22 炎が僕に選択の余地を残したように感じた。

どうしたらあきらめられるだろう? 降伏することは、生き残るためにもがくよりも想像を絶するほど危険だった。

 活字業界は秋口まで回復しなかったが、僕はキャッチボールのように仕事を見つけた。

9月までに、僕はカナルストリートの真上にある長屋のアパートの賃貸契約を結んだ。かなり大きな1ベッドルームの鉄道アパートだったが、汚かった。引っ越してきたときは掃除する気力もなかった。少しずつ掃除しようと思ったんだ。エアマットレスと毛布と枕を買った。アパートで本当に必要だったのはそれだった。安全な寝床、それだけだった。

 最初の戦いで、僕は非常階段に這い出た。この街の人たちが公園と呼ぶ小さな一帯に、数本の緑の木が並んでいるのが見えた。

 小さな逃げ道に並ぶ数本の緑の木々を見られた。この街の人たちが公園と呼ぶ、小さな一帯に数本の緑の木が並んでいるのが見えた。ブルックリンへの橋にバックしてた交通量は減ってた。マリアッチ[メキシコの民俗的ないし大衆的な楽団]と北京語の音楽が夜に溶け合ってた。通りの向こうの非常階段には、小さなギリルが座っていた。香港のポップスを歌いながら、ある男と髪を梳きあってる。下のアパートで男と女が激しく争ってた。僕は衝撃音に緊張した。さらに不吉な沈黙が続いた。隣のアパートの開け放たれた居間の窓から、ミシンの音が聞こえてきた。

 街のかすかな光が夜の闇を和らげてた。空にまだ星があったとしても、僕の視界には入ってこない。


                 □□□


 その1ヵ月後、僕は隣人に会った。アパートの鍵を開けると、彼女は自分のアパートを開けた。僕は顔を上げる前に挨拶をした。彼女は返事をしなかった。

 彼女の顔に僕は驚いた。黄色、赤、青の虹のようなひどい痣が片側にあった。髪はとんでもなく紅かった。女になるのは簡単なことじゃないとわかった。それは彼女の大きなリンゴや骨太の手だけじゃない。僕が話しかけると、彼女は目を伏せ、急ぎ足で去っていった。

 毎日、僕はこの街で僕と同じような人を見かけた。でも、僕らは自分たちが注目されることを恐れ、互いにそわそわとした視線を送るだけだった。公衆の面前で一人でいることは十分に苦痛だった。僕らには、共同体に集い、自分たちのやりかたや言語に浸る場所がないように思えた。

 でもいま、僕には僕と同じように異質な隣人がいた。数週間が経つにつれ、僕は彼女のアパートから聞こえる音や匂いに興味をそそられるようになった。彼女は延々と裁縫をしてた。彼女はマイルス・デイビスが大好きだった。そして彼女がオーブンを開けるたびに、玄関の外は食欲をそそる香りでいっぱいになった。

 ある土曜日の午後、僕は彼女が食料品の入った大きな袋を2つ抱えて、階下の玄関の鍵をいじっているのを見つけた。

 僕は鍵を取り出した。「ほら、貸して」彼女は礼も言わなかった。彼女は階段で僕の先を急いだ。「運ぶの手伝おうか?」僕はそう申し出た。

「私が弱く見える?」

 僕は階段で立ち止まった。「いや、僕の出身地では、それは単なる敬意の表れ、それだけ」

 彼女は階段を上り続けた。「私の出身地ではね」と彼女は言った。

 アパートの部屋のなかからドラァグクイーンの声が聞こえた。「誰だい、ルース? あら、かわいいじゃない! 入れてあげて」

「ターニャ、お願い 」ルースはドラァグクイーンを睨んで黙らせた。リビングルームから誰かが僕を覗き込んでいるのが見えた。

 ルースは、彼女の友人と僕が好奇心旺盛にお互いをチェックしている様子に、目に見えて苛立っていた。「失礼なことを言うつもりはないけど、ここは私の家よ。ここは私の家なの」

 僕は彼女のドア枠に手をかけた。「でも、話があるんだ」彼女は僕の手をにらみつけた。 

 僕は手を離した。

「でも、あなたと話す必要はない。失礼」彼女はドアを閉めた。

 僕は、ルースが要求した通り、ルースに広く接するしかなかった。


                 □□□


 僕は非常階段で毛布にくるまって震え、その日を手放したくなかった。気温は10月下旬には珍しく75度(24度)まで上がっていた。夕方の冷たい風は、マンハッタンの基準ではまだ新鮮な匂いがした。

 ルースはリビングルームの窓から顔を出した。「ああ」彼女は驚いたように言った。「ここにいたのね。寒いから窓を閉めるわ」僕はため息をついて空を見上げた。

「きれいな夜でしょ」彼女の声の性別の濃淡は、僕の声のように複雑だった。

 僕は微笑んだ。「今夜は中秋の名月だね」

 ルースは笑った。「あなたみたいな都会っ子に収穫の何がわかるの?」

 彼女の言葉と口調は僕を怒らせた。僕はみんなの「その他大勢」であることにうんざりしてた。でも僕の一部はルースの友情をとても必要としてた。だから、答える前に少し時間をおいて、怒らずに話した。

「コオロギとセミの鳴き声しか聞こえない真っ暗な野原で、何億もの星の下に立っている気持ちはよくわかる」ルースは月を見つめながらうなずいた。僕はレンガに頭を打ちつけた。「億の星の下、真っ暗闇。川が滝に向かって急ぐとき、淵で曲がっているところは半透明で緑色をしていて、波打ち際に流れ着いたときの瓶のガラスのようなんだ」

 僕はルースに微笑んだ。「きみの髪が初秋の野生の櫨のように赤いのも知ってるよ」

 ルースは目を見開いて僕を見た。「なんて素敵なことを言うんだろう。北部出身でしょ。訛りでわかるわ。私もよ」

 僕はうなずいた。「わかってる」

ルースの僕に対する態度が一変した。彼女は僕のためにドアを部分的に開ける準備ができているようだった。そのとき、僕はまだ彼女に拒絶されたことに傷つき、怒っていることに気づいた。彼女がもう一言言う前に、僕は「おやすみ」と言ってリビングルームに戻った。

 窓辺に頭をもたげ、マンハッタンに昇り続ける月を眺めた。

マッチを擦る音と彼女の煙草の煙の匂いがしなければ、ルースが僕のすぐそばで同じことをしていたとは気づかなかっただろう。

 彼女とは2、3ヶ月会わなかった。音楽も裁縫の音も聞こえず、廊下は便器の臭いに戻ったからだ。

 僕はエアマットレスで寝るのに飽き飽きし、救世軍からベッドを買った。誰かに盗まれても気にならないほどボロボロの中古のレコード・テープ・プレーヤーも手に入れた。

 ある土曜日の午後、残業が何週間も続いた後、僕は遅く起きた。僕のアパートはとても汚く、うんざりした。掃除用具を買いに行くために身を固めるころには、日の光は灰色に薄くなってた。

 ルバーブを煮込む刺激的な香りに引っ張られ、僕は階段を2段ずつ上がった。そのたまらない匂いはルースのキッチンから漂っていた。ルバーブの煮える匂いを嗅いだのは子どものころだった。

 その香りに唾液がどっと出て、涙腺が痛くなった。

 僕が鍵を受け取ると、ルースがドアを開けた。「ごめんなさい」と僕は言った。「ルバーブ料理の匂いを嗅ぐのは久しぶりなんだ。なつかしい」

 ルースはうなずいた。「パイを作ってるの。コーヒーはいかが?」

 僕はためらった。でも、僕は僕らの警戒心と無防備さにうんざりしてた。「ありがとう」と僕は微笑んだ。「彼女のキッチンに入ると、僕はうめき声をあげた。「すごくいい匂い」

 ルースは微笑んだ。「本当は小さなパイをプレゼントしてあげたいんだけど、入院している友だちにあげるの」とルースは微笑んだ。

 僕はうなずいた。「子どものころは、黒砂糖と一緒にプレーンにしてよく食べた」僕はうなずいた。

 ルースは鍋をかき混ぜた。「十分な量があると思うわ」彼女は手を動かすのを止め、古風な花柄のエプロンのポケットに手を突っ込んだ。

 僕はキッチンの壁に飾られた小さな水彩画を指差した。「クイーン・アンズ・レースはわかるけど、この紫の花は何?」

「アスターよ。これはイヌマキ」と彼女は言った。

 僕は普段、花の絵は好きではなかったが、この絵を見て、初めて見たときの花の姿を思い出した。「本当に素敵だね」

「ありがとう」

「きみが描いたの?」と僕は尋ねた。彼女はうなずいた。「これはきれいだね」僕は色とりどりのパンジーが刺繍された額入りのハンカチを指差した。「パンジーはずっと好きだったんだけど、私も恥ずかしかった」

 ルースは僕の目を見て、鍋をかき混ぜる作業に戻った。「もうすぐできあがるわ。座って。座って」

「バッファローが恋しい」僕はため息をついた。「少なくとも、昔はそうだった。僕が育ったころはブルーカラーの町だった。工場が閉鎖され、郊外の人たちが引っ越してきて、僕らの家を安く買うなんて想像もできなかった」

 ルースはうなずき、コーヒーをかき混ぜた。「そうね」

「私も田舎の生活が変わるのを見たわ。大きなワイナリーが平地を占領すると、丘の上の小さな家族経営のブドウ畑を存続させるのが難しくなった。だから都会が人々を仕事や買い物に誘ったの」

 僕は微笑んだ。「田舎暮らしはあまり変わらないと思ってた」

 ルースは優しく笑った。「それが都会からの眺めよ」

「バッファローで育った気持ちはわかる。でも、こんな小さなところで育つのは大変だっただろうね」僕は、自分の言ったことが個人的なことに聞こえはしないかと思った。

 ルースはため息をつき、椅子にもたれかかった。「大変だったかどうかはわからない。ただ、簡単ではなかったということだけはわかる。この谷全体の人口が200人以上だったら驚くわ。でもある意味、だからこそ生き延びることができたんだと思う。ブドウ畑のために外部の力を借りることはできなかった。だから、昔からの協力の絆が完全に切れたわけではなかった。私には居場所があった。でも、もしここを出ていなかったら、私は決してマイルス・デイヴィスに出会うこともなかっただろうし、私の髪はずっと土のように茶色かったかもしれない」

 ルースは立ち上がると、柔らかいルバーブをスプーンですくって皿に入れ、ブラウンシュガーを砕いた。僕はスプーン一杯を口に入れ、ため息をついた。

「味覚のことは忘れていた」彼女は顔をしかめた。「どういう意味?」

「お腹が空いたから食べるんだ。ファーストフードもテイクアウトも。味なんて感じない」

「でも、これは泣きたくなるほどおいしいわ」

ルースは笑わずにうなずいた。「私は自分の楽しみのために料理をする。食べるのと同じくらい、準備するのも楽しいの」

 僕は肩をすくめた。「僕、料理はあまり得意じゃないんだ」

 彼女は身を乗り出した。「これはとても個人的なことなの。答える必要はないけれど、なぜカーテンをしないの?」

「まあ、僕のアパートは寝るだけの場所だから」

 ルースは首を振った。「それは変ね」

「僕は本当にここに住んでいるんだ」

「夜の仕事は違うのよ」

 僕は言い訳をした。「家に帰ったら寝るだけ。それに、去年の夏、火事ですべてを失ったんだ。もうどうでもいい。いまは気にしたくない」

 ルースは唇をすぼめた。「気にするものがなければ、失うものもないってこと?」

 僕はうなずいた。「ああ、そんな感じ」

 ルースは切なそうに僕を見た。「じゃあ、もう何もかも奪われてしまったのね。もう失うものは何もないんでしょう?」

 なぜ彼女が私僕を招き入れることにしたのかわからなかったが、突然、僕は身ぐるみ剥がされたような無防備な気持ちになった。だから僕は最後にコーヒーを飲んだ。ルバーブを口に含み、立ち上がろうとした。「ありがとう。ごちそうさま」

 ルースは僕をドアまで見送った。

「今日、ユニオン・スクエアのファーマーズ・マーケットに行くの。何かほしいものはある?」

 僕は玄関の鍵を開け、首を横に振った。「いいや、でもありがとう」

 なかに入ると、僕は窓を開け放ち、真剣に掃除を始めた。数時間後、僕は音楽を聴きながらシンクの下の汚物をこすった。音楽を聴きながら。

 ドアをノックする音に驚き、僕は頭蓋骨をパイプにぶつけた。僕は怒って頭をさすりながらドアを開けた。ルースはオレンジ色のグラジオラスを腕いっぱいに広げた。

「あなたが掃除しているのを聞いたの。大変な仕事の後だから、明るくしてくれると思ったの」

 僕は玄関のドアを少し開けた。「ありがとう。これを入れるものがないんだ」

 しばらくしてルースがカットガラスの花瓶を持って戻ってきた。彼女は僕の不毛なアパートに恐怖を隠せなかった。僕は不快そうに体重を移動させた。

「家具を買ったりする時間がなかったんだ」

 僕は花を水に挿し、誰もいないリビングルームの真ん中に置いた。

「本当に、ルース。女性に花を贈ることはあっても、僕に花を贈る女性はいままでいなかった」

「素敵なことだわ」ルースは顔を赤らめた。

「人は花を必要とするのよ」

 彼女は去ろうとして立ち止まった。「あなたの名前も知らないの」

「ジェス」彼女は微笑んだ。

「ジェシーという叔父がいた」

「ジェシーって略すの?」僕は首を振った。「ただのジェスだ」

「ジェス、お掃除をお願いね」

 僕はうなずいた。「花をありがとう」

 彼女が帰ると、僕はまたゴシゴシ洗いに戻った。

 数時間後、僕はリビングルームの床に座り込んだ。ルースが正しかったのかもしれない。大切なものを失うことを恐れるということは、すでにすべてを失っているということだった。

 僕はまたドアをノックする音を聞いた。ルースだった。彼女は未晒しのモスリンの束を広げた。

「私のリビングルームにあったカーテンよ。私の窓もあなたと同じ大きさだから、お譲りしようと思ったの。あなた次第よ」

 僕はルースと、彼女の大きな手に握られた贈り物を見つめ、両方にイエスと答えた。

 一週間後、僕はルースの花瓶に花菖蒲を生けた。彼女の笑顔が僕へのご褒美だった。

「花瓶ある?」僕は首を横に振った。

「どうぞ。これ、好き?」彼女はコバルトブルーのガラスの花瓶を僕に手渡した。

 僕はため息をついた。「この色に引き込まれる。この色を味わうことができそうだ」

 ルースは色を味わいながら休んだ。

 ルースは僕の頬に指先を置いた。「ジェス、あなたはお腹が空いてるのよ。あなたの感覚は飢えているのよ」

 僕は深い青の奥を見つめた。

「私が今夜夕食を作るとしたら、何を食べる? 魚?」

 僕は笑った。「魚が食べもの?」

 ルースは首を振った。

「そんな、あなたは肉とジャガイモが好きな人じゃないでしょう?」僕は目を伏せた。

「僕は男じゃない、ルース」

 彼女はうなずいた。「じゃあ、そう言うとちょっとひねりがあるわね。よし、赤身肉を作ってあげましょ。でも警告しておくけど、食欲を増進させるからね」

 なんて素晴らしい申し出だろう! でも、なぜ彼女はいま、僕に優しくしてくれたんだろう?

 その日の午後、僕は新しいチノパンとドレスシャツを買った。ファーマーズ・マーケットに立ち寄り、クィーン・アンズ・レースのゼリーを買った。バルダッチで太ったブルーベリーを見つけ、タワーレコードでマイルス・デイヴィスのテープを見つけた。

 ルースはささやかなプレゼントを喜んで笑った。

「このブルーベリーはデザートにするわ。このゼリーは紅茶に使うわ。でも、どうして私がこのコンサートテープが欲しいってわかったの?」

 僕は恥ずかしそうに微笑んだ。

 ルースは笑った。「そうよ。座って」

 彼女のキッチンは匂いが充満してた。ルースは大きなサラダを僕の前に置いた。ボウルには黄色とオレンジの花が、見たこともない野菜と一緒に入っていた。僕の目は涙でいっぱいになった。

「ルース、僕のサラダに花が咲いてるよ」

 ルースは微笑んだ。「それはナスタチウムよ。きれいでしょう?」「食べてもいい?」

 彼女はうなずいた。僕は首を振った。

「食べられないよ。芸術品のようだ」

 ルースは僕の隣に座った。

「それはあなたがどれだけ飢えていたかということでもある。これが最後の美しいものだと恐れて、それを持ち続けたいんだと思う」

「どうしてそう思うの?」

 ルースは微笑んだ。「私はあなたの隣人よ。素晴らしいサラダよ、ジェス。あなたのために作ったのよ。でも次も甘美なものになるでしょう」

 僕は顔を赤らめ、フォークを置いた。

「足が眠ってしまったとき、血行が戻ったときに痛むの知ってる? 期待したくないんだ。

また失望したくないから」

 ルースは僕の腕をなでた。「私たち二人とも、がっかりすることはもうわかってるわ。期待するのはやめましょう」

 彼女は立ち上がり、僕が持ってきた音楽をかけた。サラダを食べながら、涙が頬を伝った。

 ルースは微笑んだ。「バルサミコ酢よ。素晴らしいでしょう?」ナスタチウムとバルサミコ酢の味が舌の上で私を泣かせた理由をどう説明すればいいのだろう?

「ごめんなさい」僕は目を拭いた。

「だから僕を入れたくなかったんだろう? どうしていまになってそんなに優しくしてくれるの?」

 ルースはフォークを置き、僕の手を彼女の手で覆った。

「冷たくしてごめんなさい。私はあなたを誤解していた。怯えて混乱しているのかと思った。あなたが手を引いた後、私はあなたを理解できないことに気づいたわ。あなたは私が最初に評価したよりもずっと強く、落ち着いているように見えた。だから考えを変えたの」

ルースは微笑んで、「女性の特権よ 」と言った。

 僕は顔を赤らめ、フォークを置いた。「足が眠ってしまったとき、血行が再開したときの痛みがわかるだろう? 期待したくない。またがっかりしたくないから」

 ルースは僕の腕をなでた。「私たち二人とも、がっかりすることはもうわかってるわ。期待するのはやめましょう」彼女は立ち上がり、僕が持ってきた音楽をかけた。

 サラダを食べながら、涙が頬を伝った。ルースは微笑んだ。「バルサミコ酢よ。素晴らしいでしょう?」

 ナスタチウムとバルサミコ酢の味が舌の上で僕を泣かせた理由をどう説明すればいいのだろう?

「ごめん」僕は目を拭いた。「だから僕を入れたくなかったんだろ? どうしていまになってそんなに優しくしてくれるの?」

 ルースはフォークを置き、僕の手を彼女の手で覆った。「冷たくしてごめんなさい。私はあなたを誤解してた。怯えて混乱してるのかと思った。あなたが手を引いてくれた後、私はあなたのことを理解できなかった――私のなかでは、それはとても魅力的な資質なの。あなたは、私が最初に評価したよりもずっと強く、狡猾に思えた。だから気が変わったの」ルースは微笑んだ。「女性の特権よ」

「最終的に何が僕を入れる決心をさせたの?」

 ルースは僕の手を握った。「私の髪の色は、世間に対して "隠れていない "という宣言なの。隠すのは難しい色だけど、自分の人生と決断を祝福するためにやってるの。たいていの人は私の髪の色を恥ずかしがるわ。それを櫨の色に例えるには、特別な人が必要だった」

 僕は笑ってサラダをつまんだ。「僕が男か女かわかる?」

「いいえ」とルースは言った。「だからあなたのことがよくわかるの」

 僕はため息をついた。「初めて会ったとき、僕を男だと思った?」

 彼女はうなずいた。「最初はノンケだと思った。それからゲイだと思った。私でさえ、セックスやジェンダーについて、事実とは異なる思い込みをしていることに気づいてショックを受けたわ。私はそのすべてから解放されたと思ってた」

 僕は微笑んだ。「僕が男だと思われたくなかった。僕がどれだけ複雑な人間かを知ってほしかった。きみが見たものを好きになってほしかった」

 ルースは指先で僕の頬をなでた。I 震えた。「まあ、すぐにはわからなかったけど。あなたはとてもかわいくて、ハンサムで、おもしろい人だと思ったわ」ルースの言葉さえも贈り物だった。

 僕は彼女の注目に飢えているのを見られないように目を伏せた。「ああ、ルース。自分たちを表現する言葉、自分たちをつなぐ言葉があればいいのに」

 ルースは立ち上がり、ブロイラーを開けた。「もうレッテルはいらないわ。「私は私。私は自分をルースと呼ぶわ。母はルース・アン、祖母はアン。それが私なの」

 僕は肩をすくめた。「ただ、わざわざ口に出して言いたくなるような素敵な言葉があればいいんだけど……」

 ルースが皿を置くと、僕はステーキを見つめた。「この上に乗っている小枝のようなものは何?」僕は尋ねた。

「セージよ」彼女は小さなニンジンとミニカボチャをスプーンですくって僕の皿に乗せた。彼女はオーブンのドアを開けると、蒸しパンと甘いバターを出してくれた。その一口一口が、僕の口のなかで音楽のように響いた。

「さあ、あなたが持ってきてくれた素晴らしいデザートを食べましょう」彼女は2つのカートンボウルにブルーベリーを入れ、生クリームをかけ、砂糖をまぶした。

 僕は涙をこらえ、彼女の腕をぎゅっと握った。「ルース」言葉が喉に詰まった。

 彼女は僕の手を自分の手で覆った。「ジェス、私は空腹を知っている」彼女はマグカップを持ち上げた。「あなたとの友情に乾杯?」

 僕は自分のマグカップを彼女のマグカップにぶつけた。「ああ、"僕らの友情に"」と僕は答えた。


                 □□□


 僕は中古の家具を買い求めた。春の雪解け。

 ルースは僕よりも興奮しているように見えた。僕の部屋は徐々に形になっていった。ルースはパンジーの刺繍が施されたハンカチを額に入れてキッチンの壁に掛け、祖母と一緒に作ったネクタイキルトを僕のベッドにプレゼントしてくれた。

 でも、ルースが自分のアパートのペンキ塗りを手伝ってほしいと言ったとき、彼女と僕が親しくなってることを実感した。僕が彼女の壁を新鮮な色で覆ったとき、彼女の喜ぶ顔を見るのは至上の喜びだった。食器棚がまだ白いエナメルでベタベタしているのに、彼女は興奮して棚紙を切った。

 僕は都会の複雑な生活層を楽しみ、ルースと一緒にその隅々まで探検したいと切望した。でも、僕らは一緒にアパートを出ることはなかった。彼女が「幾何学理論」と呼んでた、「私たちのような人間が二人公共の場にいると、トラブルが2倍以上になる」という理由からだ。

 その代わり、僕らは日々の旅から小さな贈り物をお互いに持ち寄った。僕は彼女にヴィラ・ロボスを、彼女は僕にキース・ジャレットを、僕は彼女にフォルシシアを、彼女は僕にインパチェンスを持ってきた。しばらくして、僕らは涙と悔しさも交換した。

「どうして、ルース?」僕は彼女の台所に突進した。「僕らが道を歩くと、なぜみんな振り返るんだ? どうして僕らはこんなに嫌われてるんだ?」

 ルースはコンロの内壁を磨く手を止めた。「ああ、あなた。私たちは人と違う人を憎むように教えられてきたの。脳みそに叩き込まれてるのよ。そのせいで、みんなお互いに争うようになったのよ」

 僕は椅子に腰掛けた。「昔は世界を変えたいと思っていた。いまはただ生き残りたいだけだ」

 ルースは笑った。ゴム手袋を外すと、彼女の手袋が切れた。「まだあきらめないで。ものごとは長い間変わらないこともあるし、追いついてくるのが早すぎて頭がクラクラすることもある」

 僕はため息をついた。「宇宙を探検するとか、病気を治すとか。どのトイレを使うかで、こんなに人生の大半を争うことになるとは思ってもみなかった」

 ルースはうなずいた。「ランチカウンターに座る権利のために命を賭ける人を見てきた。あなたや私が生きる権利のために戦わないのなら、これから生まれてくる子どもたちが戦わなければならないのよ」

 僕はキッチンの椅子の背もたれに頭を預けて笑った。「喜んで、ルース。きみは砂漠で最後に冷えたコカ・コーラだ」僕は明らかに彼女を虜にする笑顔を見せた。僕はそんなことができるのを忘れてた。

 その晩、僕らは非常階段に這い出て 午後から夕方へと移り変わるなか、僕らは互いの近くに座った。僕より大きな体を抱いたのは初めてだった。僕らの下の通りはお祭りのために封鎖されていた。

 ルースは泣き始めた。「ああ、ジェス。あなたの夢のなかでさえ、私はあなたがどれほど傷ついているか聞くことができるわ」僕は彼女の真っ赤な髪にキスをした。「ジェス、私はひとりでいるのが心地よくなって、自分がどんなに孤独か忘れてた。ターニャやエスペランサ、縫製しているショーガールたち、大好きな友だちがいる。でも、あなたにはとても親しみを感じる……説明できないわ」

 僕は彼女を優しく揺さぶった。「ルース、もしきみの人生が音楽になるとしたら、どんな楽器が演奏されるんだろ?」

 彼女は僕に寄り添った。「ソプラノ・サックス」

 僕は微笑んだ。「悲しいから?」

 彼女は首を振った。「いいえ、とても連想させるから。どんな楽器があなたの音楽を演奏するのかしら、ジェス?」

 僕はため息をついた。

 ルースは僕を強く抱きしめた。「悲しいから?」

 僕は首を振り、街を見渡した。「いや、とても複雑だから」

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