アンチ・ライフィズム
この世には残酷なほどうつくしい地獄がある。
清潔で、慈愛に満ちていて、倫理と道徳が行き届いた真綿で包まれるような地獄だ。病める者でさえ、健やかなる者に労わられて抵抗することもままならないような。そんな場所がどこにあるのか、と問われれば、「案外あなたの身近にあるものですよ」と答えるよりほかにない。
私の場合は、薬品と排泄物の匂いのする病室だったのだけれど。
ライフィズムとは、とある小説のなかに出てくる用語だ。
「生命主義」と書いてライフィズムと読む。今は亡き伊藤計劃の著書で、長編SF小説の金字塔のひとつである『ハーモニー』において、舞台となる近未来の世界を席巻した政治的思想を指す固有名詞。作中においても、生命主義に関する詳細な注釈が差し挟まれている。
私は、この作品が描破する社会を、何度読んでも受け入れられないのだ。
現代の倫理観、あるいは持て囃される新思潮にも、作中に蔓延する「ライフィズム」の片鱗を目敏く見つけてしまうせいかもしれない。静謐で、平和で、誰ひとり取りこぼさない調和の取れた安寧。それは実のところ、均整が取れたうつくしい地獄に似ている。
生命主義、あるいは生命至上主義。
この思想の最たる特徴は、個人の身体を「公共的身体」、「パブリック・ボディ」として認識する点だ。すなわち、すべての人間を、その肉体を公共の財産と見做すということ。であるがゆえに、社会の構成員である民衆に対して、社会に必要不可欠な人的資源として、公共の財産としての肉体を健康に保つ義務を課す。その義務からは誰も逃れることが出来ない。
作中では、この生命主義が覇権を握り、生活のあらゆる場面で個人の選択に干渉する。生命主義の台頭によって、極端な健康志向が標榜された世界は清潔なディストピアのように思える。資本主義経済と医療が融合した、高度な福祉医療と医療資本を基盤とする医療消費社会では、常に健康的な状態を維持することを社会の構成員である義務として要求されるからだ。
お互いが、お互いを、人質として差し出すことで成立した平穏。
伊藤計劃は、癌による過酷な闘病生活を経て没した。
だから、『ハーモニー』においても、現代の医療や福祉を取り巻く問題が投影されたのではないか。医療技術の革新は生命倫理の脆弱さを突きつける。私の入院生活を思い返しても、やはり人間の尊厳というもの、人間の生きる意義というものの曖昧さが絶えず付き纏っていた。
何故、人間は生きねばならないのか。
これは簡単な話であって、他者の生存権を保障するためだ。権利と義務が紙一重なら、「自殺する権利」を求める時、「自殺する義務」を課されることを受け入れなくてはならなくなる。尊厳死の権利を認めると、尊厳死を望まない人間にも死という恩賜が与えられてしまうかもしれない。だから認められない、という単純で分かりやすいロジック。
生きるにおいて、生きている意味は必須のものではない。
人生の価値は、他者が手前勝手に付けていくものだろうと思う。その価値を、「生きている意味」と等号で結ぶのならば、自らが見出さなくても構わないはずだ。もっとも、現在進行形で生きる意義を求めることは、生きている自分自身にしかできないことだろうけれど。
ともあれ、私のスタンスは、不特定多数の他者のために生きることへの反駁だ。社会の安寧のため、他者の権利の保障のために生きる。まさしく、社会の財産としての公共的身体、パブリック・ボディという「人的資源」であることの証左のようだと思う。他者にとって有益な資源としての人間。優しい地獄で、うつくしい地獄で生きるための権利と義務がそこにある。
どうして、すべての人間を、等しく丁重に扱うことができるだろう。
いずれはあなたにも、生命主義の福音が聞こえてくるかもしれない。遠くからひっそりと、鐘楼で鳴る鐘の音のように。やがて、行列をなした民衆たちが、あなたに「生きる意味」を説くだろう。社会の構成員として、公共の財産としての肉体を重んじなさいと咎めていくのだ。
他者を慈しめるよう、人類が健やかでありますようにと。
健康であること、健全であることを、平穏な社会のために保障しましょう。
汝、隣人を愛せよ。────隣人が、あなたの頬を平手で打たずに済むように。
この世界の、あまねくすべての人間が、等しく生きやすい世になりますようにと。お互いを尊び、あまねく人間を慈しみ合いましょうと。その言葉が、他者の首を絞めていることにも気づかずに。聞き覚えのある言葉を囁きながら、彼らはうつくしい地獄の到来を待っている。
【参考文献】
『ハーモニー[新版]』伊藤計劃著、早川書房、2015年
※題名は作中の固有名詞に由来しますが、盗用や剽窃の意図はありません。
※本文中、作品内の用語の説明を含むことに上記の意図はありません。
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