23.『あたたかなゆびさき』


 小さい頃、私は体調を崩しがちだった。

 虚弱体質ってほどでもなかったと思うけど、たとえばどこか遠くに遊びに行って、はしゃいで遊び疲れたあとは、決まって熱を出したものだ。


 両親はそんな私を心配してくれた。

 体調を崩すたびに病院に連れて行ってくれたし、あまいプリンを買ってくれた。

 今では製造が終わってしまったあのプリンの味を私はもう思い出せないけど、きっとあまかったんだと思う。


 そしてなによりお父さんとお母さんを独占できるのが嬉しかった。

 私が眠くなるまでずっと、トントンと胸を叩いてくれた。

 そのまままどろみに落ちていって、ふと目が覚めると、それでも隣にはお母さんがいて。


 ごくたまに、目が覚めると右にも左にも誰もいなくて、孤独と寒さに泣きそうになったこともあったけど、その時はぎゅっと目をつぶって無理やり意識を沈めれば、次に目を開けたときにはお父さんかお母さんが必ず隣にいてくれた。


 いつからだろう。

 熱が出ても隣に誰もいなくなったのは。


 そりゃ私はもう親に甘えるような歳でもないし、自分で生計を立てて一人暮らしをしている、立派な大人なんだけど。

 私個人に焦点を当てたとき、本当に立派になれているなんて自覚はない。

 いつだって私は、誰かに隣にいてほしいのだから。



 夢の中で、泣いている私に会った。

 その私は鏡で見るよりも小さくて、細くて、頼りなかった。


 おそるおそるその頭を撫でてみたら、私はいっそう声を大きくして、わあわあと泣いた。

 それに釣られるように、なぜだか大人の私も泣いた。


 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて――泣き疲れたころ、頬に伝う細い線を撫でるように、指先の温度が通り過ぎた。


 それは、ひどく温かかった。


「……起きた?」


 夢の中にゆっくりと現実が混ざっていく。

 目を開けると、目線の先には天井があった。


「……ぁぇ」


 そして、私をのぞき込む女の子と目が合う。


「りんぢゃ……なんだ幻覚か……」

「……はいはい」


 一応ここがまだ夢の世界だって可能性も考えて、そう口にしてみる。

 返ってきたのはぶっきらぼうな返答と、困ったように眉を動かす凛ちゃんの姿。


 ――どうやら、これは現実らしい。

 私の夢はまだ、ここまで精巧に凛ちゃんを再現できないもん。


 そう納得すると、同時に疑問がいくつも湧いてくる。

 そもそも、私の最後の記憶は迷宮の中だったはずだ。

 迷宮で、配信してて、それで、えっと。


「……わらし、どーなったの?」

「……迷宮で倒れたんだよ」

「うん、それはなんとなく自覚あるんだけど……」


 なんで私は知らない部屋のベッドで寝てて、目の前に凛ちゃんがいるんだ。

 全然意味がわからない。

 そもそもここどこ。


 病院じゃない。

 ホテル、ってわけでもなさそうだ。

 というか、よく見るとこの部屋には低いテーブルやかわいめのラックなんかが置いてあって、カーペットはもふもふだ。

 ある程度の生活感と、女の子的な趣味から、誰かのおうちにしか見えないんだけど。


 凛ちゃんのおうち……ではないな。

 この子は住所不定だ。


「……紗那がさ。配信をしてるって言ってたでしょ」

「え? あ、うん。そうだね」

「……だから最近、こっそり紗那の配信とか見てた」

「えっ!?」


 ここんとこの私は凛ちゃんに監視されてたらしい。

 いや、別に後ろめたいこととかないけどさ!

 ないけど、なんかすごい恥ずかしいな!


 あれ、というかさ。


「凛ぢゃんて、スマホとか持ってたの!?」

「……何に驚いてるの? ……配信を見る環境くらい、あるから」

「そ、そうなんだ……」


 住所不定、食糧難民の凛ちゃんだから、スマホなんて文明の利器はもってないものとばかり。

 そっかそっか。凛ちゃんも現代人だもんねぇ。

 

 え、じゃあなんで私たちは連絡先を交換してないわけ?


「……」

「……なんの顔?」

「……。ううん、ちょっとムスッとしたかっただけ……」

「……よく分からないけど」


 まぁいいや。

 とにかく、凛ちゃんは私の配信を見て、危機を察知して助けに来てくれたのか。

 あの迷宮を見て。

 あの、迷宮内の様子を……。


 え?

 私が配信に映してるのって迷宮内部だけだよ?

 なんで特定されてるわけ? こわ。

 迷宮の壁とか天井の模様ですべての迷宮が割り出せるのかな?

 リア凸し放題じゃん。こわ。


「なんで私のいる迷宮がわかったの?」

「……あの迷宮は潜ったことあるから。覚えてた」

「ほっ。よかった、凛ちゃんがまともじゃないだけか」

「……なんで私けなされてるの?」


 全然けなしてない。

 ただ、安心しただけだ。


 迷宮内部の様子だけですぐに特定して凸ってくる人は、凛ちゃんくらいしかいないみたいだから。


 でも、そっか。

 凛ちゃんはすぐに駆けつけてくれたんだね。

 その事実が嬉しくて、嬉しくて、ほんとうにもう、胸がいっぱいだ。


「あじがどねぇ……凛ぢゃん、きてくれてあじがどねぇ……私には凛ぢゃんだけだぁ……」

「……紗那に死んで欲しくないから。まぁただの風邪だったみたいだけど」

「う……ご心配とご迷惑をおかけしまして……」

「……いい。休んで。あと、紗那には私だけじゃないじゃん」

「ぇ、どゆこと――」


 尋ねる前に、ガチャリと部屋のドアノブが沈んだ。

 私と凛ちゃんの視線は自然とそっちに映る。


「あ、お目覚めですか! よかった……」

「――! 明莉さん!」


 心底ほっとしたように胸を撫で下ろす彼女の姿に、私は身を乗り出した。

 でもズキンと頭が痛くて、起き上がることはできない。


「あぁ! 無理しちゃダメですよ、紗那さん! はい、新しい氷枕持ってきましたから、頭ぐーっと持ち上げてください」

「ぐーっ……」

「えらいですねぇ、はい、もういいですよ」

「ふぅ……」


 ちめたい。頭痛も少し楽になった気がする。

 いやあ、私は幸せだね。

 こうやって看病してくれる人が2人も――じゃなくて。


「えっと、もしかしてここ、明莉さんのおうちですか?」

「はい、そうです。紗那さんをおんぶして連れてきちゃいました」

「お、重くなかったですか……?」

「……意外と私、力持ちなんですよ?」


 ぐっ。

 上手いこと話を逸らされた気がする。

 なんか最近体重が増えた気がするけど、それを察されるわけにはいなかいのだ。

 い、いや、まだ標準体重ですし?


 うん。まぁ、うん。

 話を変えようかな。


「私、どうして明莉さんのおうちに?」

「近場の迷宮に潜ろうとしたら、たまたま紗那さんを担いで出てくる方とすれ違ったんですよ」


 そう言って私から外した視線の先には、凛ちゃんがいた。


「……その人が紗那の知り合いだって言うから」

「幸いにも私の家から近かったですし、ひとまず紗那さんを休ませてあげませんかと提案させてもらって」


 それで、今に至ると。

 なんというかほんとに、私は恵まれている。


 いかにただの風邪とはいっても、迷宮の35層で意識を失ったらそのうち死ぬ。風邪とは関係ないところで死ぬ。

 無抵抗の人間なんて、魔物の格好の餌だ。

 もうバクバクむしゃむしゃいかれてしまう。

 その前に凛ちゃんがきてくれて、私は助けられた。


 で、いかに凛ちゃんがいても、彼女は住所不定だ。

 寒空の下で放置されたら死ぬ。凛ちゃんと2人で仲良く行き倒れだ。

 私を抱えて通りすがりの人に「あたたかいスープをくれませんか」と涙目で訴えかける凛ちゃん。気の毒なものを見る目を向けられながら、それでも救いの手は差し伸べられずに……。


 なんてことになる危機を、明莉さんが間一髪で回避してくれた。

 凛ちゃん様様、明莉さん様様だ。


「ふたりとも、あじがとお……」

「……また泣いてる」

「大事に至らなくてよかったです。あ、お腹すいてないですか?」

「おなかすいたぁ……」

「今から用意しますからね、待っててくださいね。食欲があってなによりです。はい、お水もしっかりとってください。あと、服脱いじゃいましょうか」

「うん、おみずのむ……ん?」


 ん?


 なんか変な言葉が聞こえた気がする。

 気のせい? 私の気のせいかな?


「はい、服脱いじゃいましょうね〜」

「ちょちょちょ、え!?」


 気のせいじゃなかった。

 私の身体に目がけて魔の手……明莉さんの手が伸びる。

 やばい、私の貞操が風前の灯だ!


 私は無我夢中で明莉さんの腕を掴み、押し出していた。


「な、なんで私脱ぐんですか!?」

「なんでって、汗かいてますし……身体も拭いて清潔にしないと風邪が悪化しちゃいますよぅ」

「ひ、ひとりでお風呂入りますから!」

「ダメですよ。風邪のひき始めは、お風呂はやめておいた方がいいんです。さ、脱ぎ脱ぎしちゃいましょうねぇ」

「ほんとに、ほんとにっ――ちょ、ちょっと!」


 このままだと本当に脱がされる!

 私は助け舟を求めて、静観している凛ちゃんに視線を飛ばす。

 彼女は私と目が合うと、ゆっくりとその口を開いた。


「……紗那。迷宮にはまだ未発見のウイルスが繁殖している可能性もある。しっかり清潔にしないと危険だから」

「裏切り者!」

「……なんで?」


 凛ちゃんは助けてくれなかった。

 そんなことを話しているうちに明莉さんは目の前まで迫っていている。

 ライオンにじわじわと追い詰められるウサギみたいに、私は必死に身を縮こまらせるしかなかった。


「あ、明莉さん」

「はい、なんでしょう」

「……変なこと、しないですよね?」

「するわけないじゃないですか」


 若干不服と言いたげに唇をとがらせる明莉さん。

 そうだ。明莉さんは看病してくれているのだ。

 考えすぎるな、考えすぎるな。


 これはただの看病。明莉さんのやさしさ。

 私はそれに甘えて綺麗にしてもらうだけ。

 これはただの看病。明莉さんのやさしさ――。



「もうお嫁にいけない……」


 私はもはや顔を手でふさぐしかなかった。

 一応、凛ちゃんには退室してもらったから、私のダメージは最小限に抑えられたといっていい。


 明莉さんは……うん。なにも言うまい。

 少なくとも、あれはただの看病だった。

 私の危惧していたことなんて、当たり前に何も起こらなかった。


 ただ単純に恥ずかしかったってだけで!


「じゃあ私、ご飯の準備してきますね。エアコンのリモコンは枕元にあるので、自由に温度設定してください」

「わかりました、ありがとうございます……」


 ふぅ。

 たしかにスッキリした気がする。

 身体のベタつきもなくなって、寝心地もいい。


 明莉さんのパジャマを借りてるから、服も布団も明莉さんの匂いだ。

 まるで全身が明莉さんに包まれているようで、もし明莉さんの子どもになったらこんな感じなんだろうなって思う。


「……なんか私、明莉さんの匂いを嗅ぐと危機を感じるようになってるな」


 条件反射ってやつだ。

 原因は……まぁうん、わからない。


「……紗那。熱は?」


 ガチャリとドアが開き、凛ちゃんが帰ってきた。

 と同時に、私の腋に挟まれた体温計が鳴った。


「38.9度……」

「……しっかり水分とって。ご飯食べたら薬も飲んで。あと、体調悪いのに迷宮に潜らないで」

「面目ない……」

「……元気になったら、一緒に迷宮潜るんでしょ」

「――! うん、もぐる!」


 凛ちゃんがお母さんみたいだ。


 正直、こんなに体調が悪化するとは思わなかった。

 祐人くんも忠告してくれたのになぁ。私ってば馬鹿だ。

 人の話はちゃんと聞いておくべきだよ。


「……」

「……」


 会話が途切れる。

 もともと凛ちゃんはおしゃべりが好きそうには見えないけど、そわそわする。

 なにか話したい。沈黙が気まずい。


「……ねぇ」

「凛ちゃ……」


 かぶった。

 私の話題は大したことがない……というか沈黙に耐えかねて「凛ちゃんってミートソースとボロネーゼの違い知ってる?」とか口走りそうだったので、ここは凛ちゃんに主導権を譲る。


 そして私は、主導権を明け渡したことを後悔した。


「……紗那ってさ。私のことどう思ってる?」

「――――」


 そんな質問、たとえ凛ちゃんがそういう意味で言ってなかったとしても、今の私には答えようがない命題なのだから。

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