 そもそも、小説の多くは文字の羅列として出力される。

 所謂、口碑のような口承文芸とは異なり、文字という記録媒体を介して制作されることがほとんどだ。現在は、自動音読機能や自動音声の普及で、「文章を読み上げる」という鑑賞方法も身近になり始めた。とはいえ、録音図書は紙の書籍に比べれば充実しているとは言い難い。にもかかわらず、作者としての私は、いまだに「文字であること」に拘泥したがる差別主義者から脱皮し得ないのだ。あくまでも文字の羅列に、独自の美意識に基づいた価値を置く。

 

 文字とは、考えてみればある種の記録媒体である。

 意味を理解せずとも、それ自体が情報を伝達する媒体として機能する。古代文字の解読や、古文書の暗号めいた文章の翻訳がなされるのは、文字というものがであることの証左なのかもしれない。かつて、ソクラテスは、文字を堕落の象徴として嫌悪したらしい。彼にとって、文字という外付けの記憶装置は、人間の頭から知識を蓄える機能を奪うものだったのか。暗記なくして、人間に真の知識の定着はないとの判断なのだろうか。

 ソクラテスの話が、学生時代の講義の受け売りであることはご容赦願いたい。

 (もちろん、誤った情報を拡散する目的ではなく、本意でもない)

 

 ともかく、私は文字という記録媒体に執着しているのだ。

 正確に言えば、文字によって構成された小説という文芸作品を愛している。

 

 文字に付随する情報は、実は自分が把握しているよりもずっと多い。名詞や動詞、それらの正確な意味だけでなく、文字に紐づけられた雰囲気のようなものさえ含む。漢字か、カタカナか、それともひらがなを用いるか。漢字ならば、旧字なのか新字なのか、またルビを振っているか否か。分解してみると、文字がいかに多くの感情や情報を媒介しているかがよく分かる。

 たとえば、文豪の泉鏡花の『外科室』なんて、ルビと漢字の乖離が甚だしい。(注1)


 私は、独善的な行為だと、そう理解していても文章であることを渇望するだろう。苛烈な、妄執とさえ言える信念で、文字の羅列であることに至上の価値を望み続ける。たとえ誰が糾弾しようと、自分が満足するまでは執筆という行為を辞めないはずだ。私にとっては、執筆という行為も、小説という産物も、独房のような人生から切り離せない不可分なものだから。

 その覚悟を、はらわたが足りないなりに腹を括ったうえで筆を持っている。


 だが果たして、自分の行いが、他者の選別のうえに成立していることを、どれだけの人間が自覚しているのだろうか。小説を生み出す時、言語野を駆使して日本語という母語に則り文字を操るという行為は、見知らぬ誰かを排斥することで成立し得るのだ。

 私は生涯、生み落とした小説の礎に、無辜の犠牲を幻視し続けるにちがいない。

 まるで独裁者のような所業だな、と思いながら。


【参考文献】

注1 『外科室』 泉鏡花著、立東舎、2018年


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