リサイクル・マイ・スピリット


 死後は、できれば荼毘に付されたいと思っている。

 死してなお、肉体という名の「墓」を残されてしまっては困るから。

 土葬はまだしも、遺体衛生保全措置、エンバーミングを施されるなんてまっぴらごめんだ。脳という独房から放たれたのに、再び自己の連続性を証明するために肉体という墓に入る気にはならない。古代エジプトのミイラも、復活するために必要な肉の器として亡骸を保存したのではなかったか。どんな宗教であれ、他界観と遺体の弔い方は分かち難く結びついているものだ。

 海中他界観、山中他界観、藪のなかを他界と見做す土地もある。(注1)


 恐らく、輪廻転生のほうがマシだと思っているのだ。

 魂の復活よりも、魂のリサイクルを望んでいると言うべきか。

 それも、強いて言うなら、されるほうが幾何かマシであるというだけの。


 別段、敬虔なわけではないので、死後の世界に興味はあまりない。

 仏教用語やインド哲学や、「輪廻転生」思想の正しい知識を語るだけの教養もない。伝播する過程で宗教とて変質するし、現在の輪廻転生説も原始仏教の原理的な教義から考えればおかしな話なんだろう。釈迦は、つまりブッダは、魂や霊魂の類を認めてはいなかったはずだ。となると、やはり輪廻転生説だって、眉唾な法螺だというオチに帰結せざるを得ない。


 魂の実在も、神仏に対する帰依も、違和感の本質ではないのだと思う。

 ただ、ある思想において、死後に「」ことが許し難いのだ。死後になお己の自我が存在することが。脳が生み出すはずの自我が、脳の働きを失っても連続性を保ち得るという信仰が。もっとも、死後の世界を語る場合、大抵は生前の自我や魂というものを地続きに認めているのだけれど。そうでなければ、生前の罪に対する罰だの裁きだのは語られない。

 とはいえ、魂の復活のための、肉体という憑坐を残されるとは話が別だ。


 魂は、復活するのではなく、せめて再利用される程度がいい。

 輪廻転生説では、地獄もまた転生先として認められているそうだ。六道輪廻のうち、地獄とは地獄道を意味したのであり、生前犯した罪に従って永劫にわたる責め苦を受けた。転生する人間は、迷える凡夫なのであって、結局はなのだ。

 仏教においては、記憶をもった化生としての転生と見做すのだという。(注2)


 魂のリサイクル。あるいはリユースとでも言うべきか。

 ともかく、死後も自我が連続し、あまつさえ肉の器に復活するのは勘弁だ。

 地獄で罰されるほうが、再びに閉じ込められるよりはいいとさえ考える。せめて、生身の器を与えられるなら、記憶を消去してから魂を再利用してもらいたい。中古のPCやスマートフォンだって、データの抹消を行ってからリユースされているのだから。


 解脱も、極楽往生も、到底できそうもないのだから仕方がない。

 輪廻転生するのならば、せめて記憶を留めないかたちが望ましいと思う。人間にも、動物にもなりたくはないけれど、死後に自我の連続を自覚させられるよりはましである。もっとも、私が地獄に行かぬという保証はないし、地獄や餓鬼道のほうが相応しいかもしれないのだが。

 忘川河でもレテの泉でも、ともかくあの世で水を飲むことだけは確かだろう。

 でもまずは、荼毘に付されるだけの功徳を積むべきか。


【参考文献】

注1『文化人類学を学ぶ人のために』 米山俊直 谷泰編、世界思想社、2011年

注2『畜生・餓鬼・地蔵の中世仏教史』 生駒哲郎著、吉川弘文館、2018年


その他 『日本人の他界観の構造』 大東俊一著、彩流社、2009年




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