21.『月野ちひろ』
鼓動が早い。
身体中がジクジクと熱を持って、今にも駆け出しそうな衝動に支配されている。
今の私の感情は、嬉しいとも、楽しいとも違う。
ただ小刻みに震え、視界はクリアに、吐く息の熱さは自分でも分かった。
そして、ああ、これが『勇気を出す』ということなんだなと、私は納得する。
「月野さん。あのね」
「――ちひろ、です。私の名前」
「――。ちひろちゃん。いじわるしてごめんね。でも私はね、ちひろちゃんに出会えてよかったって思ってるよ」
「どうして、ですか」
優しく私の名前を呼んで、その人は慈しむように笑った。
その姿を私は、ひだまりみたいだと思う。
暗く冷たい迷宮に落とされた、ひと房のひだまり。
私たちを照らして、温めて、癒してくれる。
あるいは、光芒だ。
先の見えない闇の中でもがいていた私に刺した、一筋の光。
優しく道を示して、標になってくれる。
そして今、そんな彼女は、どうしたって私が一番欲しい言葉をくれた。
「――ちひろちゃんは、これからもたくさん生きなきゃいけないから。自分自身の足で歩いて、決断して、進んでいかなきゃいけないから。その助けに少しでも私がなれたなら、そんなに光栄なことはないよ」
その瞬間、私は自分の感性を咎めることになる。
この人は、陽だまりでも光芒でもない。
それよりもっと遥かに大きく、眩しく、希望的な存在――まるで、太陽そのものだ。
彼女はきっと、太陽なのだと思う。
そんな彼女にどうしようもなく照らされた私は、人生も16年目になってようやく、生まれることができたのだ。
私は他人が当たり前にやっていることを避けてきた。
それは人付き合いであり、自己主張であり、自分の道を自分で決める勇気だ。
常に失敗した時のことを恐れて、リスクを避けて、小さく縮こまっていた。
「……生き方を変えるのって、難しいと思うんです」
「……そうだね。とっても、難しいと思う」
「だけど、私は生きなきゃいけないから。だから」
私に必要なのは、ほんの少しだけの勇気だ。
そしてそれは、この人がくれた。
「失敗も、反省も、後悔も、少しずつ慣れてみようと思います」
「――。えらい!」
その先に『平和』以上の何かがあるとするなら。
例えば、そう――『幸せ』があるとするのなら、失敗や反省や後悔をいくらしたところで、差し引きはプラスだ。
そうだとすれば、失敗や反省や後悔なんて、すればするだけお得ということ。
ただ、その瞬間に痛みがあるだけ。
ほんの少しの痛みを伴う、未来への投資だ。
そう考えれば、ワクチンと同じようなものかもしれない。
なんて、少し強引かもしれないけれど。
「――助けてくれて、ありがとうございました。私のことも、それから花田さんたちのことも」
「どういたしまして、ちひろちゃん!」
彼女は笑いながら、私の頭を撫でた。
■
かつて好きだった曲が大音量で鼓膜を揺さぶり、反射的に顔をしかめる。
なんだか眠りが浅かったような気がするが、朝のまどろみは不思議と一瞬で吹き飛んだ。
「夢……」
夢がぼんやりと現実に浸食する感覚は、今朝もまだ引きずっている。
どこまでが夢で、どこからが現実だっただろうか。
非現実の中で少しだけ成長できた気がしたけれど、あれも夢だったのか。
「……いや、そんなことないか」
枕元に飾られた緑青色の小さな魔玉が、あの迷宮の数時間が現実のものだと教えてくれる。
私は、日常に帰ってきたのだ。
「紗那さん。今日も学校、行ってきますね」
ガラス玉みたいに澄んだ魔玉を撫でて呟く。
これではまるで故人を偲んでいるようだから、どことなく不謹慎な気もしているが、これは私の願掛けなのだ。
まるでガラス玉みたいなこの魔玉を彼女が手渡してくれた時、お守りだと思ってね、と言っていたから、使い方としては間違ってないと思う。
歯を磨いて、ご飯を食べて、制服に着替えて、家を出る。
鏡の中の自分は昔と同じ顔をしていて、成長できたという自覚はない。
でも、そんなものなのだろう。
少しずつ、一歩ずつ。
目に見えないくらいに鈍足でも、確かに前に進んでさえいれば、昨日よりはマシな自分になれるのだから。
「おはよ」
「おはよー!」
教室の隅で、誰かと誰かが交わす挨拶をぼーっと聞いている。
これが私の日常であり、いつも通りの朝だ。
結局、何かが劇的に変わるようなことはなかった。
いつもと違うことがあったとすれば、精々ふたつ。
私と花田うららたちが迷宮に潜り、命からがら逃げ出したという噂が広まったこと。
影でヒソヒソと陰口じみた声があるのは知っているが、そんな人たちと私の間に直接的な関わりはないから、あまり気にはしていない。
それによってスクールカーストが地に落ちた――なんてことも当然ない。
もともと、私に地位は用意されていないのだ。
そしてもうひとつは、花田うららが私に関わらなくなったことだ。
花田うららはあれから、取り巻きたちの中でお山の大将をやっている。
あの人は最初から割と煙たがられていたらしいし、私というオモチャを失えば、関わる人間も内輪の中にしかいないということだろう。
「あ、ごめん、月野さん。そこの水筒取ってくれる?」
「……え、うん。これ?」
「そうそう、ありがとー」
不意に声をかけられることは増えた。
といってもそれは世間話にも満たない程度だが、それでも私にとっては新鮮だ。
花田うららのオモチャになっていた頃は、そういう会話すらほとんど発生しなかったのだから。
平和。
それは確かに叶えられた。
私にもたらされた新たな学校生活は、この上なく私の最初の望みを満たしてくれていると言える。
だけど、足りない。
足りないのだ。
もはや私は、平和だけでは満足できなくなってしまった。
そのためにほんの少しの痛みに耐える覚悟もしたけれど、残念ながら私のもとには、そんな些細なイベントすらも降ってこない。
平和を退屈と思ってしまう私は、やはり強欲だったのだろう。
何かひとつ。ただもうひとつ。
足りないものを探して、考えて、ようやく今日、ひとつの結論が生まれた。
「……あ」
そういえば私は、花田うららに謝ってもらっていない。
それに気づくと、腑に落ちた。
私はまだ、あの迷宮の中にいるのだ。
深すぎるくらい深い闇の中に、まだ取り残されているのだ。
このわだかまりを解してあげないと、私は前に進めない。
始められない。新しい人生を。
なら、どうすれば謝ってくれる?
ここに至るまで、花田うららは私に謝らないばかりか、一切声もかけてこなかった。
まるで最初から他人だったように、いないものと扱われていた。
最大のきっかけは、あのタイミングだった。
迷宮の中、紗那さんがいる時に、彼女の後ろから声をかければよかった。
あるいは、紗那さんに直接言ってもらえばよかった。
でも今ここに紗那さんはいない。
いなくてよかった、とすら思う。
紗那さんは私を再び立ち上がらせてくれたけど、いつまでも彼女の肩を借りながら歩いていては、自立してたったひとりで歩き出すこともできないから。
――私は私自身の力で、歩き出さなくてはいけない。
「花田さん」
気づけば私は、何度も通った席の前に立っていた。
今日の取り巻きは4人もいた。
それに加えて花田うらら。計5人の視線が刺さる。
私はたったひとりだ。
取り巻きのうち2人は険しい目付きをしていたけど、残りの3人は目を丸くして驚愕しているようだった。
まさか私から話しかけてくるとは思っていなかったのだろう。
しかし、そこは曲がりなりにもカリスマ性を持つ花田うらら。
すぐに持ち前の達観したような表情に戻り、口を開いた。
「月野さん。どうしたの? なにか用?」
あの迷宮の数時間が本当に夢だったんじゃないかと思えるくらい、白々しい態度で花田うららは言った。
さて、何を言うべきか。
何を言えば、私は前に歩けるだろうか。
一瞬のうちに考えて考えて、とにかく考えて――咄嗟に浮かんだのは、こんな言葉だった。
「迷宮は、小規模なものを含めて、全国に3000個以上あるって言われてる、らしいよ。未発見の迷宮も、まだまだ隠されてるって」
「――そう。それで、何の話?」
素っ気ない返事。
だけどその眉がピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。
「紗那さんが、もし潜るならなるべく管理が行き届いた迷宮を選んで、探索経験者も連れて行けって」
「ねぇ、本当に何の――」
「紗那さんは―― もう迷宮なんかに潜るなとは、言わなかった。ただ、潜るならしっかり準備を整えて行けって、そう言った」
「――――」
「花田さんは、ああやって無様に逃げ帰ってきて、恥ずかしく、ないの?」
「……あんた」
「私は、恥ずかしい。自分の無力さが、恥ずかしい。花田さんは、あれでいいんだ」
そして、花田うららの表情が変わった。
「……あんた、私を挑発してるの? いい度胸じゃん、月野さんのくせに!」
「ね、ねぇ、うらら。やめようよ、こんな奴の言ってること真に受ける必要ないよ……」
「……へぇ。逃げるの? 花田さんって、結構怖がり、だったんだ」
「――! 怖くないから! いいよ、行こうよ! 迷宮に行って、無様に泣き喚いてる月野さんの写真撮っちゃうからね! 後悔しないでよ!」
「迷宮で泣いてたのは、花田さんでしょ。あと、放課後とかはやめてよ。ちゃんと準備、してから」
「わかってるよ!」
それだけ言って、私は自分の席に戻る。
全身から汗が吹き出して、吐きそうなくらいに胃が熱い。
会話というのがこんなにしんどいものだったなんて、私は知らなかった。
会話、と表現するにはお互いに言葉が強かったけれど。
遠くのほうから「ほんとに信じられない!」とか「なんであんな奴にマジになってるの?」なんて言葉が聞こえてくるが、今の私にはどうでもいい。
正しいか正しくないかで言えば、もしかしたら正しくない行動かもしれない。
それに、迷宮に行くのは怖い。またあんな状況になったら、今度こそ助けは来ないだろう。
だけど、私にはこれしか思いつかなかった。
下手くそなのだ。人と関わった経験が不足しすぎていて、全ての行動が下手くそなのだ。
それでも、痛みを受け入れながら、たった数センチでも前進できた、と思う。
少なくとも花田うららとこのまま全く関わらなくなるよりは、遥かにマシな選択なのだから。
まぁ、それにしたって精神的負荷は計り知れないけれど。
念の為トイレに駆け込もうか迷うくらいだ。
「ねぇ、月野さん。さっきのなんだったの? すごかったね」
「……え?」
私が胃のむかつきと戦っていると、さっき話しかけてきた女子生徒が、再び私に話しかけてきた。
「水筒、の……」
「……ぷっ。水筒のって! 香耶だよ。篠原香耶。隣の席なのに、私のこと覚えてなかったの? ひっどーい」
「え、あ、ごめん……」
「いいよいいよ、それで、なんで花田さんに喧嘩売ったの? マジで笑いそうになっちゃったよ」
ニコニコと、嫌味のない笑顔で詮索してくるこの人は、ずっと隣の席にいたのだろう。
私は、この人の顔を見たことがなかった。
「……喧嘩売ったわけじゃ、えっと。あるの、かな?」
「いや、知らんって! あはは、なんで私に聞くの」
「え、あ、えっと、その……ごめん」
「謝るな謝るな! あはは、月野さんって、私に対してはそんな感じなんだ! なになに、花田さんだけに特効持ってるってこと? あはは!」
笑ってる人を前にすると、なんだか置いてけぼりにされてるような気持ちになる。
自分とは全然違う世界で、違うものを見ているんだなって。
私はそれが苦手なんだけど、どうしてかこの人――篠原さんの笑顔には、そう感じなかった。
見ていてこっちも笑いたくなるような、そんな不思議な感覚だ。
「……ふふ」
「え! 月野さんって笑うんだ! 初めて見た! オトク!」
「なにそれ、意味がわからない」
「え、なんで急に辛辣なの!?」
なんだか、両手を広げて走り出したい気分だ。
きっと、この感情を形容するなら『楽しい』とか『面白い』とか、そういう言葉になるのだろう。
ほんの少しの痛みを覚悟した見返りがこれだというのなら、なるほど、頑張る意味もあるというものだ。
まだまだ小さすぎる一歩だけれど、踏み出したことへのご褒美は、ちゃんとある。
少しずつ、一歩ずつ、歩いてみよう。
私の人生は、きっとどこを切り取っても売り物にならない。
生まれた時から平凡で、もしかしたら平凡よりも少し水準が低くて、出会う人出会う人に道ばたに落ちてる石ころ程度にしか認識してもらえたことはなかったのだろう、と思う。
でも、売り物になんてならなくていい。
私の人生は、これからの私が決める。
私だけの、特別な人生だ。
それに、売り物にしちゃうにはもったいないくらい、将来的に価値が上がる――かも、しれないから。
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