19 いつもと同じ土曜日の朝に見えた。


僕はアパートのなかで煙草を探したが、煙草の箱を手に取った瞬間、自分の手が煙草をつぶしてしまった。

 その夜、深く濁った水のなかでもがいている夢を見た。手足をバタバタさせながら 糖蜜のような抵抗。息を止めて肺が痛んだ。必死に息を吸い込んだ。ゆっくりと水面に向かって泳ぎ始めた。体への圧力が和らいだ。水を切る手に、液体のビロードの感触を感じた。空が見え、光の切り口が頭上で揺らめいた。肺が爆発しそうだった。水の皮膚を突き破った。太陽とそよ風を顔に感じ、暖かさと冷たさを同時に感じた。自分の笑い声が聞こえた。


                 □□□


 ホルモンの分泌がなくなれば、一周して自分の過去に戻れると本気で信じていたと思う。でも、旅はまだ終わってなかった。テレサがKマートで買い物をしているのを見た日、僕はそのことに気づいた。

 彼女を見つけた瞬間、僕は息を止めた。

 彼女はほとんど変わってなかった。彼女は僕についても同じことを言うだろうか? 僕は男性用下着の陳列棚の陰に隠れ、彼女を観察した。僕が彼女の名前を呼んだら、彼女はどうするだろう? 僕は彼女に抱きしめてもらい、家に連れて帰ってほしかった。結局のところ、彼女は僕がホルモンを始めたから去ったんだ。彼女はまた僕を愛してくれるだろうか?

 誰かがテレサに腕を回すのが見えた。僕はその女性をもっとよく見ようと、通路を曲がった。それは、10年近く前にテレサのドアを開けてくれた、同じソフト・ブッチだった。テレサはあのサタデーナイト・ブッチのどこに目をつけたんだろう? 僕のほうがテレサの愛を必要としてた。テレサが彼女を愛してるのなら、彼女は特別な存在に違いないと認めたくなかった。

 テレサの笑い声が聞こえた。彼女の顔は愛に満ちてた。そして僕は家に帰るのでもなく、後ろ向きに旅をしてるのでもないことがわかった。僕は見えない目的地に向かって突き進んでた。テレサの腕のなかに再び横たわることがあるとしたら、それはいまではなく、遠い未来のことだろう。

 僕は二人に見つかる前に急いで店を出て、涙がこぼれる寸前までバイクで家路を急いだ。蒸し暑い午後が夕方になるまで、僕は何時間もベッドに横たわっていた。寝室の窓の外ではオークの葉がそよ風にそよぎ、街灯が壁にその影を映し出していた。蝉の鳴き声が上下した。

 テレサから、いつか手紙を送るように言われてた。僕はいまそれを書きたかった。贈りもののように包んだ文章の束を、彼女の家の玄関に届けたいと思った。

 いつか、僕が理解し始めていた小さなことを彼女に伝えるだろう。でもいまは、彼女のために7行の詩を書くことしかできなかった。


特に涼しい夜に

木の葉が壁に模様を描き

意識はゆるやかに遠ざかっていく

眠りがわたしの岸をつたう

その長い無意識の瞬間に

記憶の炭火がやわらかく光る。

暗闇に異なる色合いを与える。


 ホルモン剤の服用をやめても何も起こらなかった。何カ月ものあいだ、僕は毎朝起きると、期待で息も絶え絶えになりながら鏡に向かって走った。何も変わらなかった。なんだか拍子抜けした。頬の柔らかさを感じ始めるまで、電気分解に何時間もかかった。頬の柔らかさを感じるようになるまでには、何時間もかかった。

 ある朝、起きてみるとBVDに月経血が付着していたんだ。僕はその矛盾を洗濯屋に見られる危険を冒さず、BVDを捨てた。でも、本当の動きは僕のなかで起こってた。それは呼吸と同じくらい切迫したものだった。ひとり座って、自分が本当に望んでいるものは何なのかと問いかけたとき、答えは変化だった。

 ホルモン剤を飲むという決断に後悔はなかった。ホルモン剤がなければ、僕はもっと長く生き延びることはできなかっただろう。手術は自分への贈り物であり、自分の体に帰ってくるものだった。けど、僕はただかろうじて存在する以上のものを望んでた。自分が何者なのか、自分自身を定義したかった。

 自分が誰であろうと、それに対処し、もう一度生きてみたかった。自分の人生を説明できるようになりたかった。

 岩と岩のあいだにいるような感じだった。何かが僕に、この生涯がこれ以上楽になることはないだろうと告げてた。でも、僕はすでに多くのことを経験してきたし、これ以上悪くなるとは思えなかった。

 またしても前が見えなくなった。定まらない星座に頼りながら、未知の海を自分の針路で進んでいた。どうしたらいいんだろう? でも、そんな人は僕の世界にはいなかった。僕は自分自身の人生を生きるための唯一の専門家であり、答えを求められる唯一の人だった。


                 □□□


 人々が再び僕をジロジロ見始めたとき、僕は自分が変わりつつあることを知った。1年かかった。僕のヒップは、男性用ズボンの縫い目を緊張させた。ヒゲは電気分解でうっすらと伸びた。顔は柔らかくなった。でも、僕の声はいったんホルモンが低下すると、そのままだった。

 胸は平らなままだった。僕の身体は男女の特徴が混ざり合っており、それに気づいてたのは僕だけじゃなかった。

 怒ってるような、戸惑っているような、興味をそそられてるような、そんな目で見つめる見知らぬ人たちのなかを歩くのがどんなものか、僕は思い出した。女か男か。

 僕は彼らを混乱させる。罰は後からついてくる。彼らの目には、僕が他者であることしか映っていない。"他者"。僕は違う。僕は常に違う。

 同じという心地よさに肌を寄せることは決してできない。

 僕が立ち去るとき、カウンターの男が客に言った。その代名詞が僕の耳に響いた。僕は "それ "になってしまったんだ。

 以前は、禁断の境界線を越えた女性であることを理由に、見知らぬ人たちが僕を激怒させた。いま、彼らは僕の性別が何であるかを知らない。女であろうと男であろうと……僕が通り過ぎると、彼らの足元で岩盤が崩れ落ちた。僕が通り過ぎるたびに、彼らの足元で岩盤が崩れ落ちた。これがどれほど耐え難いものかを僕は忘れてた。でも僕は人生の次の段階に入ったことを知ってた。恐怖と興奮が僕を苦しめた。

 もうバッファローに引き留められることはあまりなかった。それでも、離れるのが怖かった。探してる故郷が何であれ、僕はそれを見つけられると信じたかった。

 安定した仕事への期待だけでなく、匿名性にも惹かれた。見知らぬ人の街で見知らぬ人になるのは、どういうわけか楽な気がした。そして、そこで自分と同じような人を見つけられるかもしれないと期待した。ただ、恐怖だけが僕をバッファローに留まらせた。

 ある朝、階下に降りると、僕のハーレーが駐車してあった場所に油膜が張ってた。盗まれたとは信じられなかった。僕はハーレーを停めた場所を忘れてしまっただけだと思い込もうと、1時間ほどそのブロックを歩き回った。ようやく縁石に腰を下ろし そしてバイクがなくなっていることに直面し、バッファローを去るときがきたんだと悟った。


                 □□□


 アムトラックの列車がバッファローの駅を出たとき、僕は自分自身を置き去りにしたような気がした。この先に何が待ち受けてるのかはわからなかったが、列車は暗闇のなかを目的地に向かって疾走してた。

 冬の空は子どものころの夢のように青く、雲は形を成して名前を待ってた。

 雲の形は、名前をつけられるのを待ってるようだった。窓の外には新しい風景が広がってた。木々が生い茂り、荒涼とした大地が現れた。この先には長い旅が待ってた。

「どなたかお座りですか?」

 僕は首を横に振った。彼女は荷物を頭上のラックに入れた。小さな女の子がその女性の足元から僕を覗き込んだ。「私はジョーン、娘のエイミーよ」

 エイミーは僕を見つめた。僕はうなずき、微笑んだ。「ジェスです」僕は振り返り、窓の外を見た。ひとりになって考えたり、不思議に思ったりしてたかった。

 エイミーは母親の膝の上で丸くなった。「お話して」ジョーンは微笑み、座席に頭をもたげた。

「昔々…」ある少女が、自分の人生に何をすべきかを教えてくれる魔術師を探しに、世界へ旅立った。しかしその途中、少女は火を吐くドラゴンに行く手を阻まれた。彼女はドラゴンにとても怯えた。「どうしよう」と少女は叫んだ。突然、少女は崖の上に大きな岩が乗っているのに気づいた。もしその岩を押すことができれば、岩は落ちてドラゴンを殺すことができるだろう。

 でも、どうやって登ればいいの? 少女は鷲に呼びかけた。「魔術師さん、私の人生で何をすべきなのか教えてください」そして魔術師は微笑み、彼女に言った、「あなたはドラゴンを倒すことになっています」

 エイミーは母に微笑みかけ、母の胸に寄り添った。「ママ、あれは女の子? それとも男の人?」彼女はジョーンを見上げて尋ねた。

 ジョーンは申し訳なさそうな表情を浮かべ、エイミーに向き直った。「ジェスよ」

「カフェカーから何か持ってきましょうか」と僕はジョーンに尋ねた。彼女は首を振った。

 僕はポップとトランプを買い、カフェカーに座ってソリティアをした。席に戻ると、ジョーンとエイミーの姿はなかった。ロチェスターで降りたんだろう。僕はプライバシーを楽しんだ。

 朱色、マゼンタ、焦げたアンバーの筋。銀色の白樺と雪の斑点。カリカリに焼けた黄土色の葉がまだ枝に張りついてる。湿原を支配する優雅な雑草の黄金色の波。静まり返った池で揺れ動く茶色の鴨たち。カラス、タカ、七面鳥が空を埋め尽くす。

 ハゲワシ。常緑樹に挟まれた丘にひっそりと佇む風雨にさらされた家々。休耕田と輝くサイロ。

 寝静まった田舎町は、みすぼらしい背中を線路に向けた。ファイブ&ダイム[5セント、10セントで買える安価な雑貨]、金物、自動車部品、ガソリン、家庭料理。ライム、レモン、ピーチのパステルカラーの家々。たるんだポーチ。裏庭に錆びついたピックアップトラックや子ども用ブランコ。トレーラーパーク――車輪を取り払われた昨日の移動の夢。恋人のため息のように聞き慣れた廃工場。道路、架線、線路のリボンは、僕らの生活すべてを贈り物のように結びつけてた。

 僕は、こことそこのあいだの無重力状態に喜びを感じ始めた。

「あれがハーレムだ、ハーレムだ!」僕は興奮で息も絶え絶えになった。

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