貫きとめる言霊

 私が知る和歌は、百人一首のものがほとんどである。

 選択授業で、のコマを選択していたおかげかもしれない。

 和歌を知る契機、和歌に触れたきっかけそのものは国語の教科書だ。恐らく、古典の授業の序盤で『万葉集』を読んだのが最も古い記憶だと思う。もっとも、私は古典が得意ではなく、解説用の補助テキストがなければロクに点数が取れなかった。ただ、『万葉集』の抜粋は、文字数が少ないためか抵抗感も控えめだった。現代語訳が分かりやすかったのもあるだろう。

 とはいえ、それを魅力的だと感じたかどうかで言えば否だった。


 古典については、橋本治の名著『これで古典がよくわかる』*に救われた。

 実のところ、完全に苦手意識が消えたわけではない。成人後の出会いに、学生時代に読んでいればと過去の機会損失を悔いもしたものだ。当時の私は、講義などを通じて「古典」を真剣に学ぶ機会を失っていたのである。私の作品を読み、「古典」はおろか、基礎的な日本語の知識の欠落を察した方もいるかもしれない。博覧強記の読者諸氏には平伏するばかりである。

 古典も、現代文も、諸事情でまともに向き合わずにきた代償だ。


 そのため、和歌の知識も「かるた」どまりだったわけである。

 和歌といえば、古今和歌集や新古今和歌集などに優れた歌が編輯されている。

 にもかかわらず、私自身の知識はほとんど中学生以下の乏しさだ。冒頭の選択授業の際、『百人一首』の現代語訳を添えた解説用の文庫本*を買った。所謂、競技かるた風の、実践形式の授業だったため和歌の暗記が必須だったからだ。といっても、真面目に暗記に励む生徒はほとんどいなかった。私自身、「決まり字」を含め、数十首も覚えていたかどうか疑わしい。

 そんな中で、私の記憶に焼き付いた和歌がひとつだけあった。

 

 【下記、書籍より引用】


  白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける

 (『百人一首』 46ページ マール社編集部、マール社、2008年)


 ちなみに、作者は文屋朝康ふんやのあさやす。生没年未詳、とも書かれている。

 解釈を引用すると、「草葉の上に置いた白露に、風が吹きつけている秋の野では、白露が散り乱れて、まるでつなぎとめていない玉が散りこぼれているように見えます。」(注1)だ。つまり、珍しいことに「情景描写」に徹しているのである。それも、まさに「」の、瞬きの間に喪われていくであろう刹那を、僅かな言葉のみで切り取った情景描写なのだ。

 和歌といえば、詠嘆などの心情描写が多いものと思い込んでいた。


 この和歌が、私の情景描写に対する関心を叩き起こしたと言っていい。

 今までも、そして現在も、私は特徴的な情景描写のある作品に惹かれる。文字に置換され、文章に翻訳された、言葉のみを構成物として成立する架空の光景。写真でも、絵画でもなく、あり得ざる玉響を写し取るために綴られた言の葉。これが、私の文章の理想であり、極致といってもいい削ぎ落とされた美だ。過剰な装飾を排し、最低限の文字で景色を連想させる言霊。

 その趣味は、古典を離れ、短歌や小説といった文芸の形態に飛躍した。


 文学作品、文芸と呼ばれるものの形態はいくつもある。

 詩、あるいは戯曲や小説など、書き手によって選ぶ媒体も異なるだろう。私は、特に文章を好む傾向が顕著なため、やはり小説として作品を出力することが多い。心理描写、人間の感情や情念を軽んじるつもりはないのだ。ただ、言葉でしか、文章でしか表現し得ない情景があると信じているだけで。現実と紙一重の、想念の錐で貫通された言葉の連珠を鍾愛するだけで。

 書き手として、玉響に散りこぼれていくさだめの言霊を貫き留めること。

 それだけが、未熟な私のたっての望みなのかもしれない。



【参考文献】

* 『これで古典がよくわかる』 橋本治著、筑摩書房、2003年

* 『百人一首』  マール社編集部、マール社、2008年


注1 『百人一首』 46ページ マール社編集部、マール社、2008年

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