たりないはらわた

人間という病

魂のための独房


 曰く、────「肉体ソマは魂のセマである」。


 古代ギリシア語で、肉体と魂の二元論にもとづく発想のひとつを表しているのだそうだ。カクヨムに公開する以上は、適当なことを書く訳にはいかないので、昔この言葉を見かけた書籍を本棚から引っ張り出してきた。本棚の片隅で埃を被っていた新書を手に取る。


 岩波新書、本村凌二氏の著書だった。しかしながら、件の「ソマ・セマ」については、別の著書からの引用が大半を占めていた。二重引用になると困るため、本村氏の著作と引用元の書籍を末尾に記すのみとする。気になる方は、ご自身でご覧いただければありがたい。(注1・2)


 ともかく、肉体が「魂の墓」とは言い得て妙だ。

 現世にある限り、生きている限りにおいて、肉体は魂を繋ぎ止めるために機能する。抽象的な表現だけれど、魂を自我と捉えるのなら、自我という意識を発生させる脳と紐付けやすい。生命活動が続く間、人間の脳には、生身の肉体には自我という名の魂が抑留され続ける。


 初めてこの言葉を知った時、私はさらに別の言葉を連想したものだ。

 そして、連想のなかに奇妙な符号を見出していた。「墓というよりも、むしろ独房なのではないか」という着想は、やはりとある著書から得たものだった。頭木弘樹翻訳、『絶望名人 カフカの人生論』という書籍に採録された、文豪フランツ・カフカの言葉でもある。

 著作権のことを考えて、こちらも引用はやめておこう。ただ、頭木氏の翻訳、あるいは超訳によれば、カフカは人生のことを独房に喩えていたようだ。比喩ではなく、本当に逃れ得ない独房のように感じていたのかもしれない。(注3)


 生きている限り、人生から逃れる術はない。

 私という自我を、強いて魂と呼ぶのなら、脳はまさしく魂のための独房だろう。そして脳は、やはりどうしようもなく肉体の部品のひとつである。魂のための、あるいは自我のための独房。少なくとも墓に喩えるより、檻のような独房と捉える方がしっくりくるというものだ。

 懊悩、苦痛のすべては、によって生じるのだから。


 頭木弘樹氏は、この書籍の冒頭で、いかにフランツ・カフカがネガティブな人間であったかを説いている。まさに頭抜けた、常人離れしたに注目したのだろうと思う。時に「超訳」を加えながらも、カフカが綴った言葉の根底にある絶望に共感したに違いない。載録された名言のいずれもが、生きることの本質的な苦痛をしかと見抜いている。

 昔、カフカの全集を読んだけれど、人生という理不尽の縮図のようだった。


 ちなみに、聡い方は、私の持病の正体を察していらっしゃるかもしれない。頭木氏はとある病を患っていることを公表している。白状すると、私も同じ病によって大腸を喪い、はらわたが足りなくなった身である。人間は誰もが皆、肉体という独房に繋ぎ止められる。私たちの魂、あるいは自我は脳に抑留されるがまま、墓標となるべき肉体を背負って生きざるを得ない。

 この不健全な独房からは、死ぬまで逃れられないというわけだった。


【参考文献】

注1『多神教と一神教』 本村凌二著、岩波書店、2015年

注2『クラテュロス』 プラトン著、水地宗明訳、岩波文庫

注3『絶望名人カフカの人生論』 フランツ・カフカ著、頭木弘樹翻訳 飛鳥新社、2011年

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