小説と逃避行
逃避行の共犯
執筆とは、つまるところが現実からの逃避行である。
ならば小説は、逃避行の共犯者として、現在進行形で伴走してくれる比翼ではなかろうか。少なくとも、私にとって小説の執筆は虚構への滑空、すなわち逃避行というもので、学生の頃から白昼堂々と逢引きを繰り返していた。逢引き、というのはさすがにおこがましいか。
共犯者に仕立て上げ、身勝手な妄想という逃避に付き合わせてきた。
当時の私にとって、小説という虚構は独房から逃れる手段だった。
独房とは、人生の比喩であり、学校という空間に対する皮肉でもある。人間が抱く苦痛や懊悩が、自我から生まれるのであれば、檻にして肉体たる独房から完全に逃れることは誰にも成し得ない。結局のところ、小説という虚構への没頭によって、独房にいながら外界を隙見したように錯覚しているだけなのだろう。哀れではあるけれど、救いであったことは事実だった。
執筆という行為について、私が語れることはけして多くない。
ましてや、小説の魅力や醍醐味など、下手の横好きで囀るわけにもいかない。
ただ、小説を、執筆という手段を好む理由ならばある。
制作の過程において、自分以外の他者を創作者として必要としないこと。他者を必要としないからこそ試行錯誤が容易で取り組みやすい。そして何よりも、言葉そのものであることがいいのだ。純粋に、言葉のみによって構成されていること。単に作者の提言の代替手段とならず、しかしながら思考実験として現実に肉薄する余地があるのは稀有といっていいだろう。
詩にも、短歌にも、エッセイにも成し得ない想像と創造の沃土。
私にとって、小説はある種の閉じられた箱庭だ。
自己完結した箱庭。だが、それは読者を通して外界に鑑賞される。
他者の介入や干渉を許さず、しかしながら鑑賞者という他我の介在を許容する。背反するかのような、自家撞着とも思える「閉鎖」と「開放」をどちらも並立させるための素地。作品に配置された題材や登場人物は、現実に異を唱えるための思考実験に不可欠だ。言葉以外の何かでは、小説以外の形態では実現できない創造こそ、執筆という行為なのだと思わざるを得ない。
他者を拒絶しながら、他者に展望されることを肯定する。
現実への嫌悪は、小説という虚構において妥協という安息に転じる。
これが現実からの逃避行でなければ何だというのか。
私はただ、現実からの逃避のために、小説という共犯者を必要とせざるを得なかった。音楽でも、絵画でも、詩でもエッセイでもあり得なかった。小説だけが、私の陰険な精神を、厄介な矛盾を抱えた倒錯的思考を引き受けられたのだ。だからこそ、私は小説に縋りつき、身勝手な逃避行を続けている。この逃避行は、独房から逃れ得る日まで続くに違いない。
共犯者がいる限り、虚構に滑空する翼を捥がれることはないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます