24.『感情>理性』


 凛ちゃん。

 私にとって、凛ちゃんとは。


 命の恩人で、大切な友達で、尊敬する探索者で、でもどこか心配も尽きない、そんな存在だ。

 私の凛ちゃんへの気持ちは、とてもじゃないけど一言じゃ形容できない。


「どう、って……」


 いや、結局、私は無意識に避けていたのだと思う。

 自覚して、自覚してないフリをして、曖昧に感情を宙ぶらりんにしていたのだ。

 私の気持ちなんて、とっても単純な一言で簡単に形容することができるはずなのに。


 私は、凛ちゃんのことが好きだ。

 凛ちゃんのことを考えると胸がきゅーってなるし、ぽわぽわとあたたかくもなる。

 もっと会いたいし、一緒にいたいし、声を聞きたいし、彼女の紡ぐ言葉を抱きしめたい。


 なら、それは好きなのだ。

 どうしようもなく、私は凛ちゃんのことが好きなのだ。


「……好きだよ? 凛ちゃんのこと」

「……まぁ、私も紗那と一緒にいると楽しいけど」


 だけど、当たり前にこうなる。


 そうじゃない。

 私が伝えたいのは、そんなことじゃなくて。


 もっと、もっともっともっと、ずーっと心の奥からあふれてる想いなのに。


 それはきっと凛ちゃんに通じない。

 だって私は女で、凛ちゃんも女だから。

 私たちは、同性の仲良しな友達だから。


 言葉にするのは簡単なのに、私と凛ちゃんの間にある溝は、きっと迷宮よりも深い。


「……紗那と私は友達なんだよね」

「――っ、うん、私はそう思ってるよ」

「……私には今まで、友達なんていなかった。欲しいとも思ったことなかった。私にとって紗那は、初めての友達」

「それは……うれしいな」

「紗那。私は紗那のこと、大事に思ってる」

「――――」


 凛ちゃんのその表情を、私は知らない。

 初めて見る表情。だけど、心が少し締め付けられた。

 ドラマや映画の中では、その表情のあとに続けられるのが、決まって別れの言葉だったから。


 次の言葉が、怖かった。


「だから、迷った。言うべきか、言わないべきか。誰にも言うつもりはなかった。だけど、紗那には伝える」

「――な、にを?」

「私が、迷宮に潜る理由」

「――――」


 私の予感は杞憂に終わった。

 ほっと胸を撫で下ろしたいところだ。

 だけど凛ちゃんのその表情――覚悟を決めた人の強い目が、私にそれを許さなかった。


 凛ちゃんが話そうとしてるのは、きっとそれくらい大きなことなのかもしれない。


「……少し長い話になる」


 気になる。

 凛ちゃんが迷宮に潜る理由。

 そして、それを私に伝える理由。

 今まで、伝えてこなかった理由。


 とにかく、今は少しでも凛ちゃんを知りたい。

 もっと知りたい。凛ちゃんを理解したい。

 だから、凛ちゃんの「それでもいい?」という言葉に、私は当然頷いた。



「……今から60年くらい前の話」


 そう前置きして、凛ちゃんは語り始めた。

 ――迷宮と魔術、その原初を。


「……日本に、迷宮ってものが産まれた。正体不明の物質で満ちた、当時の科学じゃ解明できない存在。まるで魔法のようなエネルギーを持つその物質を、誰かが『魔力』と名付けた」


 まるで魔法みたいだから、魔力。

 そんな単純な名づけ方でいいのかよ、とも思ったけど、でも確かに私たちが扱う力は魔力であり、魔術なのだ。

 私に言わせてみれば、名付け親の人はいい仕事をしてくれた。たぶん。


「彼らは迷宮を探索した。といっても、その頃の迷宮は今みたいに自由に出入りできなかったんだけど」

「じゃあ、彼らって?」

「防衛庁迷宮探索隊。臨時的に組まれた連隊だけが、迷宮の探索を許可された」


 それは、日本史の教科書の後ろの方に乗っている歴史だ。

 私にとっては生まれるより遥か昔の出来事。

 でも歴史にとって60年前というのは、あまりにも最新のニュースなのだ。


「……私のおじいちゃんも、その探索隊のひとりだった」


 だから、こんなこともありえるわけだ。

 原初とか、源流とか、起源とか、そんな言葉を使っちゃうとまるで神話級の大昔みたいに感じられるけど、こと迷宮や魔術の話においては、それはつまりたった60年前の出来事なのだから。


 思えば、凛ちゃんから家族の話を聞いたことはなかった。

 産まれた街がずっと遠くにあることは聞いていたけど、そこで何歳まで暮らしていたのか、なぜ今はひとりなのか、それはわからない。


 だから凛ちゃんから身内の話がでてくることは意外だったし、今になって気づいたことは、彼女はそれをあえて胸の内に隠していたということだ。


 だって、今の彼女の表情がとても悲しそうに見えたから。


「……紗那」


 ごくりと唾を飲みこんで次の話を待っていると、凛ちゃんが張り詰めた空気をふっとゆるめて、私の名前を呼んだ。


 一抹の息苦しさから開放された私は、すがるように応える。


「なあに?」

「……ごめん。この先の話は、紗那に聞かせるべきじゃないかも。やっぱり聞かなかったことにして」


 さっきの決意の目を伏せがちに、凛ちゃんは気まずそうな顔をした。

 

 きっと私のためにと下してくれた判断なのだけれど、どうにもそれが寂しくてしかたなかった。

 凛ちゃんの全てを知れないことが、私に全てを伝えてくれないことが、高慢にも悲しかった。


 もはや、私は聞きたかった。

 どうしても凛ちゃんを教えてほしかった。


 好きなんだ。

 やっぱり私は凛ちゃんのことが好きなんだ。


 好きは、理性なんかじゃ追いつけないんだ。


 溢れ出る想いは、わがままとなって口をつく。


「教えて。凛ちゃんのこと、知りたい」

「……だめ」

「おねがい、教えて」

「……やだ」


 気づけばイライラしてる自分に、ひどく驚いた。

 何様のつもりなんだろう。

 どの分際で、私は凛ちゃんに対して苛立っているのだろう。


 私って、こんなに腐っていたのだろうか。

 感情に身を任せて、好奇心を満たしたくて、嫌がる相手に食い下がって。

 ああ、でもそれは、あの時と同じか。


 手痛い思いをしたはずなのに、あの時と同じ失敗を、私はまた繰り返すのか。

 人を好きになるというのがこういうことなのだとしたら、人はひとりで生きていくべきなのかもしれない。


 あるいは、本当に私が腐っているだけかもしれないけど。


「おねがい」

「……だめ」

「おねがい、教えてよ」

「や……え、ちょっと、泣かないでよ」


 目を丸くした凛ちゃんを見て、頬を伝う涙に気づく。

 嘘だ。嫌だ。

 私、ここで泣いちゃったら、本当にダメな子じゃん。


 凛ちゃんを嫌がらせて、凛ちゃんを困らせて、そのあとはどうなる。

 凛ちゃんにやむなく折れさせて、私はそれで満足なのかな。

 そうやって凛ちゃんのことを知ったとして、その先になにがあるんだろう。


 頭ではわかってるのに、どうして涙が止まらないんだろう。


「わたし、凛ちゃんのことしりたい、よぅ……」

「……やだ」

「どうして、おしえてくれ、ないの……?」

「っ、私……」


 凛ちゃんの顔が歪んだ。

 それを見て、私の胸の奥が切り裂かれるように痛んだ。


 私は、私だけは、凛ちゃんにそんな顔をさせたくなかった。

 利己的で、醜いけれど、本音を言えば本当に、他の誰が凛ちゃんの顔を歪めようと、私だけは凛ちゃんを笑顔にさせる人でありたかった。


 もうやだ。

 もう、本当に、自分が嫌だ。


 ――ああ、だから私は泣いているのか。


 自分が自分を嫌いになっていくのがやるせなくて、私は涙を流すんだ。

 なんというマッチポンプ。笑えるほどに滑稽だ。


「――私、紗那に嫌われたくない」

「――――」


 そしてその言葉の意味を、私は理解できなかった。


 まずは、呆気に取られた。

 唐突すぎて、何を言っているのかわからなかった。


 そしてその言葉を咀嚼したとき、ぽかんとしてしまった。

 私が凛ちゃんを嫌う?

 ないない、ありえない。

 こんなに好きなのに、嫌いになんてなるはずない。


 だから、凛ちゃんがどんなつもりでそれを口にしたのか、私には理解できなかった。


 だけど凛ちゃんのその表情は、どこか見覚えがあった。

 感情的で、譲りたくなくて、不安に駆られて、ちょっと後ろめたくて。

 きっと今、手鏡を渡されたら、その中には同じ表情をした女がいるだろう。


 いや、鏡の向こう側に見える女の方が、よっぽど見るに堪えない顔をしているだろうけど。


「私、紗那に嫌われたくないから。だから言わない」

「……嫌わないよ」

「そんなの分からないじゃん。紗那は私と違って、ちゃんとした探索者だし」

「……嫌わないよ。ぜったい」

「だからそんな……っ」


 私の瞳を――いや、きっともっと奥を覗き込んで、凛ちゃんはまた目を丸くした。


 少し黙って、唇を噛んでから、凛ちゃんは再び口を開く。


「……本当に? 私がどんな話をしても嫌いにならない?」

「うん」

「本当の本当に? 絶対? 約束する?」

「うん。約束する」


 凛ちゃんはそれ以上聞いてくることなく、一度大きくため息を吐いてから、改めて私を覗き込んだ。

 そこから迷って、うんと迷って、すんごく迷ってから、ようやく凛ちゃんは話してくれた。


「……私の目的は、魔術の禁域に踏み入ること」


 ――彼女が迷宮に潜る、本当の理由を。

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