幕間『SIDE:だれか』
26.『死ぬ気で推死活!』
自殺するなら、推しの誕生日がいいと思った。
特に理由はない。
ただ、なんとなく区切りがいいというか、踏ん切りがつくというか、箔が付くというか。
最期の瞬間まで推しのことだけを考えてましたよ、って同担へのアピールにもなるし。
というのは後付けの理由だけど、理由なんてなんでもよかった。
ただ一歩、踏み出すためのきっかけが欲しかった。
だから、今日死ぬことに決めた。
「よし」
私は行動力に自信があるほうだ。
決断すれば、5分で家を出ることができる。
今日もいつもと同じように、財布やらメイク道具やらをあらかじめ詰めたバッグだけを持って、あっという間に家を出る。
自殺するならここにしよう、と以前から決めていた場所がある。
迷宮だ。
なぜ迷宮かと言えば、私の推しが探索者だからというのが一番大きな理由で。
ついでに言えば、なんとなく死にやすそうだから、というのも理由に数えられる。
迷宮じゃ人の死なんて日常で、その辺に死体が転がっていても不審には思われないだろう。
それに、家で首を吊るより他人に迷惑がかからない気がする、なんて思ったりもした。
死んだあとのことまで考えられるのが私。
そんじょそこらの自己中な自殺者とは違うのだ。
「ライセンス未所持ですね。これより先、何があっても自己責任となりますのでご了承ください」
受付の人は冷めきった目をしていた。
というか、受付って。
ここは病院か、あるいはレジャー施設かなにかなのか。
想像していた迷宮像と違って困惑しつつ、私は階段を下った。
なんでも、ライセンス未所持の人は、エレベーターを使うにもお金がかかるそうだ。
階段があるならそれでいい。
無駄遣いなんて、私の柄じゃないから。
なんて高を括ってはいたものの、私の足は3階層ほど階段を駆け下りたところで限界を迎えた。
階段っていうから、デパートとか、あるいは精々マンションのそれを想像していたのに、1階層ごとに山の上にある神社への道のりくらいの段数を下らされた。
ただまあ、あれは上りで、こっちは下りだ。
体力的にはこっちの方がやさしい。
そのかわり膝とか足への負担はえげつないけど。
こんな大変な思いをするくらいなら、ちょっとくらいお金がかかってでもエレベーターを使うんだった。
なんてらしくもない弱音が出そうだったけど、それでも私は私だ。
中学生の頃は陸上をやっていたから、体力と根性には自信がある。
これも推しのため。
そう思えば、無限に力が湧き出るようだった。
やっとの思いで5層までたどり着いた時、目の前に広がるのは冗談みたいな光景だった。
人、人、人。
ごった返す人の群れは、喧騒と言って差し支えない。
これは、レジャー施設そのものだ。
推しがいつも戦っているような、暗くて狭くてキケンな香りのする迷宮とは程遠い有様。
当然、魔物なんてものはただの一匹も存在するわけがなく、ただ係員みたいな人が騒がしい人の群れを必死に整列させていた。
「あ、迷宮探索ツアーへの参加をご希望ですか?」
うっかり目が合った私に、係員さんはそんなことを聞いてきて、この耳を疑った。
『迷宮探索』と『ツアー』。
私にはそのふたつの単語が、『りんごジュース』と『小銭入れ』くらい、なんの関係もないもの同士に聞こえたからだ。
途端に腹が立った。
私の推しは命を懸けて魔物と戦っているのに、この人たちはそんな覚悟もないくせに、興味本位で迷宮という聖域に入り込んできたのだ。
「……大丈夫です!」
私はぶっきらぼうにそう答え、ずいずいと階段を進む。
この人たちと私は相容れない。
こんな場所、早く抜け出さないと。
そろそろ気を抜いたら踏み外しちゃうくらい疲れていたけれど、転ばないように気を回すくらいの元気はまだギリギリあった。
私が目指すのは30層。
いつも推しが戦っている場所。
人の命をたやすく奪う、恐ろしい魔物が現れる場所。
そんな極限の環境で、推しの放つ魔術は夜空に浮かぶ星みたいに美しかった。
雷を迸らせ、魔物の肉を裂き。
彼の衣装は埃でさえも汚すことを許されず、魔物を屠ってなお、雷の中心でただ精悍に佇んでいるのだ。
「ああ、エレク様……! なんて尊い……」
独り言だ。
とはいえ、整備の進んだこの迷宮をわざわざ階段で下る物好きは私しかいないらしく、この独り言を盗み聞きされる心配はなかった。
ところで、私にも分別はある。
ここが推しの聖地だとわかっていながら今まで足を踏み入れなかったのは、それが最低限のマナーだからだ。
ひとつ。
推しに迷惑をかけるべからず。
ひとつ。
同担に迷惑をかけるべからず。
ひとつ。
一般人に迷惑をかけるべからず。
探索者を推す人間の、鉄の掟だ。
だから間違っても、推しの配信中にリア凸なんてしてはいけない。当たり前だ。
なのになぜ、私は今こうして件の迷宮にいるのかというと、たまたま目的が噛み合ったせいだと言っておこう。
私の目的は迷宮で死ぬこと。
今日、ここで死ぬことだ。
決して、推しに会いたいとか聖地巡礼したいとか、そんな邪な考えじゃない。
死にたい時に、死にたい場所で死にたい。
それだけなのだ。
だけどまあ、もし。
もし今日この場所に彼がいたら、それは偶然の――いや、運命の邂逅だから、その場合はしかたない。
運命には抗えるものじゃないのだ。
だって、運命だから。
運命なら、しかたない。
「はぁ……はぁ……」
息も絶え絶え。
でも、30層にたどり着いた。
ほら、やっぱり私は根性がある。
高校で陸上を続けなかったのは、決して根性がないからじゃない。
あれは自分で選んだ道なのだ。
「寒い……」
気づけば、周りの様子がさっきまでと違っていた。
ジメジメしていて、空気が重くて、薄ら寒い。
人混みがうごめいていたあの光景と比べても、同じ場所だとは思えなかった。
道は狭く、薄暗く、天井は低い。
これだ。
これが私の求めていた迷宮に違いない。
「よし……っ」
つい小声になりながら、私は気合を入れる。
ここからが勝負。
ここからが、私の最期だ。
チラチラと忙しなく視線を動かす。
人の気配はない。
そりゃそうだ。
こんなキケンな場所、おいそれと立ち入る人はいない。
だけど、往生際悪く視線を動かす。
人の気配はない。本当かな。
もしかしたら、見逃してるだけかも。
足を進めながら、うじうじと視線を動かす。
人の気配は――。
「――――」
瞬間、雷光が迸った。
白に埋め尽くされる視界。劈く轟音。
身体中から水分を奪うような熱さ。
そして私の胸は高鳴った。
いつも画面の向こう側でしか感じられなかった感動を、今私は全身で感じてる。
推し歴3年の私にはわかる。
これは、この雷は、間違いなく――。
「――エレク様!」
「――。探索者か!? すまない、手を貸してくれ! 雷の魔術が効かないんだ!」
聞き違えるはずもない。
何百時間と聞いた声。
彼が今、私を認識し、声をかけてくれている。
そんな事実が胸を熱くし、それと同時に、返答に困った。
私は探索者じゃないし、彼に助力できる力なんてない。
「わ、私、探索者じゃなくて……! その、ごめんなさい……」
「なに!? どうして一般人が紛れ込んでいるんだ! きみ、まさか僕のファンか!?」
「あ、え、その、違くて……! ちが、その、違くないけど、私がここにきたのは、その、違くて……」
「なにが違うんだ! 戦えないなら来るな! くそ、役立たずばかりだ……」
あまりの剣幕に、私は泣きそうだった。
これではまるで、私が身の程を弁えない厄介オタクみたいじゃないか。
違うのに。
ただ、死にに来ただけなのに。
とにかく誤解を解きたかった。
私はあなたのことが大好きだけど、今回はあなたに会う目的でやってきたわけじゃないんです。
別の目的でこの場所にたどり着いて、そしたらたまたまあなたに会っただけなんです。
そう言わなきゃと思った。
「あの――」
声を出した瞬間、それが角から顔を出した。
ガラス製の壺。
見たまんま伝えると、そんな感じのなにかだ。
ただし、そいつは私よりふた周り以上大きく、手足が生えていた。
――魔物。
初めて見る存在にそんな結論を出すのは、少しばかり時間がかかった。
ただ、得体が知れなかった。
「――くそ! もう追いつかれたか!」
彼が走った。
壺の人に背を向けて、ただ必死に。
なんとなく、追いかけた方がいいと思った。
「あ、あの、待っ――」
私も背を向けた瞬間だった。
身体中に熱が駆け巡り、息が止まる。
私は無様に顔から転び、口の中には生臭い鉄の味が広がった。
「――え? え?」
心臓がけたたましく鳴っていた。
手足はしびれ、立ち上がることはできない。
力が思うように入らず、まるでこの身体が自分のモノじゃないみたいだった。
そういえば。
中学生だった頃、陸上で怪我をして。
整骨院に通ったとき、似たような経験をしたことがある。
そう、電気治療。電気治療だ。
あれも、身体中の力が奪われていくような感覚だった。
「――すまないが、役に立ってもらうしかない。安心してくれ。僕がきみの分まで生きるさ」
浮き沈みする意識の中で、そんな声が聞こえた。
ああ、なるほど。
私は彼の魔術を食らったらしい。
命を奪うほどではないけど、人が動けなくなるくらいの出力で。
足止めのために。囮として。
少しずつ暗くなる視界に必死で食らいついて、なんとか声のする方へ頭を持ち上げると、彼は既に遠くにいた。
そう。彼の身のこなしは素晴らしいのだ。
それこそ、魔物なんかに遅れを取らないほど。
だから、私はもう彼に追いつけない。
きっと万全の状態の私が全速力で走ったとしても、彼の俊足には遠く及ばないだろう。
これが運命だとするなら、理不尽なことだと思った。
「……ぁ」
そして魔物はすぐそこにいた。
中学生か、あるいはもっと幼かったころ。
両親が喧嘩をする声が聞きたくなくて、布団を被ってギュッと目をつぶっていたことがある。
現実に目を向けたくなかった。
早く明日になってほしかった。
気づけば眠りに落ちていて、そしたら明日がきていた。
私が目をつぶる前に思い出したのは、そんな懐かしい記憶だった。
弱かったな、あの頃の私は。
なんでも大人に助けてもらっていて、自分が大人になることを想像すらしていなかった。
流れる時は止まってくれない。
誰だって歳をとるし、大人になる。
私は大人になったし、ある程度の自由を手に入れ、自分で自分のことを決められるようになった。
だから今日、迷宮に来た。
会いたかった人にも会えた。
けど、あれはあんまりだ。
いくら自分が助かりたいからって、こんなか弱い乙女を囮にする? 普通。
配信中とオフで性格が変わる人とか、ありがちな話だけど。
エレク様がそのタイプだとは思わなかったな。
エレク様といったら、いつなんどきも弱者の味方で。
女の子の涙をそっと拭って、サラッと救っちゃうような、そんな英雄的存在で。
誰よりも強くて、カッコよくて、美しくて、たまにかわいくて。
ファンサも欠かさず、偶然会ったファンには神対応で。
そんな人のはずなんだけど。
そんな人じゃなかったのかなあ。
はーあ、これじゃ100年の推しも冷めきっちゃうよ。
思い出したらムカついてきた。
最低、最低でしょ。
明日からはアンチに転身してやる。
あれ、でも私、死にに来たんだっけ。
なら丁度いいじゃんね。
このまま目をつぶってれば死ねるし。
あー、でもなぁ。
昨日買ったプリン、冷蔵庫に入れたままだ。
ずっと好きだった漫画がついにアニメ化したのに、まだ1話しか観てないし。
地味に課金して続けてるソシャゲのポップアップストアももうすぐ終わっちゃうのに行けてないし。
死ぬの、また今度でもいいかもなあ。
第一、せっかくエレク様の誕生日に死んであげようと思ったのに、とうの本人がアレだし。
死ぬ理由も、なくなっちゃったし。
なら、死ななくてもよくない?
少なくとも今日じゃなくてもいいよね。
死ぬなら、もっとパッとした日に死にたいし。
よし、死ぬの、やめよう。
「……ぁれ」
だけど目を開けても、身体は動かなかった。
歩くどころか、立ち上がることすらできなかった。
「……ひっ」
目の前には壺の魔物。
そうだ、これが現実だった。
あれ、おかしいな。
これじゃ私、帰れなくない?
壺の魔物はもうホントに目の前にいて、今にもその腕を振り下ろそうと迫っていた。
咄嗟にふたたび目をつぶる。
次に頭の中に駆け巡ったのは、これまでの人生だった。
21年。
短いようで、私にはとても長かった。
長すぎるくらいに、その歳月は私を苦しめた。
死にたい、と思えど実行することはなかったけど、いつそのタイミングがやってきても悔いなんて残らないだろうとは思っていた。
例えば私が乗ってる飛行機から黒煙が立ち上って、急速にその高度を下げたとしたら、乗客の阿鼻叫喚をBGMに頬杖をつき、窓の外をぼーっと眺めながらその時を迎えるんだろうなって、そんな現実味のないことも考えていた。
「……しにたくない」
奇しき巡り合わせか、あるいは自分の選択が呼んだ結末か、ついにその時はやってきた。
どうしてだろう。今になって口をついて溢れるのは、バカバカしい未練だった。
「……しにたくない」
まだやりたいことがある。
やり残したことがある。
これから長い長い人生が、あくびが出るほど退屈な毎日が、私にはまだまだ残されていたはずだ。
どうして、それを捨てようとしてしまったんだろう。
まだ21歳になったばかりなのに。
私の人生なんて、まだまだ短かったはずなのに。
「……たすけて」
私は常に、なにかに縋って生きてきた。
最初は親に。学生時代は恋人に。
今は――いや、ちょっと前はエレク様に。
1人で生きてると思ってた。
私は根性があるから、それなりに要領もいいから、誰にも頼らずに生きてると思ってた。
でも、本当にどうしようもなくなった時、いつだって私は誰かに頼ってきたのだ。
それは親だったり、エレク様だったりするけど、今ここに親はいない。エレク様はクズ野郎だった。
つーか、私がいくら貢いだと思ってる。
私が必死に働いたお金で生活を賄ってるくせに、危機を助けるどころか、囮に使っていきやがった。
「……たすけて」
なら、私を助ける人はどこにいる?
決まってる。そんなものはどこにもいない。
私は他人に、なんの施しもできていない。
言い換えるなら、他人にとって私が存在する価値がない。
お金も時間も、ここ数年は全部エレク様に捧げてきた。
親は身体を壊したけど、その看病は妹がやっている。
友達はネットの中にいる。
共にエレク様を崇めて、他の探索者を貶した。
あれは痛快だった。
あの頃の私は、エレク様以外の全てが敵に見えたのだ。
そしてそんな彼女たちは、きっと今の私を貶すだろう。
彼女たちにとって、エレク様こそが絶対の正義であり、その思想に反する者はみな背信者、敵なのだ。
私の居場所ってどこだろう。
どうして私は、空っぽなんだろう。
覚悟もない、人望もない、金もない――生きる価値もない。
そんな私を助けてくれる人は、そんな英雄は、きっと漫画か配信サイトの中にしかいないのだろう。
でも残念なことに、あれはどちらもフィクションだ。
無償で見知らぬ誰かを助けようなんて、誰だって思わない。
パトカーや救急車だって、税金がなければ動かないのだから。
なのに、縋ってしまう。
みっともなく、図々しく、願ってしまう。
本物のヒーローなんていないのに、画面の向こう側の世界を希ってしまう。
誰か、こんな私を颯爽と救ってくれないか、と。
もし生きられたら、もっと真面目に生きるから。
ちゃんと将来のことも考えるから。
もう、死にたいなんて言わないから。
だから――、
「だれか、たすけてよ……」
「――うん、助けるよ」
「――――」
風が舞った。
突き刺すような鋭い風じゃない、まるで春の朝みたいな優しい風だ。
釣られるように私は目を開け、見た。
1本の線がまっすぐ伸び、それが目にも止まらぬ速さで通り抜けたあと、ばらばらに崩れ去る魔物の姿を。
「――あとはよろしく」
「まかせて、凛ちゃん! ――【氷晶六華】」
その線の正体は、小さな女の子だった。
彼女が文字通り目にも止まらぬ速さで魔物をばらばらに砕いたのだ。
そしてそれに呼応するように、いつの間にか私の前にしゃがんでいた女の子が手をかざす。
春の陽気だった迷宮が、みるみるうちに吹きすさぶ冬のものへと変わった。
見れば、粉々になりながらなお動こうとしていた魔物の破片が、カチカチに凍りついて完全に動きを止めるところだった。
きっと私が目を開けてから5秒も経っていなかったと思う。
そんな刹那に、勝敗は決した。
私の目は、目の前にしゃがみこむ氷の女の子に釘付けになっていた。
さらさらとなびく髪。細くて長い指に、その息遣い。
それから、その腰に下げられた、雪原みたいに真っ白なプレート。
美しすぎる存在に目が離せない。
私が見とれていると、やがてその人が振り向く。
初めてその顔を正面から見て、目が合って、私は緊張から目を逸らしてしまった。
でも、かなりかわいい女の子だった。
それだけは無理矢理にでも確認した。
「大丈夫ですか?」
「え、あ……大丈夫ですっ!」
声が裏返った。
自分を殴りたくなった。
でも彼女はそんなこと意に介さず、しばらく私のことを観察すると、その鈴みたいな声を凛と鳴らした。
「うん、外傷はなさそうかな。鼻血は出てるけど、これくらいなら大丈夫。よかった」
「あ、あの、ありがとうございます、たすけてくれて。その……お礼とか、持ち合わせないんですけど、コンビニ行けば降ろせるので……」
「え?」
「……え?」
迷宮で命を助けられたら、対価を支払うべき。
それはSNSとかでよく議論が交わされてるトピックだし、実際にそれを行っている人もいる。
私は迷宮なんて来たことがなかったけど、きっと探索者の間ではそれが常識なんだろう。
そう思って、必死に申し出た。
のに、彼女はキョトンとした顔で、
「お礼とか、そういうのは大丈夫ですから。さ、帰りましょう」
そう言って手を差し出してきた。
これには私も驚愕した。
驚愕しすぎて顔に出てたらしく、彼女は苦笑いをしていた。
「い、一緒に帰ってくれるんですか?」
「だってお姉さん、探索者さんじゃないですよね。ひとりだと危ないですから、私たちもついていかせてくだ……あ、もしかして先約があるとか……?」
そう言うと、彼女は少し寂しそうな顔をした。
ので、私は全力で首を振った。
「な、ないです! ぜひ! ぜひお願いします!」
「あ、よかった。凛ちゃーん! このお姉さん送ってくよー!」
「……ん、わかった」
彼女はひたすらに優しかった。
もしかしたら彼女は女の子が趣味で、私に一目惚れでもしたんじゃないかと、そう勘違いしそうなほどに。
でもそれが勘違いなことは、もうひとりの女の子への目付きを見ればすぐにわかった。
帰り道、といっても彼女がエレベーターを使わせてくれるというので、この階層だけの護衛となる。
私は名残惜しさを感じつつも、どうしても気になったことを聞いてみた。
「あの、なんで助けてくれたんですか?」
彼女は迷わずに言った。
「死なないで欲しいですから」
私に、ということではないんだろう。
きっと彼女は誰でもそうなのだ。
英雄。
私は彼女のことを、英雄だと思った。
私の思い描く英雄像は、まさしく彼女だったのだ。
「あの! ……お名前を、教えてくれませんか?」
エレベーターに乗り込む直前、最後に私は聞いた。
彼女は振り向いて、眩しい笑顔を見せながら、言った。
「紗那。紗那です」
「――――」
私はその名前を生涯忘れないだろう。
現に、あの埃っぽい迷宮から脱出して、震える膝で家に帰り、いつものようにお風呂に入り、ベッドの中で電気を消してからも、唱えるように彼女の名前を呼んでいたのだから。
そうだ。
きっと今日、私は彼女に出逢うために迷宮へ行ったのだ。
運命。運命なのだ。
「――あぁ、紗那様。なんて尊い……」
これから長い人生になる。
わからないことだらけ、やりたいことだらけ、やらなくちゃいけないことだらけだけど、ひとつだけ確かなこと。
――私の推しは、紗那様ただひとり。
彼女だけが、私の人生を照らす星灯なのだ。
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