遍路なる読書

ボッチちゃん

 

 学生の頃、「」を心底おぞましいと思った経験のひとつ。

 皆が皆、クラスメイトたちが、同じ本を「よかった」と挙手したこと。

 授業前、読書の時間に読まされた本から、お気に入りの作品を選ぶアンケートがあった。課題図書は1カ月間に1冊、読了したら別の本を読んでもよいとされていた。通算12冊の中から「面白い」と思った書籍を選ぶ、生徒たちの意識調査のようなものだったのだと思う。


 私だけが、星新一の『ボッコちゃん』を選んで孤立した。

 他の生徒たちの、あの目つき。あれだけは、歳月を経てもどうしても忘れ難い。

 別段、星新一の愛好家だったわけではない。熱心な読者でもなかったが、他の課題図書の多くは、倫理観や道徳心を涵養するための小説やエッセイなどが多かった。私は、他者の経験談を、子供の善性を培う指標として利用することに辟易していた。子供騙しとでも言うべきか、子供の感覚を軽んじているような「おとな」の軽率さを感じていたのだろう。

 クラスメイトは、別滅危惧種の生物でも見るような目で私を見ていた。


 『ボッコちゃん』は説明するまでもない作品だ。

 星新一の代表作で、数十は超える掌編を収録した名著である。オチのある掌編、つまりショートショートは、子供に読ませるには都合がいいらしい。当時、特に記憶に残ったのが、言葉を用いずに育てられた少女の話だった。最後の文章があまりにも酷薄で、冷徹さと滑稽さとを端的に表現する鋭利な言葉の羅列に衝撃を受けた。

 挙手をした時も、私は恐らく少女のことを思い浮かべていた。


 では、クラスメイトたちは何を選んだか。青木和雄著、『ハッピーバースデー』だった。

 今でも名著として、高い評価を得ている児童書らしいが、本書に対する感想や評価は割愛しておく。紙幅を割くべきは、異様さだ。候補である課題図書が12冊もあるのに、皆が同じ書籍を選ぶなんてことがあり得るのだろうか。私を除いた生徒たちは、教師の前で挙手する際、まるで顔色を窺うように互いの様子を見回していた。

 なるほど、と既に挙手を終えていた私は密かに悟った。

 これは恐らく、生徒の道徳心を測る機会として捉えられているのだと。

 生徒たちは忖度したんだろう。教師の前で、より模範的な生徒を演じるために。

 

 だとすれば、青木和雄の著書は、児童書として魅力的な選択肢だった。

 母親の虐待から、主人公の少女が立ち直っていく再生の物語なのだから。「しくじった」とは思わなかったけれど、子供という生物の狡猾さはよく理解した。『ボッコちゃん』を選ぶような人間は、彼らとは対極にある、SFを好んで斜に構えたクソガキなのだろう。要領のいいおとなとは、子供の時からを繰り返して育つのだという事実すらも察知した。

 自分はきっと、真っ当なおとなになれない落伍者の予備軍なのだとも。

 

 何が「ボッコちゃん」か。「ボッチちゃん」の間違いだろう。

 笑いたくなる前に、クラスメイトたちの判断基準に得体のしれない嫌悪が湧いた。無邪気で、狡猾で、おぞましい生物の群れのなかに放逐された気分だった。彼らはきちんと、自分の外の価値観、おとなが望む倫理観や道徳心といったものを把握している。客観的な指標に従って、相手にとって都合のいい答えを採択できてしまう。なんて残酷な生物なんだろう、と思わずにはいられなかった。面白いという主観より、道徳的であるかどうかの価値観を優先できるのだ。

 今となっては、彼らが本当に「よかった」と思ったのか問うこともできない。

 この強烈な違和感を、私は今でも民衆を通して洞察しそうになる。

 大衆の中で、皮肉屋を気取って、孤立したがる「ボッチちゃん」のままで。

 


【参考文献】

 『ボッコちゃん』 星新一著、新潮社、1958年

 『ハッピーバースデー』 青木和雄著、金の星社、1997年

 ※記載した西暦は、検索した際の出版年に準じます。

 (当時の学校の蔵書がいつ出版されたものか記憶になかったため)

 ※本文において、どちらの作品も内容や作者を貶める意図はありません。

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