21 ニューヨークでの生活は楽ではなかったが、

神経がすりおろしたチーズのように感じることもあった。僕はそれが好きだった。マンハッタンでは、良くも悪くも常に何かが起こってた。昼も夜も、ほとんどいつでもやることがあった。

 ニューヨークの街角には必ずと言っていいほど本屋があった。何時間ぶらぶらしていても誰も気にしないとわかるまで、僕はいそいそと本を読んだ。

 僕は詩と小説しか読まなかった。自分がノンフィクションを理解できるほど賢くないことに気づきたくなかったからだ。でも、女性学のコーナーには誘惑された。理論を理解できないことが多いのは事実だった。でも、まるで燃え盛るビルのなかに突入して、自分の人生に必要な考えを救い出すような気分だった。

 最初は、リプロダクティブ・ライツ(生殖に関する権利)に関するすべての言葉やページを読み飛ばした。自分の子宮とは何の関係もなかったからだ。

 けど、ロチェスターで僕が逮捕された後、テレサが最後の生理がいつだったか覚えてなくて、どれだけ動揺してたかを思い出した。僕は自分の生理周期を記録したことはなかった。でもテレサは、僕の生理周期と彼女の生理周期をいつも把握してた。彼女は僕が妊娠したのではないかと恐れていたんだ。その発想は僕にはなかった。もしレイプの後に妊娠していたら、僕はどうしただろう?

 女性が自分の体をコントロールすることについて書かれた本を読み飛ばすのを僕はやめた。もしかしたら、女性にとって大切なことは、すべてこの本のなかに書かれているんじゃないか。

 クラシック音楽にも出会った。ある朝、出勤途中に、地下鉄の駅構内でチェロを弾く男性の演奏に耳を傾けた。その音楽は僕の襟首をつかんで離さなかった。僕は彼が演奏しているあいだ、彼の近くの柱の横にしゃがみ込んだ。音楽は僕にとって、詩のように感情を表現するものだった。ラッシュアワーの人が少なくなったとき、仕事に遅れていることに僕は気づいた。

 音楽家は弓を置き、眉を拭った。「何を弾いてたんですか?」僕は彼に尋ねた。

 彼は微笑んだ。「モーツァルトだよ」

 僕は楽器店にも出入りするようになった。お金をかき集めてステレオを買った。レゲエやメレンゲ、チャランガやグアガンコ、ジャズやブルースも聴いた。ある春の日の午後、僕はアパートを掃除してた。パッヘルベルの「ニ長調のカノン」を全開にした。

 僕は、外見と同じように内面も変化してることに気づいた。


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「ローカル6のオーガナイザーなら、パンチインはできるが、パンチアウトはできない」 

 皮肉なものだ。彼は組合が植字工を組織するために僕を送り込んできたことを恐れてたんのだ。僕は、僕が最近タイピングを覚えたばかりだったからだ。

 現場監督は僕を機械に案内した。「これがマニュアルだ。いまは訓練してる時間はない。この文章を打ち始めろ。終わったら、校正者に渡してくれ。フォーマットコードは後で見せるか、調べる。わかったか?」

 僕はうなずいた。「待って」と僕は彼を止めた。 「どうやって使い切るんだ?」

 彼はうんざりしたように首を振った。「そのためにマニュアルがあるんだ」

 僕が活字を打ってるところから、校正室で働く4人の女性が見えた。彼女たちのリラックスした笑い声が聞こえてきた。現場監督が頭を突っ込んできて、僕には聞こえない言葉を発した。彼女たちは会話を打ち切った。ひとりの女性がうなずいた。彼は去った。彼らの笑い声が再び上がった。

 女性同士では話しかたが違うことを男性は知ってるんだろうか。黒人とラテン系の労働者たちも、白人がいないときは同じなんだろう。

 女性たちは肩を寄せ合って秘密を共有した。

 僕はテキストをタイプし、それを実行するコードを調べた。校正者のスペースに入るのが実は少し楽しみだった。僕がなかに入ると、女性たちは話を止めた。僕はリプロを掲げた。「あそこに置いて」と女性の一人が言った。彼女は僕を見ずに言った。僕はため息をつき、リプロをカゴに入れ、その場を離れた。僕が立ち去ると、彼女たちの声が聞こえた。

 僕はその店で1シフトしか持たなかった。でも、ニューヨークには24時間稼動してる植字工場はたくさんあった。彼らは常に第3シフトのロブスター・シフトを募集してた。十分な数の組版屋に紛れ込み、それぞれで少しずつ勉強した後、僕はすぐに、もうハッタリは通用しないと悟った。僕は植字工になっていた。

  生活リズムは悪くなかった。1年のうち6、8カ月はトップクラスの収入があった。

 夜明け前ののんびりとした帰り道、満員のラッシュアワーの電車や混雑した道路とは反対方向に移動するのが好きだった。でも、起きたら真っ暗で、モグラのような気分になってきた。このままでは正気を失うと思った矢先、夏休みに入った。僕は最大限の失業給付を受ける資格を得た。

 夏のあいだ、僕は街を探検した。僕の最大の問題は孤独だった。夏のあいだ、話し相手がいなかった。秋になると、同僚との何気ない会話に憧れた。


                □□□


 ビルはランチルームのテーブルを叩いて強調した。僕は新聞を読んだ。「それは真実じゃないだろう?」ビルは僕に尋ねた。

 彼は身を乗り出した。「窓のない工場で夜働くなんて、気持ち悪すぎる。朝、外に出てみたら、核がメルトダウンしていたなんてこともある」

 ジムは笑った。「西から太陽が昇るのを見たら、戻ってきてみんなに教えてくれ。ジムはため息をついた。「夜明けに仕事から戻ったら、地面に2フィートの雪が積もっていたことがあった。雪が降るなんて知らなかったんだ。世界中の人たちが見ているものを見逃したような気がして、どこか別の場所にいるような気分だった」

「潜水艦で働くようなものだ」とビルは同意した。

「何が一番嫌いかわかる?」ジムは続けた。「どっちが今日で、いつが明日なのかわからなくなるんだ。夜起きて仕事に行くとき、ガールフレンドは明日会おうと言ってくれる。でも俺にとっては、今日会うつもりなんだ」

 僕はうなずいた。「よくわかるよ。今日と明日の狭間で生きているような気がする」

 ビルは言った。「引用していい?」みんな笑った。

「シフト勤務の何が本当に嫌かわかる?」僕は言った。「全世界が最初のシフトに貪欲なんだ。仕事が終わったら、ベーコンエッグは食べたくない。ステーキとベークドポテトが食べたいんだ」

 「そうだね。映画も見たい。テレビつけても、ゲーム番組や連続メロドラマは見たくない」とビルは言った。

「朝、一緒にジムに行かないか? 仕事が終わったらすぐ泳ぐんだ。スチームルームもある。パスで入れるよ」

 天国のように聞こえたが、僕は言い訳を考えあぐねてた。「水着もタオルも何も持ってないんだ。また今度ね」

 ジムがそう切り出した。「タオルは3枚ある。きみが裸で泳いでも気にしないだろう」 僕は首を振った。「今日はフレッド・フリントストーンのボクサーパンツを履くべきではなかったよ」男たちは笑った。「また今度ね。でも、申し出には感謝するよ」

 ビルは肩をすくめた。「好きにしてくれ」


                 □□□


 夏のあいだ、僕は達成したいことのリストを作った。1969年に反乱が起こったストーンウォールの反乱の前で写真を撮ってもらうこと。

 たくさんのジムを回った後、チェルシーで居心地のいいジムを見つけた。ほとんどがゲイで、レズビアンもいて、国籍もさまざまだった。値段は高かったが、一年のほとんどをまともな給料のもらえる仕事に就いている僕にとって、入会できるのはありがたいことだった。

 次に僕は、1929年ごろにニューヨークで亡くなった叔母について学ぶことにした。彼女は夫の死後、国際婦人服労働者の組織者になった。父はいつも、彼女がニューヨーク・タイムズ紙に死亡記事を載せることを誇りに思ってた。家族のスクラップブックでそれを見たのを覚えてた。

 図書館で2週間かけて僕は死亡記事を探したが、見つからなかった。あきらめかけたが、1930年を試してみることにした。「今日は忙しいから30分制限よ」カウンターの女性がスプール(糸枠)を渡しながら言った。

 僕はフィルムに糸を通し、すぐに見出しをスキャンする日課に入った。見出しをスキャンするのが日課だ。僕はこの見出しの意味を理解することなく通り過ぎるところだった。“男性執事、死後女性であることが判明”

 僕の呼吸はゆっくりになった。機械に25セント硬貨を入れ、記事をプリントアウトした。一字一句注意深く読んだ。死亡記事には1930年の使用人の死が書かれてた。遺体は下宿で発見された。彼女の名前はなかった。日記も手がかりもない。僕にあるのは、彼女を知るためのページに書かれたわずかな言葉だけだった。僕は目を閉じた。彼女の人生の詳細を知ることはできないが、指先でその手触りを感じられた。

 ロッコと僕がしたような複雑な決断をした女性が、世界にはもうひとりいることを知った。時間がこの匿名の使用人と僕を隔てていた。空間が僕とロッコを隔ててた。

 見出しが僕を冷やした。彼女の人生は8つの平坦な言葉に集約されていた。僕の人生も8文字以内で記録されるのだろうか。彼女の人生が8文字以内で記録されている。僕は虚しさと小ささを感じながら、壁の高いところを見つめてた。

 司書の声が僕の考えを打ち砕いた。


                 □□□


 自分に課した最後の仕事は、ストーンウォール・バーを見つけることだった。 

 1969年に警官隊との戦いを聞いたときの衝撃を思い出した。通りすがりの人に頼んで、その前で写真を撮ってもらいたかった。いつか僕が死んだ後、誰かがその写真を見つけて、僕のことを少しは理解してくれるかもしれないと思った。

「ストーンウォール・バーがどこにあるか知ってる?」僕はシェリダン・スクエアの街灯に寄りかかっていた二人のゲイに尋ねた。

「あそこがバーだったんだ」男のひとりがベーグル屋を指差した。

 僕は疲れて公園のベンチに腰掛けた。ホームレスの男が近くのゴミ箱を漁ってた。見たことのある男だった。鮮やかなアフリカンプリントのスカートが歩道をはためいてた。ゴージャスな生地が彼の上半身を包み、東インドのサリーのように片方の肩に掛けてた。彼は優雅さと威厳をもって滑ってた。一瞬、彼は顔を上げ、彼にしか見えない誰かと議論した。彼が話す小声の言葉は、不思議なほど美しかった。この惑星で彼の言葉を理解できる者は誰もいない。話しながら彼の手は顔の近くでひらひらと動き、あたたかい気流に乗って羽ばたく暗い鳥のようだった。

 僕は目を閉じた。太陽は熱く高かった。

 バッファローでの生活を思い出そうとした。僕の過去はすでに夢のように感じられ、目覚めた瞬間に消えていった。ニューヨークでの生活は、毎日僕の前を通り過ぎ、ガタンゴトンと音を立てる地下鉄の車両のように駆け抜けていった。世界がもっとゆっくりしてて、自分もその一部であったころを思い出せない。

 タイヤの悲鳴が僕を夢から覚ました。女性の悲鳴が僕の腕に鳥肌を立てた。僕は走った。

「急いで! お願いだから急いで!」救急車は急ぐ必要はなかった。

 僕は彼の亡骸のそばにひざまずいた。彼の手はようやく静止した。親指で彼の唇から流れる血を拭った。親指で唇を押さえた。彼の口からゴボゴボと音がして、唇から頬にかけて血が泡立った。頭の下には血だまりが広がった。

 ナイトスティックが僕の肩を突いた。「歩道に出ろ、相棒」警官が僕をなだめた。彼のパトカーは7番街の真んなかに停まっていた。

 新聞販売店の男が死体を見にきた。彼は警官に尋ねた。警官は肩をすくめた。

女性はすすり泣いた。「お巡りさん、わざとぶつかったんです。男二人と女二人の計四人だった。信号が赤だった。アクセルを踏んで彼を轢いたんだ。彼女たちは笑っていた」嗚咽を交えながら、言葉がこぼれ落ちた。

 彼女は膝をつき、嗚咽した。「ああ、神様……」と彼女は嗚咽した。「なんてこと!」

 年配の男性がブリーフケースを置き、彼女のほうに近づいてきた。「大丈夫ですか?」彼は尋ねた。

「怪我はありませんか?」彼は慌てた様子だった。「大丈夫ですか?」

彼女は首を振り、膝の上で前後に揺れた。「ああ、神様」と彼女は繰り返し、「彼らは笑っていた」

 彼は彼女の肩を叩いた。「落ち着いて、お嬢さん。ただのクズだよ」


                 □□□


 それは、気温が100度(36度)にもなるニューヨークの蒸し暑い夏の夜のことだった。僕は薄手のスウェットパンツと長屋のTシャツに着替え、ジムに向かった。

 ふだん、夕方にジムに行くことはなかった。ウェイトトレーニングに並ぶ仕事帰りの人たちが嫌いだったからだ。でも、その夜は予想が当たった。街の人たちは猛暑にしおれ、街で一番涼しい場所に向かった。ジムは事実上、僕のものだった。僕は鋼鉄のコイルのように感じるまで体を鍛え、トレーナーが午後11時過ぎの閉館を告げると唸った。

 僕は豹のように元気に家路についた。そうかもしれない。アベニューAから4番街に入ると、赤いライトが回転し、建物や人ごみを照らしてるのが見えた。近所中が同じ方向を見上げ、釘づけになった。僕は少しゆっくり歩いた。通りは滑りやすく、光っていた。何週間も雨が降っていなかったんだ。僕はさらにゆっくり歩いた。

 僕は見る前に火を聞いた。地獄の炎が僕のビルの窓から空に向かって轟いた。火花が噴火のように舞い上がり、近くの屋根に降り注いだ。割れたガラスの破片のあいだから黄色いキャラコのカーテンが吹き出し、まるでアパートのなかで嵐が吹き荒れているかのようだった。

 カーテンの一枚一枚に小さな炎の斑点が現れ、綿菓子が舌の上で溶けるように、パッと溶けた。

 テレサがくれた結婚指輪! 僕は不合理な瞬間に、マントルの上にある冷えた金属のプールを見つけて、鋳造し直すことができるかもしれないと思った。ミリの陶器の子猫が弾けるのを想像した。キッチンの窓辺に置かれた琥珀色のガラスのなかの水が、熱の炉のなかで激しく沸騰してるのを想像した。小さな炎がグラスのなかの水仙の茎を舐め、やがて水仙が丸まり、爆発するのが見えた。

 それまで見たこともないような鮮やかな黄色やオレンジ色に。エドウィンが持ってたW.E.B.デュボワの薄い本が、彼女が印をつけた1ページまで燃え尽きるのを想像した。

 なぜ大家は、ビルを放火すると言ってくれなかったんだろう? 売れなくて困ってるのはみんな知ってた。この地域の他の建物のほとんどは、高級化が進んだ10年の間に焼失していた。なぜ今朝、キッチンのドアの下にメモを入れなかったんだろう?

 なぜ彼は今朝、僕らが一番大切にしているものを持ち帰るよう警告してくれなかったんだろう? 家賃が上がるたびに、彼は速やかに僕らに通知してくれた。

 財布!ジムへ行くときに家に置いてきた。給料の残りが入ってた。もっと重要なのは、テレサの唯一の写真がその札入れのなかに入っていたことだ。僕はすべてを失った、ロッコの革ジャン以外は。ファスナーを直すためにクリーニングに出したんだ。

「アブエラ、アブエラ!」愛する人たちの腕を振りほどき、群衆をかきわけて燃え盛るビルに向かって突き進む女性がいた。友人たちは彼女を拘束した。彼女は自由になるために戦った。

「彼女は何を言ってるんだ?」僕は管理人に尋ねた。

 彼は最上階に目を上げた。「彼女の祖母」

 僕は身震いした。6階に住んでるため、家から出ることができない老婆のことだろうか?

時折、彼女はスペイン語で僕にパンやコーヒー、ミルク、砂糖を持ってくるように頼んだ。

「ロドリゲスさん?」僕は信じられない思いで尋ねた。管理人はうなずいた。その若い女性は、僕が祖母の名前を呼ぶのを聞いて叫び声を止めた。僕らの目と人生は、ときを超えた瞬間につながった。彼女は抑えきれずに嗚咽し始めた。友人たちが彼女を連れ去った。

 僕は振り返り、各階を覆う炎の波を見て思った。泣きたいときに泣けないのはなぜだろう? でも、後でライラックの香りやチェロの低い音に触れて、不意に涙がこみ上げてくることはわかっていた。

 やがて黒い空がイースト・リバーの上で明るくなった。縁石に座り、くすぶるビルに背を向けた。消火用ホースの小さな絵から、細かい霧が僕に降り注いだ。僕は縁石に腰を下ろした。ここからどこへ行けばいいのかわからず、じっと座ってた。


                 □□□


 僕はすべてをやり直そうとしてた。ワシントン・スクエア・パークのベンチに座り、自分の持ち物を棚卸しした。全財産はアパートに隠してあった。ダブルシフトに戻る。週末は42丁目の映画館で寝た。僕にはエネルギーがなかった。

 僕の心は喪失感を完全に受け入れることができなかった。ホットドッグと炭酸飲料を1ドルで買い、公園を歩き回った。帽子をかぶり、燕尾服を着た若い男が、燃え盛る松明をジャグリングしているのを見てた。これがこの街の生活の一部であり、僕がうやうやしく愛した場所だ。ここで生きていくのがどんなに耐え難いことであっても。

「ジャグラーになりたい人なんているの?」隣の女性が仲間に尋ねた。「つまり、何の意味があるの?」二人とも首を振って立ち去った。

 ジャグラーを見て感じた喜びが、僕の顔から消えていった。彼女が言葉を発した瞬間、僕はただ自己陶酔の喜びのために、ひとりで練習できる技術を習得できたらどんなに素晴らしいだろうと考えてた。

 僕の右肘近くに立ってた男が、僕の目を見て首をかしげた。その視線に僕は不快感を覚えた。目を背けたくなった。まるで僕が感じてる感情の戯れを見透かされているようだった。でも、彼はどういうわけか、僕を引き寄せて彼をもっとよく見た。彼の顔には、自分の感情が波打つような優しい男の姿があった。まるで言葉を交わさずに感情的な対話を続けているかのようだった。

 彼は眉を寄せて問いかけた。僕は肩をすくめた。「皮肉屋」僕は微笑んだ。

 彼は首を振り、両手で優雅な動作をした。彼は僕が理解していることを僕の顔で見た。 僕は微笑んだ。彼も微笑んだ。そして僕は動けなくなった。自分の両手を見た。またしても私は言葉を失い、心から心へ語りかける言葉を切望するようになった。

 僕は手のひらを上に向け、力なく肩をすくめた。

 彼は人差し指を1本立てた。「1本? いや、待て」彼は言った。

 彼は地面を調べた。木の陰にある何かを指差し、笑顔でうなずいた。そして、3本の指で想像上のものを手に取った。何だろう? 丸かった。両手でそれを顔に持ち上げた様子でわかった。そして、3本の指で持ったまま、まるでボウリングをするようにそれを後ろに引いた。彼はボウリングをしていた! ボウリングのボール。

 僕は力強くうなずいた。彼は僕の頭上の枝に2個目のボウリングの球を見つけた。これは慎重に右足の上に置いた。彼は目を凝らして3つ目を探し、見つけた。右手にボーリングの玉を持ち、もうひとつを足の上にバランスよく置いたまま、彼はゆっくりと屈み、空いた手で3つ目の玉を持ち上げた。彼はふらついた。ボールが足から落ちないようにできるだろうか? 彼はやり遂げた!

 彼がジャグリングを始めたとき、僕は息を止めた。ボウリングのボールの重さ、ひとつひとつを高く飛ばすのに必要な力が見えた。ボールは片足の下を通り、背中の後ろを通り、肩の上を通った。3つのボールはすべて空高く飛ばされた。彼は立ち止まって空を見上げ、困惑して頭を掻いた。突然、彼は前方に突進し、一匹を左手でキャッチし、右によろめきながらもう一匹をキャッチした。3匹目はつま先に落ち、彼は木の陰に飛び込んで悶絶した。彼は木の陰から顔を出し、ウインクをした。

 悲嘆にもかかわらずではなく、悲嘆があるからこそ笑えたのだ。僕らは一緒に笑った。腹の底から笑った。涙が出てくるような。泥のように濃い感情を解き放つような。

 二人の男が左右から彼に近づいた。彼が微笑みかけると、彼らの腕が風車のように回転した。彼は私の存在を示した。僕らは全員握手をした。

 彼は去ろうとする前に、とてもゆっくりと手を伸ばし、僕の頬の涙に触れた。彼は僕の涙で自分の目に触れた。そして立ち去った。

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