16 太陽が地平線から顔を出したところだった。

ひげに息が凍った。僕は疲れて派遣労働バスに乗り込んだ。

「おい、ジェシー」ベンは僕の隣に座り、毎朝そうしていたように、巨大であごひげの生えた手を差し伸べた。彼は僕の手を握り潰すこともできたが、彼の固い握手のなかで、僕はいつも彼の優しさを再発見した。この偉大な熊のような男を見て微笑み、彼に会えたことを僕は心から喜んだ。

 厳しい寒さも彼には関係ないようだった。彼のコートのポケットから銀色のヒップフラスコ[スキットルのメーカー名]を取り出したとき、僕はその理由を思い出した。彼はまず僕にそれを差し出した。僕は長いあいだ飲み、咳き込みながらそれを彼に返した。「ワイルドターキー」と彼は微笑んだ。「朝、ちょっと一口飲むと元気が出るんだ」実際、ベンは一日中、小さな一口が好きだった。

 僕らはコーヒーショップの隣に車を停めた。僕の席からはレストランの窓が見えた。ウェイトレスのアニーはコーヒーを注ぎながら、カウンターの男たちと冗談を言い合っていた。涙が出そうになるほどの強い憧れが僕を引き寄せた。

 僕らの前の席に座っていた男が、友人にこう尋ねた。

 ベンは僕が身じろぎするのを見ていた。「おい、黙れ」とベンは言った。

 男は座席の上から僕らを見た。「お前には関係ないだろ?」

「お前が言ってるのは妹のことだ」とベンは睨んだ。

「ああ、ごめん」と男は言った。彼は僕を見て目を細めた。「どこかで会ったことがあるような?」

「テキサスで働いたことは?」僕は彼に尋ねた。彼は首を振った。「じゃあ、僕を知らないんだ」と僕は彼に言った。

 バスが走り出した。僕らはトナワンダの工場に向かった。派遣会社は正社員の可能性もある安定した仕事を約束してくれた。ベンと僕は心地よい沈黙のなかにいた。バスのなかが騒がしくなったとき、僕は彼にささやいた。彼は微笑んでウインクした。

「本当にテキサスで働いていたの?」僕は微笑んでウインクを返した。

 工場に近づくと、ピケ隊が入り口をバリケードで囲んでいるのが見えた。僕らはストライキを阻止するために雇われたのだ。僕らがバスを降りた瞬間、「クズどもめ!」という怒号が飛び交った。極寒の空気のなかで息をするのもつらかった。

 ベンが僕のそばに立った。「こんなことには関わりたくない」と彼は言った。

 雄たけびを上げる女性の声が聞こえた。「私たちはこの列を守る。一人のクズも通さない。私たちの仕事と組合を守るためなら、どんなことでもする覚悟だ!」

 そうだろう? 組合の女性や男性たちは、同意の声を上げた。

 警官たちは暴動用ヘルメットのバイザーを下ろし、こん棒を胸に水平に構えた。その警棒は野球のバットと同じくらい太く、長かった。警官たちは、僕らをクズとして連行するために、攻撃の準備を整えていたんだ。

 別の臨時バスが到着した。そのバスから降りた男たちが僕らのほうに集まってきた。僕らは60人のグループを形成した。一緒に乗った男たちを見回した。最年長の男が「悪魔は俺の魂を買えない!」と大声で宣言した。

「俺には仕事が必要なんだ、家族がいるんだ」

「俺はそんな男じゃない」

 「ニクソンだけじゃない、みんなペテン師の集まりだ。この新しいピーナッツ男がホワイトハウスにいても、何も変わらないよ」

 彼らは、自分たちの生活を突然変えてしまったレイオフについて話した。ハリソン、シボレー、アナコンダ。年功序列15年、20年、30年。

 ベンは僕にこう言った。

「解雇されたとき、休暇だと思ったんだ。でも実を言うと、もう二度と戻れないと思うと怖くてたまらない。俺の人生のすべてがあの工場に詰まっているんだ」僕はうなずいた。「先週分の給料は今日もらえる。バーで小切手を換金して、一杯やろうぜ」

 僕は首を振った。「いや、家に帰るよ」

「何だよジェシー。俺と一杯飲んで、それでおしまい。俺にはもったいないと思わない限りな」

 僕はため息をついた。「一杯だけ」ベンは微笑み、手袋をはめた手で僕の太ももをトントンと叩いた。

 誰かがバーのジュークボックスから 『スタンド・バイ・ユア・マン』を流した。ベンが父親なしで育ったことについて話しているあいだ、僕は自分の過去に没頭していた。「きみはどうだい、ジェシー? 親爺さんと一緒に育った?」僕はうなずいた。「どこで?」

 僕は首を振った。

「いや」

「なぜ?」

 僕は肩をすくめた。「ああ、長い話なんだ。あまり話したくないんだ」

 彼はウェイトレスにおかわりのサインを出しながら、「どこで育ったんだい?」

「いろいろなところで育ったんだ」僕は3ラウンド目までこの言い逃れについていけるか心配だった。ウェイトレスはショット2杯とビール2杯を持ってきた。ベンは温かく微笑んだ。「ありがとう、ダーリン」

 ベンは言った。「法律から逃げてるのかい?」

 もしそうなら、僕は理解している。彼は声を落とした。「俺は刑務所にいた。2年間」

 突然、ベンのなかで何かが変わった。全身が静まり返り、まるで嵐の前の湖面のようだった。僕は彼の水面下で揺れ動く乱気流を感じた。ベンは傷ついた。僕は待った。痛みは自分のペースで現れる。心臓がドキドキしながら、僕は黙って座っていた。たぶんこれは僕の気のせいかもしれないし、ワイルドターキーがもたらすドラマのせいかもしれない。でも、ベンを見たとき、僕は間違っていなかったと思った。嵐は迫ってきており、逃げるには遅すぎた。

 ベンは財布を開き、2枚の写真を取り出した。「妻と娘を見せたことがあったかな?」彼の娘の顔に、絶妙に温かいダウン症の笑顔が見えた。「あの子が大好きなんだ」彼の目に涙があふれた。「あの子は俺にたくさんのことを教えてくれた」僕は彼が何を学んだのか聞きたかったが、僕はまだ感情的にベンから自分を防御してた。彼は僕のことを知りたがっているのに、僕はそうさせられなかった。もし僕が彼を信じて、間違ってたら?

 そして突然、彼の目のなかに、この羞恥心が現れた。彼の目は水で満たされた。僕は涙が彼の頬を伝うのを待ったが、そうはならなかった。僕は彼に触れ、彼の腕に手を置きたかった。でも、毎日一緒に働いている仲間たちを見て、それはできないと思った。僕はベンに近づいた。彼は僕の目を見た。

 沈黙のなか、言葉もなく、彼の目は刑務所で彼に何が起こったかを教えてくれた。僕は目をそらさなかった。代わりに、自分の鏡に映った自分を彼に見せた。彼は僕の目を見た。

僕は目をそらさなかった。その代わり、僕は自分の鏡に自分を映して見せた。彼は女性の目に映った自分を見た。

「誰にも言ってないよ」ベンは、まるで僕らの会話が大声で交わされていたかのように言った。

 彼は彼なりに、僕が決してできなかった屈辱の告白をしたんだ。僕は彼を信じ、すべてを話したかった。でも怖かった。でも彼を自分のなかに閉じ込めておくことはできなかった。「なぜ僕がきみをそんなに好きかわかる、ベン?」彼の目は答えを求める子どものように熱心だった、ベンは顔を赤らめ、目を伏せた。そして 「どうしてこんな風になったんだろう? いったいどんなふうに、すべての傷からいまのきみになったのか? 何がきみを変えたのか? どんな決断をしたの?」

 大きな熊は恥ずかしそうに微笑んだ。これが彼が望んでいた親密さであり、必要としていた関心だった。彼はより近くに寄った。「仮釈放になってから、ガソリンスタンドで働いたんだ。そこの整備士のフランクだ。あいつが俺の人生を変えたんだ」ベンの声は低くなった。「フランクは俺のことを気にかけてくれた。整備士になることを教えてくれた。いろんなことを教えてくれた。でも、一つだけ忘れられない言葉がある。ある日、俺は逃げるつもりだった。ガレージでいつもオレに絡んでくるヤツがいて、俺はそいつと戦うことができなかった。それで頭がおかしくなりそうだった。心のなかで動揺してたんだ」

 僕はうなずいた。

「あいつを殺して逃げ出したかった。フランクは知ってた。フランクは俺をガレージの壁に押しつけて、大声で怒鳴ったんだ」ベンは笑った。「フランクがどれだけおとなしい男か知らなきゃ、あんなふうに怒鳴られるのは納得できねえよ。俺は自分が男であることを証明しなければならないと彼に言ったんだ」彼はビールをひとくち飲んだ。

 ベンの声は笑顔と同じくらい親密だった。「何があったの?」

「フランクに言われたことが忘れらんない。お前はもう男だ、それを証明する必要はない。  

 僕の目は涙でいっぱいになった。

 ベンの声は、彼の微笑みと同じくらい親密だった。「きみはどうなんだジェシー? きみの人生は何だったんだ?」

 僕は恐怖で凍りつき、自分について何かを明らかにするようなストーリーを捏造できるほど考えをまとめられなかった。「話すことは何もない」と僕は彼に言った。僕は閉じられ、守られた。彼は裸のままだった。

 彼の顔からは温かさが消え、代わりに怒りがこみ上げてきた。彼は僕に暴言を吐くには優しすぎる男だった。ブッチのように、彼はそれを内に秘めていた。

 僕は立ち上がった。はうなずき、ビール瓶を見つめた。僕はしばらく彼の肩に手を置いた。彼は慰めを受け入れようともせず、僕を見ようともしなかった。ベン、傷つけてごめん。ただ怖かったからやっただけなんだ。男性が僕のように傷つくとは知らなかった。お願い、なかに帰して。

 でももちろん、そうしなかった。その代わり、「また月曜日に」と言った。


                 □□□


 孤独はますます耐えがたくなった。触られたくてたまらなかった。誰かに触れてもらわなきゃ、自分が消えてしまう、存在しなくなってしまうんじゃないかと恐れた。

 毎朝、ある女性が僕の頭を回転させた。職場の近くにあるコーヒーショップのウェイトレス、アニーだ。彼女は僕にコーヒーを運んでくるとき、僕に気づいていないように見えた。

 でも、彼女は僕の目をとめては背を向け、僕の注意をショールのように包んだ。彼女はギャングのようにタフだった。僕はアニーが好きだった。彼女はどの客も手品のように扱う。チップをもらうために働き、チップをもらうまで落とさなかった。

 僕はカウンターに座り、アニーが同僚のフランシスとくつろいでるのを眺めてた。 

 レストランにいる男たちは、女性たちの関心が自分たちのためだけにあると思ってるようだった。女同士がどれほど親密であるかを知ったら、男たちは嫉妬したかもしれない。 でも、彼らは気づかなかった。けど僕は気づいた。

 アニーはカウンターで僕を見た。「あら、お嬢さん、今朝はどうしたの?」

 僕は笑った。「元気かい、アニー?」

「ダーリン、カエルの毛の4分の1より元気よ。何にする?」

「コーヒーとエッグ・オーバー・イージー[両面焼きの半熟目玉焼き]」

 彼女は肩越しに言った。

 フランシスとアニーは、グリルからの注文を待つあいだ、子どもたちの学校の写真を見せ合っていた。

「見てもいい?」卵を持ってきたアニーに僕は尋ねた。

 彼女は僕に写真を渡しながら、警戒するように僕を見た。「なぜダメなのかわかんないわ」

 4列のかわいい子どもたちの顔が僕を見返した。「どれ?」僕は尋ねた。アニーはエプロンで手を拭きながら、自分の娘を指差した。

「素晴らしいわ。彼女はあなたのような目をしていて、賢くて、同時に怒ってる」

「どこに書いてあんの?」アニーは僕の手から写真を取り上げて言った。彼女は嵐のように去っていった。しばらくして、彼女は僕のコーヒーを持ってくると、カップの縁にかかるほど強くコーヒーを叩きつけた。そしてコーヒーを持ち上げ、カウンターを拭き、またこぼした。「今度本を読みたくなったら、図書館に行きなさい」彼女は踵を返した。僕はチップを置き、レジでお金を払って店を出た。

 翌日、僕は彼女に一輪の花を持っていった。「私情を挟んでごめん」と僕は彼女に言った。

「まあ、個人的なことを言うのは構わないよ、ダーリン。ゆっくりしていってね」

 僕は言った。「これはどんな花?」

 僕は微笑んだ。

 彼女は顔をしかめた。「ああ、わかったわ」

 アニーのボディランゲージは、僕に対してはとても控えめだった。でも、アニーとフランシスが一緒になると、彼女はすぐに打ち解けた。二人はささやいた。フランシスは花の匂いを嗅ぎ、心臓に手を当てた。アニーはフランシスの肩を叩いた。

 僕は、アニーが仕事をしていないときに一緒に過ごしたかった。それはもう秘密ではなかった。

 アニーが白い紙袋を持ってきた。「これは何?」と僕は尋ねた。

 彼女は肩をすくめた。「コーヒーとチェリーデニッシュよ」

 僕は混乱した。

「花も頼まなかったわね。おごりよ」彼女は言った。

 楽しかった。気持ちよかった。昔のフェムとブッチの関係を思い出した。でも、これは女同士ではなかった。少なくとも周囲はそう見ていなかった。そして、僕は何度も何度も自分に言い聞かせた。

 驚くべきは、この求愛ダンスが公の場で行われ、同僚も見知らぬ人も、誰もがそれを奨励し、承認してたことだ。一方、アニタ・ブライアント[アメリカ合衆国の歌手、元ミス・オクラホマ。同性愛に非常に批判的であることで知られ、1977年、性的指向に基づく差別を禁止したフロリダ州マイアミ・デイド郡の条例の撤回を訴えるキャンペーンを行ない、人気は下降し芸能活動に支障をきたした]は、単純な同性愛者の権利に関する条例を覆そうと、聖書を叩きながらキャンペーンを張っていた。僕は、人間の愛情がこれほどまでに異なるものとして裁かれることに疑問を感じた。

 ようやく勇気を出してアニーを誘ったとき、彼女は手を拭いていた。彼女はエプロンで手を拭きながら、こう答えた。「どうして?」

 金曜日の夜、僕は彼女のドアをノックした。彼女が返事をするのに時間がかかった。彼女が何かを叫んでるのが聞こえた。腹の底で変な感じがした。アニーはドアを少ししか開けなかった。「あの……」と彼女は話し始めた。彼女の足に子どもが巻きついているのが見えた。

「大丈夫だよ」と僕は口をはさんだ。彼女はキャンセルしたかったのだ。僕は落胆を隠そうとした。「また今度ね」

「待って」彼女はドアを全開にした。「コーヒーでも淹れましょうか?」僕は入りたかった。

 僕ら三人は彼女のリビングルームでぎこちなく立っていた。「私のベビーシッターは……実は妹の子どもなんだけど……風邪をひいてしまって、今夜はキャシーが家にいるんだ。

僕は手を挙げて彼女を止めた。「大丈夫だよ。大丈夫。落ち着いて!」

 アニーは一段と緊張を解いた。

 「後でね」僕はキャシーに言った。「もしウサギが熱を持ってると思ったら、体温を測ってあげる。女の子のウサギなの、それとも男の子?」キャシーがウサギを宙に浮かせた。

「ああ、女の子ね」と僕は推測した。キャシーは母親を見上げた。

「ウサギを見せてあげなさい」アニーが促した。キャシーは激しく首を振り、母親にしがみついた。

「マカロニ・アンド・チーズは好き?」アニーが尋ねた。僕はマカロニ・アンド・チーズが嫌いだ。

「それはいいね」と僕は答えた。

 アニーはスライスしたハム、マカロニ・アンド・チーズ、コーンと白いパンを3皿に盛った。最初の皿には、フリントストーンの絵がまだ下に残っている小さな部分があった。「僕の?」僕はキャシーに尋ねた。彼女は首を振り、ウサギをぎゅっと抱きしめた。

 アニーは僕の皿を私の前に置き、座った。

 キャシーが空のグラスを持ち上げた。アニーが飛び上がってミルクを注いだ。冷蔵庫のドアを開けたまま、彼女は僕に「ビール飲む?」

「もちろん」と僕は言った。

「グラスが必要?」僕は首を振った。彼女は微笑んだ。アニーは2本のビール瓶をテーブルに運び、腰を下ろした。僕らはビールを持ち上げて乾杯した。

 キャシーも同じことをしようとした。彼女のグラスがひっくり返り、ミルクがテーブルの上に飛び散った。アニーはすぐにナプキンで僕の皿のミルクを拭き取ろうとした。

 僕は飛び起き、シンクからスポンジを持って戻ってきた。ほとんど拭き取れた。

 アニーは緊張した面持ちだった。「食事が台無しよ」「いや、牛乳は体にいいんだ」と僕は言った。

 キャシーは泣きそうだった。彼女はウサギを強く抱きしめた。僕は彼女に微笑みかけた。  

 僕は微笑みかけた。

 アニーは笑いながらキャシーを抱き上げた。

 僕が最後の皿洗いをしていると、アニーが後ろから近づいてきた。彼女は冷蔵庫の扉からタオルを取り出した。彼女が皿を乾かしているあいだ、僕は鍋を洗った。気持ちよかった。  

 でも、アニーが皿を乾かす時間が長くなればなるほど、彼女は怒りっぽくなった。「どうしたの?」僕は彼女に尋ねた。

 彼女はタオルを投げ捨て、僕を睨みつけた。「私は簡単に寝られる女じゃないのよ。あんたたちは、子持ちの女は前にヤラれたことがあるから、ほしいものは何でも手に入ると思っているんでしょ? 好きなものを手に入れられると思ってるんでしょ?」

 僕は蛇口でスポンジを洗い、それを拭くためにキッチンテーブルまで歩いた。「夕食のときにほしいものは手に入れたよ」僕は彼女に言った。

 彼女は唖然とした顔をした。「何、マカロニとチーズのミルクグレイビーソース?」二人で笑った。

「二人とも非番のときに一緒に過ごしたかったんだ」

「どうして?」彼女はまた鋭い目で僕を測った。

「きみが好きなんだ。僕は本当にタフなクッキーが好きなんだと思う」

 彼女は首を振った。「あなたのことがわからないの」

「だから何?」

「だから、あなたが理解できない男は危険な男なの」と彼女は僕に言った。彼女は近づいてきた。僕の体は彼女のほうを向いた。それは起こってた。

「僕は危険じゃない」と僕は約束した。「複雑だけど、危険じゃない」

「何を探してるの、ダーリン?」アニーは僕の髪に指を軽く通した。ああ、神様、とても気持ちよかった。僕は深くため息をついた。

 僕は深くため息をついた。「傷ついた。結婚したいわけじゃないし、誰かを軽蔑したいわけでもない。ただ慰めがほしいだけなんだ」

「それだけ?」と彼女は探りを入れた。「一夜限りとか?」

「ママ!」キャシーが2階から呼んだ。アニーは申し訳なさそうな顔をした。僕はキャシーの声にうなずいた。アニーは数分留守だった。

 彼女はキッチンに戻ってきて、プラスチックのシンデレラグラスに水を入れた。「すぐ戻るわ」彼女は声を荒げて言った。

 僕は別の部屋に置いてきたバッグを思い出した。

 バッグを取りに行くならいましかない。僕はバッグをつかむと、バスルームに駆け込んだ。ドアに鍵をかけ、ズボンとBVDを脱いだ。

 ハーネスとゴムのコックはブリーフにうまく収まった。僕はズボンをはき直し、財布にコンドームがないか確認した。キッチンからアニーが僕の名前を呼ぶのが聞こえた。僕はトイレの水を流し、しばらく水道水を流し、彼女を迎えに出てきた。僕は息を切らしていた。

「そこで何してたの、走ってたの」と彼女は笑った。

 感覚を取り戻すには時間がかかるだろう。僕は彼女の髪に指を通した。

 彼女は目を閉じ、唇を離した。電話が鳴った。二人で笑った。「忘れて」と彼女は言った。電話は鳴り続けた。僕は彼女を引き寄せた。彼女は骨盤を僕に押しつけた。彼女は微笑んだ。

 彼女は手を引いて僕の顔を目で探った。僕はシンクにもたれかかり、彼女が戻ってくるのを待った。そして彼女は僕の手を取り、寝室へと導いた。

 アニーは恐れていた。それは本当だった。彼女は知らなかったが、僕もそうだった。僕は彼女の腕のなかにいたくてたまらなかったから、露出と屈辱のリスクを冒しても構わなかった。

 僕らが部屋に入ると、彼女は寝室の電気をつけた。ハーレーダビッドソンのガスタンクが天井からぶら下がっていた。「バイクは好き?」僕はうなずいた。僕は電気のスイッチに近づき、スイッチを切った。彼女はベッドの近くにぎこちなく立っていた。僕は彼女の背後から近づき、肩に手を置いた。片手で彼女の髪を持ち上げ、唇でうなじをなでた。骨盤を彼女の尻にそっと押し当てながら、僕は彼女の肩を引き戻し、口が彼女の首筋をもっと取れるようにした。

 アニーは振り返り、そっと僕をベッドに引き倒した。彼女は震えていた。「怖いの?」と僕は尋ねた。

 彼女は歪んだ笑みを浮かべて答えた。「前に傷ついたことがあるでしょ」僕は大声で言った。

「傷ついたことのない女なんているのかな?」

 僕は仰向けになり、彼女を僕の体に引き寄せた。「きみを気持ちよくしてあげたいんだ。きみが望むものを見せてくれるくらい、僕を信頼してくれるなら」

「何しに来たの、ミスター?」と彼女はいぶかしんだ。「ファックしたいのか、したくないのか?」

「きみがしたい場合は、僕らはすることができるよ」と僕は言った。「あるいは他のこともできる。きみ次第」

 アニーは二度見した。「私次第ってどういう意味?」

「きみの体さ。どうしたいの? つまり、どう触られたいかを僕に示すことができる。それとも興奮したフリして、僕がイクのを期待するか」

 アニーは頭を振って正座した。「あなたは私を怖がらせている」

「僕がきみに触れるとき、本当にそこにいてほしいから?」

 彼女はうなずいた。僕は静かに横になった。

「できるかどうかわかんないけど」と彼女は言った。

 僕は体を起こし、彼女を抱きしめた。「試してみて 」僕はささやき、彼女を僕の上に引き倒した。僕はアニーを仰向けに倒し、深く長くキスをした。

 僕は指先で乳首に近づくまで、長いあいだ彼女の胸をいじった。そして乳首を軽くなでると、彼女の体が震えるのを感じた。僕はそれぞれの乳首を口に含み、優しく弄んだ。彼女はどういうわけか、触る場所、触りかた、触るタイミングを体で教えてくれた。ジーンズの前を擦ると、僕は彼女の情熱が高まっていくのを感じた。

 そして彼女は僕に、勇気のいることを言った。「ファックする前に、いつもイキたかったの」彼女は恥ずかしそうに顔を背けた。

 僕は彼女が露出したままの喉の部分にキスをした。「何でもして」と僕は言った。

 彼女は首をかしげて僕を見た。彼女の目には涙が浮かんでいた。「何でも?」

 僕らは一緒に彼女の服を脱ぎ始めた。僕はチノパンとドレスシャツを脱いだ。白いTシャツとBVDだけを身に着けていた。

 僕の手は彼女の太ももを伝い、内側の割れ目を伝っていった。下着越しに彼女の熱と湿り気を感じた。僕は唇と舌を使って、彼女の胸郭とお腹のあちこちに新たな発情ゾーンを作り出しながら、彼女の下へと体を動かしていった。

 僕の指が彼女の下着のゴムをつかみ、太ももから下へと滑らせようとしたとき、彼女の手が私の両耳をしっかりとつかんで止めた。

 僕は疑問の表情で彼女を見た。「生理が終わったばかりなの」

 僕は肩をすくめた。「それで?」

 不信、怒り、安堵、喜び。僕が彼女の太ももを口でいじり始めたとき、彼女の顔にはまだ快感というまぎれもない感情が浮かんでいた。彼女は自らの欲望に身を任せ、そうすることで、ほとんどリラックスした信頼をもってオーガズムに達した。

「ゴムをつけたままではイけない」と僕は言った。「脱がせて、イク直前に抜くよ、約束する」

 彼女は顔を背けた。「それ前に聞いたことがある」

「約束する。僕を信じて」

「主よ、慈悲を……それは男の口から出る最も危険な4つの言葉。わかったわ、もう妊娠しなくてよかったわね」

 射精のフリをしたのは事実だが、快感はなかった。アニーの体はとても気持ちよかった。彼女はディープでゆっくりとキスをし、僕のために動き、女性が恋人に与えることのできるすべてを与えてくれた。これ以上続けることに耐えられなくなった瞬間、僕はそっと引き抜き、骨盤をシーツに押しつけ、泣き叫んだ。

 僕はベッドにうつ伏せになり、頭を彼女の腹に預けた。彼女の手が僕の髪を弄んだ。彼女の指先が僕の肩を伝い、肌の表面を刺激した。肌の表面を興奮させた。僕はただその瞬間のなかにいたいと願った。

 僕らはしばらく言葉を交わすことなく一緒に横たわった。「トイレに行きたい」と僕は言った。

「私も」と彼女は笑った。

「僕が先だよ」うつ伏せのまま、僕はディルドをブリーフにしまった。僕は彼女から背を向け、Tシャツを着て暗闇のバスルームに向かった。ドアに鍵をかけ、バスタブの後ろからバッグを取り出し、ディルドをブリーフのなかの靴下と取り替えた。冷たい水を顔にかけながら鏡を見た。まだ僕が僕を見返していた。

 バスルームのドアをノックする音がした。僕は鍵を開けた。アニーが僕の腕のなかに入ってきて、ディープキスした。彼女は僕の太もものあいだにそっと手を入れ、揉みしだいた。

 靴下を除いて、全身の筋肉が硬くなった。アニーは笑った。「リラックスして。文句なんか言ってないわ」僕が本当に驚いたのは、きみは僕が子どもの面倒を見なければならないことを知ってて、子どもが寝るまで僕の注意を要求しなかったこと。それと、前の夫でさえ皿洗いをしなかったのに、彼はほとんどの皿を汚してしまったこと。

 アニーは首を振った。「あなただって、他の男みたいにセックスしないじゃない」僕はかばうように腹ばいになった。彼女は僕の肩をマッサージした。「つまり、あなたは時間がかかるのよ。脳みそがちんちんの代わりに、ちんちんに脳みそが入ってるみたいな感じよ」僕らは笑い、一緒にベッドの上で転がった。

 僕は彼女の腕のなかで安心して眠りについた。

 最初に目が覚めたのはキャシーの声だった。「アニメつけていい?」アニーは 「どうぞ」とつぶやいた。そのすぐ後、彼女は僕の耳にキスをし、朝食を作るために立ち上がった。アニーがパンケーキを焼いているあいだ、キャシーは僕の膝の上に座り、ワイリー・コヨーテとロード・ランナーについて思いつく限りのことを僕に話した。アニーは僕らが一緒にいるのを見て、喜びを隠そうとした。「アニーはキャシーが部屋を出たときに言った。

 僕は料理をしてるアニーのボディランゲージに気づいた。「何か気になることでも?」と僕は尋ねた。

 彼女は振り返り、エプロンで手を拭いた。「こんなこと聞くのはおかしいってわかってるんだけど……」

「どうぞ」と僕は言った。

「妹が明日結婚するんだけど、まあ、クレイジーだよね」

「ああ、もちろん」と僕は言った。

アニーは言った。「くるの、こないの?」

 彼女は僕を上目遣いで見下ろした。「本当にハンサムよ、ダーリン」僕の赤面が目に見えて彼女を喜ばせた。「着替えてくる。コーヒー淹れたわ」

「僕が持ってくる」と僕は叫び返した。

 彼女はドレスの背中を押さえながら、寝室のドアの前にきた。「うん」彼女は微笑んだ。

「ドレスのジッパーを上げるのを手伝って」彼女は肩越しに僕を振り返った。僕は彼女の顔の横にキスした。彼女の髪はかきあげられ、ボビーピンで固定されていた。僕は彼女の首の付け根にキスした。「そんなことしてたら準備できないわよ、ダーリン」彼女は僕から離れた。

 コーヒーを2杯買ってきて、彼女の寝室のドアの前に持っていった。ドアは開いてたけど、僕はドアをノックした。「コーヒーはここにあるよ」

 しばらくして彼女が出てきたとき、僕は息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。彼女はドレスをなめらかにした。僕はため息をついた。

「死んで天国に行ったみたい」彼女は顔を上げ、僕の首に腕を回そうとしたが、僕は手を引いて、前の晩に買ったランのコサージュを手渡した。

 彼女は涙が溜まった目で瞬きした。それから彼女は怒ったような声を出した。「何のためにそんなことをするの」と彼女は叱った。僕は目の前に立つ力強い女性に微笑みかけた。彼女の表情が和らぎ、微笑み返した。

「キャシーはどこ?」僕は彼女に尋ねた。

「レストランのフランシスと一緒よ。元夫が会場の周りをうろうろしているかもしれないの」僕は理解できなかったが、そのままにした。

 結婚式は正式な教会式だった。結婚式に出席するのは初めてだった。

 アニーから目を離すことなく、僕はウィルマに言った。「アニーのように強くて美しい女性が、僕に時間をくれるなんて日常茶飯事さ」ウィルマは踵を返し、アニーは僕の肩に笑いかけた。

「シャンパン買ってきて」と彼女は言った。僕はそうした。「グラスはいくつですか?」バーテンダーに聞かれた。

「ひとつ」僕はクラブソーダの小瓶を手に取った。「これをいただける?」バーテンダーはうなずいた。

「何に使うの?」アニーは知りたがった。「誰かが家まで送ってくれるよ」彼女はテントの下で僕に優しくキスした。

 アニーと僕は、木陰のような場所を見つけた。彼女は靴を脱いだ。僕はスーツの上着を下ろし、彼女が座るようにした。アニーは首を振った。「あなたのママは息子に礼儀を教えたのね」

 誰が酒浸りなのか、誰が妻を殴ったり浮気したりしたのか、誰が牛乳配達のオカマなのか。

「あのオカマ」と彼女は軽蔑したように言った。僕は彼女の目に宿る憎悪に唖然とした。彼女は50代の男を睨みつけていた。受付に腕を回していた。「誰があの変人をここに入れたの?」アニーは怒鳴った。

「彼は本当にゲイなの?」僕は彼女に尋ねた。

「間違いない。たぶん、家族の子どもたち全員とヤッてるんだろうね」

「まったく、アニー」僕は血の気が引いた。「誰が好きだからって、どうして憎めるの?」

 彼女はショックを受けて僕を見た。「ホモが好きなの?」

 僕は肩をすくめた。「みんな同じじゃないんだよアニー。だから何?」

 アニーから目を離すことなく、僕はウィルマに言った。「アニーのように強くて美しい女性が、僕に時間をくれるなんて日常茶飯事だよ」ウィルマは踵を返し、アニーは僕の肩に笑いかけた。

 受付を出るまで待てなかった。アニーは僕の首に腕を回し、僕の背中に顔を寄せて乗った。

 彼女の家に着くまでに、彼女の靴はなくなり、排気管は彼女のドレスの裾に穴をあけた。

「気にしないで」とアニーは言った。彼女は酔っ払っていた。

 ポーチに着くと、彼女は僕に腕を回してきた。「ダーリン、入る?」

「いや、朝の仕事の準備をしなくちゃいけないんだ」

 彼女はストッキングの足元を見て、僕の顔を見上げた。「もう会えないんでしょ?」

 僕は靴を見下ろした。「そうは思わないよ」彼女はうなずいた。「どうして?」彼女の訊きかたに胸が痛んだ。僕の心を傷つけた。

「きみと恋に落ちるのが怖いんだ」それは部分的には真実だったが、すべてを語ってるわけじゃなかった。マジシャンがイリュージョンの技術を明かすのは一つのことだ。ノンケの女性に、自分が寝た相手が女だと言うのは別の話だ。アニーが同意したのはそういうことじゃなかった。遅かれ早かれ、それは爆発するつもりだった。そして今日の午後、僕には爆発を恐れる理由がさらに増えた。

「恋をして何が悪いの?」と彼女はつぶやいた。

「傷ついたよ、アニー。時間が必要なんだ」

「くそっ、あんたは違うと思ってた。立ちションする他の男と何も変わらないじゃない」 

 僕は肩をすくめた。

「あんたを傷つけた女に、私が追いかけてボロボロにしてやると言っておきな。彼女は私たちのために台無しにした」アニーの笑顔は消えた。「ここで立ち話をしても仕方ないでしょ? もう行って」

 僕はうなずいた。彼女の手から鍵を受け取り、玄関の鍵を開けた。僕は彼女の口に軽くキスした。

「ウィルマに言ってくれたこと、ありがとう」

「本心だよ」

 「いつもありがとう、ダーリン」僕は微笑んで行こうとした。彼女はポーチに立ち、僕がバイクのエンジンをかけるのを見ていた。彼女はエンジンの轟音にまぎれて叫んだ。

「なに?」僕は耳に手を当てて聞いた。「ウサギよ」

「キャシーのウサギ」

 僕はうなずき、彼女が何を繰り返しているのか聞き取ろうと努めた。

「キャシーのウサギは女の子じゃない、男の子よ!」

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