27.『メッセージは届かない』


「お姉ちゃんなんてだいきらい!」


 冷える夜に、私はそう言って家を飛び出した。

 本音を言ってしまえば10歩も走った頃にはもう後悔しはじめていて、振り返っても家の明かりが見えなくなる頃には、どうして自分があんなに怒っていたのかすらわからなくなっていた。


「……やっぱり、帰――」


 そこで我に返って、うんうんと首を振った。


 私はわるくない。

 お姉ちゃんがわるいのだ。

 私の気持ちも知らないで、口うるさく小言を聞かせてくるお姉ちゃんが。


 せめて一晩、いや、3じか……1時間は帰らないから。

 ぜったい。ぜったい帰らないからね。


 そう決意してみたものの、残念ながらあてはない。

 友達はいるけど、私と同じように門限が定められているはずだから、この時間じゃ頼れないだろう。


 もうゲーセンにもカラオケにも入れる時間じゃないし、せめてコンビニにでも逃げ込もうかと思ったけど、そういえばお金もないから立ち読みでもするしかない。

 でもあのコンビニは立ち読み防止のためにビニールのシートを本に巻き付けているから、そのプランも虚しく潰えた。


「さむ……」


 迷ってさまよった末に、私が行き着いたのは公園だった。

 ランニングコースにぽつりと置かれたベンチに腰かけて、寂しげなライトに照らされ、野球場から響く掛け声をぼーっと聞いている私は、さながら悲劇のヒロインだ。


 もし私が男子だったら、こんな儚げな美少女を放ってはおかないだろう。なんてね。


「――だけどさ、私は意外と人見知りなんだよ。そりゃ今まで隠してきた部分ではあるし、驚かれるのもやむなしと思うんだけど、こればっかりはどうしようもない私の短所なんだ」

「なにをいまさら言ってるの? そんなの見ればわかるわよ。だってあの時も――」

「――――」


 突然通り過ぎる人の気配に、ビクリと肩が跳ねる。

 ぜんぜんまったくこれっぽっちも関係のない、通りすがりの2人の会話だ。

 当然、彼女たちは私の方に興味なんて向けることもなく、足音と話し声は遠ざかっていった。


 咄嗟に身を隠していた自分に気づく。

 といってもベンチに座ってたものだから、まぁ隠せていないんだけど、とにかく身体をよじった。

 少しでも照らされないように。少しでも影に隠れられるように。

 その行動が功を奏したのか、通りすがりの2人組に(たぶん)見つかることなくやり過ごすことができた。


「今の人たち……高校生かな」


 ほっと胸に手を当てる。

 キンキンに冷えた指の温度はブラウスを貫通して、つめたく心臓を撫でるようだった。


 一応言っておくと、私は別に人見知りではない。

 人と関わるのは嫌いじゃないし、学校では決まって優香や渚と駄弁ったり、ノートを見せあったりしている。

 クラスにそりの合わない人もいないし、数ヵ月後に控えたクラス替えに不安だってない。


 だから、本当に咄嗟だったのだ。

 さっきの高校生が怖いとか、絡まれなくないとか、目つきが気に入らないとか、そんな感情はまったくない。はずだ。


 うん。きっとそのはずだ。

 そのはず、なんだけど――、


「……はぁ。私、何に怖がってるんだろ」


 女の子が夜にひとりで出歩くのは危ない。

 そう言われて育ってきたし、ある種みんなが持つ常識の範疇でもあるんだろうけど、きっと今私が恐れているのはそんな理由じゃなかった。


 そっと耳をすましてみる。

 野球場から、サッカーコートから、遠くのベンチから。

 色んな人たちの声が聞こえて、にぎやかにも思える。


 でも、その声は私に向いていない。

 ただのひとりも、私の方を向いていない。

 当たり前だ。


 寂しい。


「……ほんと、なにやってんだろ」


 人に認識されるのが怖い。

 興味を持たれるのが怖い。

 目立つのが怖い。

 指をさされて、笑われるのが怖い。


 なのに、ひとりになりたくない。

 誰かの隣にいたい。

 必要とされたい。

 ここにいていいんだよと、そう言ってほしい。

 誰かに、愛してほしい。


 バカバカしい。


「お姉ちゃん、来てくれないし……」


 そりゃ、行先なんて伝えてないけどさ。

 たったひとりの家族が出ていって、咄嗟に追いかけもしないのかな。

 もしお母さんだったら、どうしていただろう。

 私にすぐ追いついて、連れ戻してくれただろうか。


 というか、ひょっとして私はそれを望んでいたのだろうか。

 すぐに追いついて、抱きしめてほしかったのだろうか。

 そのために家を飛び出したのだろうか。


 違う。違うと思う。

 私はそんな、自分勝手なヤツじゃない。


 ただ、お姉ちゃんに不満を持って、家を飛び出した。

 お姉ちゃんが来てくれないのも、隣に誰もいないのも、愛されてないのも、全部が行動の結果でしかない。


 私は、ひとりだ。


「優香……渚……」


 ポケットからスマホを取り出す。

 嫌がらせかってほどに眩しい液晶の光は、まるで私に直視してほしくないみたいだ。


 メッセージは0件。

 優香のトークルームを開いてみたら、昨日私が送ったスタンプに既読がついて、そこで終わっていた。

 渚もきっと同じようなものだろう。


 もし今私がふたりにメッセージを送ったら、きっと何時間か経ったあとに、当たり障りのないテンションで1文か2文のメッセージが帰ってくる。

 私たちの距離感は、そんなもんだ。


 休日に遊びに出かけることもあるけど、それは私から誘ったときか、優香たちがお出かけの計画をしている場面に、偶然私も居合わせていたときだけ。

 たとえば今日の今日、その場のノリで誘ったり誘われたりしたことはない。


 そんなもん。そんなもんだ。


「お姉ちゃん……」


 お姉ちゃんとは、しばらくやり取りをしていない。

 最後のメッセージは、雨が降った日の「迎えに行こうか?」という言葉に、私が「おねがい」と返した、たった1文ずつのやり取りだった。

 顔文字も絵文字もスタンプも、私たちの間にはない。

 

 絵に書いたような仲良し姉妹なんて、アニメの中だけのものなのだと思う。


「……ははっ。こうなった時に出てくる名前って、3人しかいないんだ、私」


 自分はひとりじゃない。

 友達もいる。お父さんとお母さんはいなくなっちゃったけど、お姉ちゃんがいる。

 ひとりぼっちなんかじゃない。

 だから、大丈夫。


「……嘘」


 毎日充実してるし、それなりに楽しいし、私のことを嫌う人もいない。

 上手くやってる。

 満足だ。私に与えられた人生、なんとか満足しつつ生きている。


「……嘘だよ。そんなの嘘。ほんとは私、ひとりぼっちだよ……!」


 我ながら薄っぺらい人間だ。

 人との関わりを拒むくせに、誰かに寄りかかろうとしてしまう。

 ちっぽけな自尊心を、開き直ることで保とうとする。


 お姉ちゃんに大嫌いと言った。

 初めてお姉ちゃんを拒絶した。

 振り向いて走り出す直前、視界の端に映ったお姉ちゃんの表情を見たとき、ちょっとだけ胸がチクリと痛んだ。

 だけどそれ以上に、私はあの場から逃げてしまいたかった。


 私、私ね。ほんとは、お姉ちゃんじゃなくて――。


「……こんな私、だいっきらい」


 口に出して、自覚して、腑に落ちて、嘲笑が漏れて、苦しくなって、どうしようもなくなったとき、視界が黒く染まっていった。


 ランニングコースも、街灯も、まばらな人の影も、野球場の声援も、自分の体も、心さえも、黒く。


 黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く、黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒――。



 妹が出ていった。

 大嫌いと、私にそう言って。


「……馬鹿」


 ドアが閉まるとき、ついこの手を伸ばしてしまったけど、すぐに上がった手を下ろした。

 すぐにでも追いかけたかったけど、妹にこんな顔を見せるわけにはいかないから、すぐには追いかけられなかった。


「……お姉ちゃん、そんなに強くないんだよ」


 滲む涙を、決してこぼさないように擦った。

 泣くのは一瞬で十分だ。私の弱いところは、妹にだけは見せるわけにはいかない。

 強くて頼りになるお姉ちゃんでないと、妹が安心して歩めないから。


 あの子は不器用だ。

 きっと友達を作るにも苦労するし、人に心を開くのも苦手なのだと思う。

 誰かに頼るなんてこと、優しいあの子はできないだろうから。


 だからせめて、私だけは。

 私にだけは、無条件で頼ってほしかった。


「……よし。葵、待っててね。お父さん、お母さん、いってきます」


 私は靴を履いた。

 たったひとりになってしまったけど、まだあなたを追いかける家族がいるんだよ、と伝えるために。


 冬の夕方はすっかり暗くて、なおさらに心が逸る。

 早く見つけて、手を引いて、一緒にあたたかいこたつに潜らなくちゃ。


 妹の行方にはいくつか心当たりがある。

 まず、どこかのお店に入っていることはないだろう。

 これは玄関に置きっぱなしになっている財布と、あの子の性格から自ずと導かれた答えだ。


 なら、友達の家? それもないだろう。

 学校で話す程度の友達は何人かいるみたいだし、休日に遊びに出かけるところも何度か見ているけど、お互いの家に上がり込んだことはなかったはずだ。


 ――いや、でも、今日はあの子にしては珍しく、こんな時間まで帰らずに友達と遊んでいたんだっけ。

 学校が終わる時間になっても中々帰ってこなかったことに焦って、帰ってきた時にはつい叱ってしまった。

 心配をかけるな、遅くまで遊んでるんじゃない、と。


 だからこれは私の言葉が招いた――いや、そんな反省は後でもできる。

 とにかく今は、妹を見つけないと。

 

「やっぱり友達のところ……だったらお手上げだなぁ」


 私は妹の交友関係を把握していない。

 あの子が学校で話している子の名前も知らない。


 だから、そこに逃げ込まれてしまったら、私から妹を見つけ出すことはできない。

 けど、それは一番幸運なパターンだ。

 その場合、友達の親御さんから担任の先生を通じて私に連絡がくるだろうから。


 だから、そうじゃなかった場合の行先を今は考える。

 あの子がたったひとりで、この寒い空の下、肩を震わせている可能性のことを。


「……運動公園」


 ふと思い立つ。

 1年くらい前、学校から帰ってきた妹が、俯きながら「ちょっと出かけてくる。すぐ帰るから」と玄関のドアを開けていったことがあった。

 心配ではあったけど、きっとあの子は家にいた方が寂しいのだと思うから、私は送り出した。

 ちょうどご飯を作り終わった頃に帰ってきて、一緒に味噌汁をすすり、生姜焼きを食べたっけ。


 あとで聞いたら、運動公園のベンチで考え事をしていたらしい。


「……よし」


 私は早歩きで運動公園に向かう。いつの間にかつい小走りになっていた。

 10分ほど歩いたところで、不自然な人溜まりを見つける。

 

「困るよー! この先に家があるんだけど!」

「なんとかならないの!?」


 近隣住民のようなエプロン姿の主婦とか、会社帰りのサラリーマンとか、はたまた制服姿の学生とか、色んな属性の人たちが、まるで野次馬みたいにガヤガヤと騒ぎ立てていた。


 用があると言えば、私もこの先に用がある。

 何事かと覗き込んでみれば、それに気づいた警察の人が私に駆け寄ってきた。


「すみません。通行止めなんです。この先に用がありますか?」


 通行止め。事件か事故があったのだろうか。

 でも、これで用はなくなった。

 通行止めになっているということは、きっとこの先に妹はいない。


「いえ、大丈夫です」

「そうですか。ご協力感謝します」


 運動公園はハズレ。

 じゃあ、妹はどこにいるのだろう。

 スマホを確認してみても、連絡はない。


「ねぇ、あなた聞いた?」

「――――」


 一瞬立ち止まった隙に、エプロン姿の主婦が話しかけてきた。

 駄弁っている暇はないから、適当にあしらう必要がありそうだ。


「この先に、だんじょん? 迷宮? ができたらしいのよ。ついさっきよ? やぁねぇ、こんな近所に」

「そう、なんですか」


 迷宮。最近流行ってるから、存在は知っている。

 なんでも魔物と呼ばれる異形の怪物が巣食っていて、足を踏み入れてしまったが最後、簡単に命を落としてしまうのだとか。

 その様子をネットに公開してお金稼ぎをしたり、迷宮の中で手に入る物品を売買したりする、探索者と呼ばれる職業の人がいるとか。


 どちらにせよ私には縁のない話だ。

 そんな危ない仕事、妹にだってさせられないし。


「しかも、しかもよ? 内緒だけど、その迷宮ってやつ、女の子から出てきたらしいのよ」

「……怖いですね。じゃあ私、先を急ぎますので――」

「ほら、そこに学生さんいるじゃない? あの子たちと同じ制服を着てたらしいわよ、その子」

「――――」


 その人が指さした方に、目線をちらと送る。

 そこには、私もよく知ってる中学校の制服を着た学生が立っていた。


「……あの。その女の子って、どんな見た目だったか知ってますか?」

「え? そこまでは分からないけど……あ、でもね。あの子たち、見てたらしいわよ」

「……見て、た?」

「その決定的な瞬間よ。ベンチに腰かけてた女の子から、すっごい勢いで真っ黒なモヤが出てきたらしいわよ」

「――――」

「声が聞こえなくなるまで、ずっと『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って言ってたって……あ、ちょっと、どこにいくの!? ……行っちゃった」



「――ちょっと、通行止めですから! この先は危険です! 止まれ、止まりなさい!」


 私は走った。

 妹――葵だ。葵が助けを求めている。

 他の誰でもない、私に。


 それは確信だった。

 走れば走るほど、葵の存在を強く確信した。

 何人かの警察官を無視して、避けながら、とにかく走った。


 そして、たどり着いた。


「……なに、これ」


 運動公園。いや、運動公園があった場所。

 そこを囲むように、真っ黒な膜が張っていた。

 まるで悪趣味なドーム球場のようだ。


「葵……この中にいるの……?」


 唾を飲み込み、その膜に手を触れる。

 抵抗はなく、ずぶずぶと私の手のひらが沈んでいって、見えなくなった。

 なるほど、きっと1歩踏み出せば、私はこの中に入れるだろう。


 怖い。

 この中に、一体何が待っているのだろう。

 ……いや。葵だ。葵が、私のことを待っている。


 行かなくちゃ。


「……っ」


 そして、見た。

 真っ黒に塗りつぶされた、人型の影を。

 到底、葵とは思えない、異形の化け物を。


「――――!」


 そしてそれは、私の存在に気づくと、心臓を引っこ抜かれてしまうような錯覚すらもたらす、おぞましい咆哮をあげた。


 たしかに形は人のものによく似ている。

 だけどそれは影だった。

 世界を塗りつぶしたような漆黒が、人を象っていた。


 加えて言うなら、目にあたる部分と心臓にあたる部分だけがぽっかりくり抜かれているのと、それは巨大だった。

 私の身長が158cmだとするなら、きっと10倍はあった。


 巨大な漆黒に見下ろされ、否が応でも私の身体は竦む。

 歩けなくなる。その場にへたりこんでしまいたくなる。

 でも――、


「……葵。葵なの……?」

「――――!」


 その咆哮は私の本能から恐怖を呼び起こさせる。

 でも目の前のモノが愛する妹であるかもしれない、その可能性だけで私の意識は保たれていた。


 この影が葵なのだとしたら、助けを求めているはずだ。

 私を待っていたはずだ。

 この場所で、たったひとりで。


「葵……葵……待っててね」


 今、助けるから。

 そう言い終わる前に、その拳が振り上げられた。


「……ぇ」


 持ち上げられた拳はきっと私よりも大きくて、それが叩きつけられたら、私は死ぬだろう。

 そしてその未来は、1秒後の現実だった。


 暴風とともに迫る拳は、確かに私を殺そうとしていた。

 死ぬ。死んじゃう。

 やめてよ。

 葵、葵。

 葵、一緒に帰ろうよ――。


「――ごめんね、葵」


 ぎゅっと目をつぶる。

 自分が死ぬ瞬間なんて、直視できないものだ。

 でもせめて、私が認識する前に、ひとおもいに殺してほしい。


 あなたの望みが私を殺すことなのだとしたら、その深層心理が影となって現れたのがこの姿なのだとしたら、だったら私は受け入れるから。

 だから、気づく前に殺してほしい。


 この影は葵なんかじゃない、ただの化け物だって、そう気づく前に――。



 何秒経っただろうか。

 1秒? 2秒?

 それとも、もっとだろうか。


 実はここがもう死後の世界で、私はあっという間に殺されてしまったのだろうか。


 ともかく、光がない。音がない。

 でも、匂いはある。よく耳をすませば、音もある。

 光がないのは、ぎゅっと目をつぶっていたせいだった。


 どうやら私は生きてるらしい。

 間違いなく振り下ろされた拳は、なぜか私の命を奪うことなく、どこかに散ったのだろうか。


 ゆっくりと、恐る恐る、目を開ける。

 光が射した。


「――大丈夫、ですか? 危ないのでさがってて、ください」


 小さな女の子だった。

 葵とそんなに変わらないくらいの、線の細い女の子。

 頼るというより、守る対象のような、そんな印象の女の子。


 そんな子が、自分よりも大きな拳を受け止めて、私を守るように立っていた。


「ちょ、月野さん! 無茶しないでよ! 私もいるんだからね! ちょっとは周りのこと考えて動いてよ! この自己中!」

「……うるさい。今、必死だから。黙ってて、花田、さん!」


 その子が力を込めると、その影の拳は、まるで発泡スチロールみたいにふわりと吹き飛んでいった。


「……絶対に、助けるので。待っててください」


 振り向きざまにかけられた言葉が、私だけじゃなく、葵にも向けられたものであるような気がしたのは、私が欲張りだからなのかもしれない。


 

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