23 エルダーベリーの四分の一を革のジャケットにはさみ、

冬にエルダーベリーを僕が見つけたことをルースがどんなに喜ぶだろうと思いながら、にやりと笑った。彼女にとっては故郷の味であり、人生の四季の味なんだろう。僕はすでにホットエルダーベリーパイの匂いを感じてた。地下鉄の線路に身を乗り出し、見渡す限り下を見下ろした。早く家に帰りたかった。時間以内に日が昇るだろう。ルースのミシンは鼻歌を歌ってるだろう。彼女がエルダーベリーを見るまで待って。彼女の笑顔が僕の夜明けになる。

 三人の10代の少年を見る前に、僕はその声を聞いた。彼らは改札口を飛び越えるとき、仲間意識からけたたましく叫んだ。白人の少年たちは化学薬品に酔ってた。彼らの最初のターゲットは、ベンチで眠っていた老人だった。彼らは老人をあおり、蹴飛ばし、残忍な手から手へと渡した。彼が改札口を突き破って走り出すと、彼らは笑った。

 そのとき、僕はミスを犯した。僕は彼らから離れ、駅の奥へと進んだ。そうすることで、出口からも、助けを求める可能性からも遠ざかった。人生には罰せられない過ちもあれば、決して忘れない教訓を与えてくれる過ちもある。

 彼らの足音が近づいてきたとき、柱の陰に隠れるよりはましだと僕は思った。うずくまってるのがバレるほうがずっと悪い。僕はバッグのなかからエルダーベリーを取り出した。その酸味が僕の感覚を高めた。その実が僕の手を戦いの勝ち負けの色で染めた。僕は残りの実を台の上に置いた。

 群れのリーダーが現れた。彼は僕の顔に手を伸ばした。「何をしにきたんだ?」僕は自分の手で彼の手をさえぎった。彼は微笑んだ。始まったんだ。僕のトゲトゲの拳は彼らの視界から消えた。僕は覚悟を明かさなかった。彼の仲間は睨みつけ、嘲笑した。でも、彼の笑顔には歯が立たなかった。それは僕に無力さを認めさせるための警官の微笑みを思い出させた。

「お前は何なんだ? お前が何なのか、俺にはわからない」彼の嘲笑と威嚇は僕の胸から転がり落ちたが、それは僕がそれらに無関心だったからではなく、僕が溢れんばかりに満たされていたからだった。

 僕は耳を貸そうとしなかった。彼が何を言おうと関係なかった。何を答えるかは重要じゃなかった。重要なのはアクション、彼らと僕の身体の位置関係、物質と空間の並置、開いた喉と無防備な膝頭だけだった。アクションが爆発した瞬間、僕は攻撃し、力関係を変える瞬間が訪れる。彼らのパンチが僕の身体に当たったとき、僕の目に血が充満したとき、僕がもはや息ができなくなったとき、僕は彼らのものになるんだ。僕は歯と歯のあいだに残ったエルダーベリーの砂粒に身構えた。いまにも噴出しそうだった、いまにも。

 僕はリーダーの目を見つめ、恐怖を見せまいとした。もちろん、僕が恐れてることはお互いわかっていた。僕は死ぬ準備ができていなかった。ああ、確かに怖かった。でも、まだ彼に見せてなかったのは、僕の怒りだった。いじめっ子たちを捻じ曲げ、僕に解き放った力を、僕は手に入れることができないかもしれない。

 電車のドアが開いた。早朝のラッシュアワーの群衆は、恐怖のあまり僕から遠ざかっていった。ドアが閉まったとき、僕は周囲を見回した。彼らは僕を追って電車に乗ってはいなかった。エルダーベリーと血で汚れた自分の手を見た。その血のどれだけが自分の血なんだろう。頭のズキズキがますます激しくなった。鉄の棒のような痛みが僕の顎を貫いた――燃えるように熱く、氷のように冷たい。視界が二重になった、 焦点が合い、またぼやけた。轟音で電車の音が聞こえない。

 僕は14番街で電車を降りた。僕が見たかったのはルースだった。どうせ死ぬなら、自分を理解してくれる人の腕のなかで死にたかった。でも、一緒に病院に行ったら、ひどい目に遭うかもしんない。ひとりで行って、Tシャツを脱がされなければ、助けてくれるかもしんない。

 セント・ヴィンセント病院の二重ドアをよろよろとくぐった僕に、誰も気づいてくれなかった。すると、手が伸びてきて、僕を導いてくれた。看護師が僕の顔を覗き込みながら、僕に用紙を押してきた。僕は保険に加入し、足がつく心配のない人を発明した。僕の嘘をチェックするのに、どれだけの時間がかかるんだろう?

 別の看護師が僕をそっと横たえた。強風が目の奥に吹きつけた。医師と看護師がテーブルの上にかがみ込み、僕を覗き込んだ。彼らは何を見たんだろう。天井が動き始めた。僕は車輪でどこかに運ばれてた。目を開けると、医師が僕の口を縫ってたのを覚えてる。もがきたかったが、じっと横になってた。頭が痛かった。

 再び目を開けると、そこには看護師しかいなかった。

 すぐに保険に入っていないことがバレる。すぐに警官がやってくる。僕が彼に話したことはすべて嘘だった。僕はまだ男女の無法者であり、警察と遭遇すれば身柄を拘束されてしまうかもしんない。僕はパニックに陥った。逃げるときだった。財布を確認した。タクシーで帰るには十分すぎるほど持ってた。

 救急処置室はとても混沌としていて、誰も僕が去ったことに気づかなかった。外の冷たい風は腫れた顔には心地よかったが、頭皮は痛かった。僕はよろめきながら14番街の角まで行き、タクシーを呼んだ。運転手が振り向いた。

「どこ行きます?」僕は答えられなかった。彼は顔をしかめた。「どこまでですか、ミスター?」僕の手はイライラして動いた。「酔ってるのか?」

 ルース。ルースの元へ行きたかった。僕は歯茎に力が入っているのがわかるように、にやにやした。「なんてこった」と彼は言った。僕は字を書く真似をした。彼は僕にパッドを渡し、住所を書いた。彼は運転しながらバックミラーで私を見ていた。「何があったの?」僕は肩をすくめた。

「ああ、そうだね。しゃべれないのか。忘れてた」彼は僕のビルの前で車を停めた。「3ドル40セントです」と彼は言った。僕は彼に5ドル渡し、そのままでいいからと手を振った。

 僕はルースの腕のことばかり考えてた。でも、彼女のドアに着くまでに僕は躊躇した。彼女のアパートから声が聞こえていたにもかかわらず、僕はノックをしなかった。静かに自分の家の鍵を取り出した。鍵は血で固まってた。

 吐いたら窒息死するのではないかと思い、呼吸を静めた。ドアを閉めてしばらくすると、ノックの音が聞こえた。ルースに違いないと思った。僕はじっとしてた。

 彼女はパッドと鉛筆を持ってきてくれた。僕は腫れた右手で鉛筆を持つことができなかった。彼女は古いオーブンシートを食器洗い機から取り出し、缶詰のクリスコを開けて、アルミの上にラードを厚く塗り、僕の前のテーブルに置いた。僕は左手の人差し指で、これまで繰り返してきた2つの言葉を書いた。

 助けて(help me)

 ルースは僕の前にひざまずき、僕の膝に顔を埋めた。僕は彼女の髪を撫で、彼女の広い肩を覆ってる花柄の生地をなでながら、彼女を慰めようとした。「だからあなたを私の人生に入れたくなかったの。私が見なきゃならないと思ったから。自分のことなら、見る必要はない。でも、あなたのことが気になると、見なきゃならないの。私は見たくない、したくない」

 彼女の言葉は、僕がもっとも恐れていたことを確信させた――僕は多くを求めすぎたのだ。僕はゆっくりと立ち上がり、よろよろとドアに向かった。ルースがドアに手をかけた。「ジェス、座って。どこへ行くの?」彼女は手の甲で目を拭った。僕は拒絶の危機を隠しながら、冷静に彼女を見た。

「ハニー」彼女は僕の頬を撫でた。「ごめんなさい。ただ、あなたであってほしくないの。お願い、お願い。来て」ルースは僕を寝室に案内した。僕は窓から差し込む日差しに目を覆った。彼女はシェードを引いた。

 ルースは僕をベッドに横たえた。彼女の枕カバーの刺繍が僕の頬に当たるのを感じた。横になると頭がさらに痛くなった。

 その理由を説明できないまま、僕は立ち上がった。ルースは僕の後頭部に触れた。僕は痛みにうずくまった。彼女は自分の手をじっと見つめた。

 僕は立ち上がろうとした。「僕は僕に逆らうことができる、ジェスを休ませてあげる」僕はうめき声をあげながら、彼女の胸に頭を預けようとした。呻いた。 ルースは枕で僕を支えた。 彼女は僕の太もものあいだで丸くなり、広い手で僕の胸を撫でた。 「しーっ」と彼女はささやいた。「あなたも怖いのはわかるけど、大丈夫よ。頭を傷つけられるのはいつも最悪。思考や記憶を失うのがいつも怖い。自分を見失うのが怖い。あなたもそう感じているの?」彼女は僕の頬から涙を拭った。

 僕は目を閉じた。「起きてなさい、あなた」彼女は懇願した。「お願い。あなたが眠ってしまうのが怖いの」僕はどこかに行きたかった。「お話をしてあげる」と彼女は微笑んだ。「私がどこで育ったか話してあげる。そうしたい?」

 僕はまばたきをして意識を取り戻し、うなずいた。ルースは僕の胸に頬を寄せ、ブドウの実をぎゅっと握った。「秋の空気のなかでブドウの香りを嗅いでほしいわ」

 ルースは僕を見上げて微笑んだ。「いつかブドウのパイを作ってあげる。アンおばあちゃんとママのパイに続いて、この谷で一番おいしいグレープパイを作るわ」

 僕にはグレープ・パイはあまりおいしそうに聞こえなかったが、いまはそんなことはどうでもよかった。

ルースはその声で僕を魅了した。「丘が季節によってどう変わるか、全部見せてあげたいわ。冬になると、デールおじさんは空に映るシルエットの形だけで、すべての木の名前を教えてくれたわ。を私に教えてくれた。でも、春を発見するために僕らを連れ出してくれたのは、つる植物だった。

 とにかく、デールは僕の成長ぶりにますます腹を立ててるようだった。確かに僕には男らしさがなかったし、それを自分のせいだと感じてたんだと思う。ある春の日、僕らはベア・ヒルを歩いてた。雲の流れが速く、谷と湖に影を落として通り過ぎた。デールおじさんは僕に嫌悪感を抱いているように見えたので、もう散歩に連れて行ってくれないだろうと思ってた。

 丘の頂上で、僕は髪が長く、泥のようなチョコレート色の男を見た。「いつか、僕らが "マック "と呼んでる土地を見せてあげるよ」彼らはそこで立ち話をしてた。そしてデールは僕のほうにうなずき、『俺はあの子に男になることを教えようとしているんだ』と言った。彼の声はすでに失敗してるようだった。僕はそこに立ってるのがとても恥ずかしくなった。この見知らぬ男は、僕と同じ瞬間に叔父の声の失望を聞いていたんだ。

 でも、その男は叔父の肩に手を置き、『子どもを放っておけ』と言った。1分後、デールは頭を垂れてうなずいた。彼は私を見る目が変わってた。

 ルースは僕のお腹でそっと泣いた。僕は彼女の髪に指を通した。彼に愛されたかった。 

 その後、彼はそうしてくれた。彼は以前から僕のことを気にかけてくれていたのは知っていたけれど、僕が成長しないことを受け入れてくれるとは思ってなかった。 

 でも、あの日以来、僕らは二度と会わなくなった。もう狩りをするふりもしなくなった。ただ散歩に出かけた。彼は誰よりもあの丘を愛してた。僕は彼が一緒にあそこまで連れて行ってくれるのがとても誇らしかった。あの丘が誰よりも好きだった。

 彼女はティッシュに手を伸ばし、鼻をかんだ。「面白い話を聞きたい? 何年も経ってから、丘の上で会った男のことを思い出したら、デールおじさんはそんなことはなかったと言ったわ。丘の上を歩くセネカ族の霊の一人に違いないって。本当にそんなことがあったのかどうか、私にはわからなかった。あの日、私とデールのあいだで何かが変わったことは確かで、彼がそれを認めるのは本当に辛かったと思う」

 僕は頭を枕にそっと倒し、頭蓋骨の痛くない場所を探した。まぶたがはれぼったくなった。「ジェス、目を覚まさないように頑張って。目を覚まして、ジェス」それが、僕が意識を失う前に彼女が言った最後の言葉だった。

 それからの数日間、僕は意識が戻ったり戻らなかったりした。ある女性がルースと寝室に入ってきた。二人の手が僕の体に触れ、安心した。ルースが僕を支えてるあいだ、女性は僕の頭皮にあるひどく痛む場所を掃除してくれた。それが終わると、彼女は僕の頭全体をガーゼで包んだ。ルースは僕を立ち上がらせ、ストローで飲むように促した。ベッドの後ろの壁にはスポンジプリントの円形が、ルースの美しい刺繍入りの枕カバーには染み込んだシミがあった。

 日が経つにつれ、ミシンの音に代わってルースの泣き声が聞こえてきた。半意識の状態でも、今回はルースに多くを求めすぎたと思った。彼女の人生には僕の血が流れ、その汚れはこすり落とせそうになかった。

 ある朝、僕は額に彼女の唇を感じ、目を開けた。僕は顎のことを忘れ、声を出そうとした。それができなかったとき、僕は顔をつかんだ。彼女は僕の上に手を置いた。「大丈夫よ、私を見て。あなたの目を見せて」彼女はまるで水晶玉のように僕の頭を両手で挟んだ。  

 彼女の表情を見たとき、僕は何が彼女に愛を求めなきゃならないと思わせたんだろうと思った。

 彼女は目を伏せた。「とんでもないことをしちゃった。ジェス、私はただ助けようとしただけなの。あなたが働いてる会社の名前を、キッチンのテーブルに置いてある小切手の半券で見つけたの。病欠の電話をすれば、仕事を続けられるかもしれないと思ったのよ。強盗に遭って、1週間か2週間休職することになるって伝えたの。ジェス、私はあなたのことを彼女と呼んだわ。考えてなかった。彼らはそれを聞いた。本当にごめんなさい。あなたのために仕事を失くしてしまった」

 ルースは僕の顔に触れた。「本当に怒ってるんでしょう?」僕は頭を振った。あれは間違いだった。同じことをした労働組合のオルグ、ダフィのことを思い出し、振り返って彼を許した。

 何か書くものはないかと手をひらひらさせた。ルースが紙とペンを持って戻ってきた。僕の右手はこわばって痛かったが、書いた文字は読みやすかった。ルースはその言葉を読み上げた。“あなたの愛に感謝します”そして僕らは一緒に泣いた。


                □□□


 グラフィック・アートの職業紹介所を直接訪れ、仕事を探していることを書いた。その日の夜から新しい仕事を始めた。そのとき、僕は自分が貴重なタイプセッターになったことを実感した。クリスマスを1ヵ月半後に控え、広告代理店から送られてくる大量の仕事を3交代制のシフトでは処理しきれなかった。僕は彼らが提示する残業をすべて引き受けた。早くまとまった金が欲しかった。

 夜、僕は端末の幽霊のような光に顔を照らされながら、コーディングの文字列のなかで暮らした。コードフレーズは僕の詩となった。そのメロディーはすべてを意味し、言葉はほとんど意味をなさない。

 明けがた、僕はジムで汗を流し、頭のズキズキが怖くなったときだけ中断した。僕は生きる意志を身体の奥深くに押し込めた。怒りと苛立ちが締めつけられた顎から抜け出せないので、僕は筋肉を通して叫んだ。怒りで爆発しそうだった。最初のうちはジムで汗を流すことでプレッシャーを軽減していたけど、しばらくすると熱狂的なトレーニングもプレッシャーの一部となった。僕は時限爆弾のように、カチカチ、カチカチと爆発寸前だった。

 午前中と午後の2、3時間しか眠れなかった。意識を失うのが怖かったし、帰り道がわからなくなるのが怖かった。

 ルースは僕がアパートを離れている時間が長いことを心配しているようだった。毎日、僕がルースの様子を見にドアをノックしたとき、ルースの顔がほっとしたように見えた。プロテインシェイクを注ぎながら、彼女はため息をついた。彼女は返事を期待してないのがわかった。

 落ち着かない僕は、12月の寒い朝、ファー・ロッカウェイのビーチに向かった。海岸沿いを歩きながら、僕は自分が思っている以上に、恐怖と沈黙が僕の人生のなかでいかに顎を閉ざしていたかを考えた。沈黙がロッコを、そして匿名の執事をも少しずつ殺してきたんだろうかと。ついに僕の顎を固定していたワイヤーを切ったとき、僕は何と言うんだろう? 

 クリスマス休暇の2日前、ロブスター・シフトの現場監督から最後の小切手が手渡された。 

 朝、小切手換金所に行き、会社のカードを見せると、プレゼントを買うために必要なお金を持って出て行った。ルースへのプレゼントを買うために必要なお金だ。

 僕はパンチアウトをせずにランチルームに忍び込み、職場でお気に入りの隠れ場所となってる隅にある2台の自動販売機のあいだをすり抜け、注意深く壁に頭をもたげた。頭痛は軽くなってたが、それでもまだ怖かった。

 活字植字工のマリヤとカレンがランチルームに入ってきて笑うのが聞こえた。「小銭ある?」マリヤが聞いた。僕はじっと座ってた。

 マリヤの手はいつも僕の注意を引いた。手を重石のように引きずって生活する人もいれば、手で話す人もいる。しかしマリヤの手は違った。コミュニケーションはしているんだけど、彼女が言葉で話しているのとはまったく別の会話をしてるようだった。他の植字工と話すとき、彼女は緊張して笑い、唇を噛んだ。でも、彼女の手は冷静だった。彼女の言葉が冷酷に切り裂く一方で、彼女の手は同僚の痛いところを見つけた。肩や首の痛いところを見つけた。僕はその驚くべき手が僕の頭を撫で、首を撫でるのを感じてるのを想像した。

「気味が悪いって言ってるでしょ」マリヤが言った。

「誰が?」カレンが訊いた。

 マリヤはため息をついた。「ジェシーよ」

 カレンは笑った。「たぶん、彼はあなたに気があるのよ」

 マリヤは言った。「彼は無害よ」カレンは笑った。

 マリヤは反論した。「彼はサイコかもしれない」

 カレンが口を挟んだ。「彼はとても女っぽい。彼はゲイに違いない」

 僕は彼らが去るのを聞いた。マリヤは「彼は気をつけなきゃいけないタイプよ」と言った。

 マリヤの手がカレンの背中の小さな部分にそっと置かれてるのが見えた。僕は目を閉じ、彼らがいなくなったことを確認するまで待った。そして、もう二度と戻ることはないだろうと思いながら、店を出た。

 家に帰ると、バスルームの鏡をソファに立てかけ、ハサミとピンセットを見つけた。ウイスキーを2、3杯、ストローで2、3回長く飲んだ。古い絆創膏を剥がす要領で、速くもなく遅くもなく、ただ着実に、一本一本確実に引き抜いた。歯茎から最後のワイヤーを取り出したのを確認すると、僕はウイスキーで口をすすぎ、残りを飲んだ。

 目が覚めると、僕は戦士のように買い物客の群れをかきわけながら34番街まで歩いた。 僕は自分が何を探しているのかよくわかってた。持ってるミシンのなかで一番いいものを、僕は紙に書いて売り子の女性に渡した。そして、僕は自分の顎がもうワイヤーで閉じられていないことに気づいた。沈黙が習慣になっていたんだ。

 彼女は僕を展示モデルに案内した。どれもほとんど同じに見えた。

 僕は裁縫をしないが、彼女が指さしたそのミシンが正しいミシンだとわかった。それは光に照らされてバイクのように輝いてた。販売員の女性は、アタッチメントについて、そしてそのミシンでできる無限のことについて僕に話した。僕は一言も理解できずに微笑んだ。ルースがこの壮大なミシンの前で肩を組んでいるのが見えた、 彼女の魔法を布に縫い付けることができた。現金で代金を支払うとき、僕は久しぶりに興奮を覚えた。

 小雪が舞うなか、僕は混雑した通りをマシンを引きずりながら戻り、タクシーを呼んだ。

 帰宅後すぐに、僕はアパートを大掃除した。家がピカピカになったとき、僕は自分が汚れていることに気づいた。熱めのシャワーを長く浴び、顎を柔らかくした。

 熱いシャワーを長く浴びた。乾かし、清潔な白いTシャツとカーキのチノパンを着た。 

 髪をとかしながら、キッチンの鏡に自分の姿を映した。僕の目はとても悲しそうで、自分の視線を受け止めることができなかった。僕の顔は、記憶していたよりもずっと老けて見えた。僕は肩や胸や腕に波打つヒゲを指先でなぞった。突然、ジムでの長時間のトレーニングが、僕の生きる意志の証明に思えた。僕は自分自身に贈り物を送ったんだ。

 僕はグランド・ストリートで手作りの中国の包装紙を買った。必要なものを指差した。僕はまだ言葉を発しなかった。

 最初に話した言葉はルースだった。クリスマス・イブに彼女のドアをノックした。「ジェス、どこにいたの? あなたは? 怖くて怖くて。入って。ターニャとエスペランサが来たよ」僕は動かなかった。「大丈夫?」彼女は心配そうだった。

 僕は顎を少し動かした。「ルース」僕の声を聞いて、彼女の目に涙があふれた。「ありがとう。私のためにしてくれたことすべてに感謝します」僕らは額を合わせた。

「ごめんなさい。無理なお願いだったとわかってる」彼女はささやいた。

「ルース、愛してる」「しーっ、わかってる」

 彼女は僕の顔を両手で包み込んだ。「私も愛してるわ」ルースは僕を自分の体に引き寄せた。僕らは決して離さないかのように抱き合った。

 ルースは微笑んで首を振った。「ジェスはBガール」[ブレイクダンスを踊る女の子、Hip-Hopファッション、またはライフスタイルにしている女の子。もしくはそれに関するイラストに付けられるタグ。Bの由来は、アメリカのBronx、Break DanceのB、BlackのBなど様々な諸説がある]彼女はターニャに言った。その言葉を聞くのは何年ぶりだろう。Bガール……フェムたちが公衆の面前で、耳に入るのを恐れて "ブッチ "を呼ぶときに使う古い隠語だ。ルースについて、僕はまだ知らないことがたくさんあった。

「オウ、ハニー」ターニャは僕を上目遣いで見ていた。「あなたのためにスイングできたわ」

 ルースは僕にエスペランサを紹介した。エスペランサはルースと僕と同じくらい複雑な声でささやいた。僕が彼女の手にキスすると、エスペランサは顔を赤らめた。「私たち、木の剪定をしてるの。手伝ってくれる?」彼女は僕にティンセルを渡した。

 僕は恥ずかしそうに微笑んだ。「こんなことしたことなかったから」

 エスペランサは顔をしかめた。「クリスマスツリーを飾ったことはないの?」僕は首を振った。「子どものころ、クリスマスがなかったの?」僕はまた首を振った。「貧しかったの?」

 僕は笑った。僕は顎を鳴らして答えた。「貧しすぎる?」

 僕が答えると、顎がカチカチと鳴った。「ユダヤ人すぎる」

 ルースはデコレーションしたばかりのクッキーを私に差し出した。

「まだ温かいから柔らかいよ。ジンジャーブレッドよ、食べてみて。一口だけ」僕は味を再発見した。「エイズで入院している友だちに渡すクッキーを作ってるの」

 その瞬間まで、僕はエイズの流行が自分から100万マイルも離れたところで起こってるように感じてた。「一緒に行ってもいい?」僕は尋ねた。

 ルースは大きくため息をついた。「ええ、あなたが望むなら」ターニャは僕にマグカップを差し出した。「これはターニャのエッグノッグよ。これでホリデー気分を味わえないなら、何もいらないわ」

 ルースはエプロンで手を拭いた。「気楽に飲みなよ」

 ターニャは彼女に顔を向けた。「彼女の言うことは聞くな。彼女がビル・W[アメリカ発祥のアルコール依存症を克服するための自助グループ、「アルコホーリクス・アノニマス」 (Alcoholics Anonymous, A.A.) の共同創設者のひとり]の友だちだからって、私たちが彼とつき合わなきゃいけないわけじゃないのよ」

「今夜、ドラッグクラブに行くんだ。来ない?」エスペランサが訊いた。僕はルースを見た。彼女は微笑んで肩をすくめた。

「ハニー、床でバンプとグラインドを教えてあげるわ」ターニャが言った。

 彼女はため息をつき、紙を注意深く開いて折り、なかに入れた。ルースがミシンからカバーを外すと、彼女は息を呑んだ。ミシンをなぞる指の動きで、それがどれほど彼女を喜ばせたかがわかった。

 僕は笑った。「ダンスフロアで見せてあげるよ」

「主よ、お慈悲を」ターニャは大きな手で体をあおった。「いますぐ私を殺して」

 エスペランサは微笑んだ。「古いダンスを教えてあげるわ、メレンゲ、奴隷の踊りよ」

 僕はルースのプレゼントを思い出した。「すぐに戻る」と僕は言った。重そうな長方形のプレゼントを抱えて彼女の居間に行くと、ルースは悪い知らせを受けたようにソファにどっかりと腰を下ろした。

「あなたによ」僕は微笑んだ。

「開けてみてよ」ターニャが促した。

 ルースは唇をかんだ。「開けちゃだめよ」

 僕の笑顔には愛がこもっていた。「ああ、静かに」

 僕はほほえんだ。「本当に?」ルースはうなずき、指の関節を噛んだ。彼女は立ち上がると、半分飾られたエバーグリーンに歩み寄った。「これはあなたに」彼女は僕に平たい包みを手渡した。

『ゲイ・アメリカン・ヒストリー』という本だった。ページをめくる手が震えた。

「見て」ルースは僕の手から本を取り上げ、索引をめくった。「ドラァグ雑誌で読んだ、私たちのような人々がどのように尊重されてたかという話をしたのを覚えてる? ネイティブの社会についてのこのセクションを見て。待って、これを見て」彼女はページをめくった。「この部分は全部、男性として生きたあなたのような女性についてのものなの」涙で視界が曇った。

 エスペランサはタイトルを見て首を振った。「私たちがいつもゲイとひとくくりにされなければいいのに」

 ルースは彼女らしく話題を変えた。彼女は赤いティッシュペーパーに包まれた包みを僕に手渡した。「開けてみて」たくさんの星を見上げている。それは美しい顔で、いままで見たことのない顔だった。それは僕の顔だった。

「見せて、ハニー」ターニャはそれに手を伸ばした。「あら、ルース。いいじゃない。彼にそっくりだわ」

「ルース」僕は唇を噛んだ。「本当に似てる?」

 彼女はうなずき、涙を流して微笑んだ。「あなたが死ぬかもしれないと思ったとき、あなたの顔をスケッチし始めたの。あなたとの思い出以上のものを残したかったの。あなたの目は閉じていた、でも自分の目を閉じて、光の加減で目の色が変わるのを覚えていたのよ」

 ルースはソファの僕の隣に座った。僕らは互いに腕を組んで揺れた。エスペランサとターニャは僕らの近くの床に座った。

 あごが痛くて震えてた。「あのね」僕は彼らに言った。「こんなにも長いあいだ、きみたちみんなを探していたんだ。信じらんないよ」

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