20.『アンド・モア』


「――大丈夫? 話せる?」

「ぁ……」


 そんな嗚咽に似た吐息が、私の返せる精一杯だった。

 人の世を生きる上では、愛想というものがある程度は必要らしい。

 私には荷が重いし、きっとそれがなかったから私の役割は定められてしまった。


 ともかく、愛想の欠片もないな、と自嘲する。

 

 本当に賢い人間だったら、なりふり構わずに助けを求めるだろう。

 暗い迷宮の中で不意に垂らされた一本の糸に、何がなんでもしがみつこうとするだろう。

 この幸運を逃せばきっと命はないと、本能が叫んでいるのだから。


 それなのに私は、自分の中に渦巻く感情に押され、返事すらままならなかった。

 

 この人の実力は分からないし、護衛なんて危険なことを頼んでも、きっと頷いてはもらえない可能性の方が高い。

 それでも、今この場で生を諦めつつある私よりかは、遥かに高い実力を持っていることに疑いようはなかった。


 無様を晒し、本気で願えば、生きる希望くらいは見出せるかもしれないのに。

 なのに私は、最後のチャンスすらもふいにするのだ。

 なんとも愚かだ。救いようがない。


 身体の震えも、まだ止まらなかった。



 人と目を合わせるのが苦手だ。

 そんな私の弱さのせいで、もう視線の先にいないあの人は、私を放って進んでしまっただろうか。

 勇気を絞って声をかければ、助けてくれただろうか。


 ――どうして私はいつも、全てが手遅れになってから後悔するのだろうか。

 最期の瞬間が自分の醜さに埋め尽くされるなんて、ああ、やはり私の人生は取るに足らないものだ。


 何も残せないまま、いや、そればかりか未来ある3人の命をこの手で奪って、私の人生は幕引きとなる。

 もしこれが映画だったら、つまらなかったと吐き捨ててレビューサイトに一つ星をつけてやるのに。


 ――違和感に気づいたのは、そうやって自分を見捨て果てていた時だった。


 無言で、ただ無言で、私の隣に座る誰かの気配に気付く。

 咄嗟に首を振り、その胸元を確認すると、さっき私に声をかけてくれた人だと分かる。


 私は焦った。

 身をよじり、距離を離した。


 ついさっき後悔したばかりなのに、今にも逃げ出そうとしてしまって、自分の頭が混乱していることに気付いた。


 自覚してしまえば少し落ち着いて、ゆっくりと隣に座るその人の様子を窺う。


 追いかけてはこない。

 声もかけてこない。

 勇気を出してその表情を確認してみたけれど、目すら合わない。


 私への興味を失ったのか、と落胆した。

 我ながら自分勝手だと思いながら、その人の視線の先が私を捉えていないことが、どうしようもなくもどかしかった。


 ――私はここにいるのに。

 声をかけて、見つけて、手を取って、救いあげて欲しいのに。

 私を肯定して、認めて、赦して、寄り添って欲しいのに。


 なんて、そう思える資格が私にあるだろうか。


 所詮、私も同じなのだ。

 自分勝手に私で遊んでいたあの3人と、何も変わらない。


 自分勝手で、醜くて、利己的で、わがままで。

 自分の中心には自分しかいない、そんな人間なのだ。


 なおさら自己嫌悪が強まって数分。

 再び、私は違和感に気付いた。


 どうしてこの人は、じっと座っているのだろう。

 例えば探索の小休止だったとして、それが私の隣である道理はなんだろう。


 私の足りない頭で考えたって、そんなのひとつしか理由はない。

 ――この人は、私のことを待ってくれているのだ。


 私が膝を抱えるのを辞め、自らの口で助けを求める瞬間を、ずっと待ってくれているのだ。


 それを理解すれば、私の頭は再び動き始める。

 まずはこの人に何を伝えるべきか。

 自分の置かれた状況。先に行ってしまった3人。

 私の戦闘能力。まずは声をかけてくれたことへのお礼。


 伝えなくてはいけないことは、数え切れないほどにあった。

 そして、その全てを伝え切ったら、きっと手を差し伸べてくれるだろう。

 自然とそう思えるだけの心強さが、この人にはあった。


 だから選択を間違えてはいけない。

 間違ってもこの人の機嫌を損ねてはいけない。


 それだけは確かで、それが上手く出来なかった時、今度こそ私の目の前に垂らされた糸はプツンと切れる。

 だから、だけど、なのに――。


「……私のせいで」


 考えて考えて考えすぎた時、私の口からこぼれたのは、そんな独りよがりな言い訳だった。


「――かえりたく、ないです」


 あまつさえ、それでもなお私に根気強く付き合ってくれたこの人に、見放されるような言葉を吐いた。

 ここまでくると、私が私を嫌うには十分すぎるほど、自分自身を擁護できる材料が何も無くなった。


 死ねばいいのに。

 私も、あの人たちも。


 そうだ、死ねばいいんだ。

 どうしてそんな簡単なことに気づかなかったんだろう。


 死んでしまえば何も残らない。

 何も残らないのなら、責任も負わなくていい。

 どうせ来世も輪廻も存在しないんだ。


 死んで、それで終わればいい。

 そうすれば、目の前のこの人も私を視界に入れなくて済む。

 死のう。帰りたくない。帰りたい。終わりたい。死にたい。終わりたくない。

 ――生きるのは、しんどい。


「――帰ろうよ、一緒に」


 ――それはどうしようもなく、私が一番欲しかった言葉だった。



 情けなく喚き散らして、私は溜めていた言葉をたくさん吐いた。

 きっと中学の3年間で喋った文字数より多く、この人に私の中身をぶちまけた。


 こんな中身のない私の言葉を、会話未満の一方的な言葉を、この人は何故だかずっと聞いてくれた。


 私は知らなかったんだけど、話をするというのは、思った以上に酸素を使うらしい。

 息が苦しくなって、口が回らなくなって、ぜえぜえと肺の空気を抜いた時、その人は笑った。


「疫病神じゃないよ。よくここまで頑張ったね」


 涙が出そうだった。

 散々垂れ流して枯れたと思っていた涙が、まだまだ元気に順番を待っていた。


 そして、その人はこう続けた。


「――じゃあ、ちょっと文句言いに行こっか」

「……え?」

「準備不足、連携放棄、パーティメンバーを置き去りにすること……ぜんぶ迷宮じゃご法度だって、しっかり伝えなきゃね」


 私の手を取り、その人は立ち上がる。


 言っている意味がよく分からなかったけれど、あの3人に会いに行くことになったのは分かった。

 必要なことだ。この人にとってはあの3人も、私の手を取ってくれたのと同じように、その手を差し伸べるべき相手なのだろうから。


 優しい人だと思いつつ、私はまだ怖かった。

 小学校の先生みたいに、喧嘩した二人を向かい合わせてお互いに「ごめんね」と言わせるような、そんな未来も想像した。


 私の心を察してか否か、それでもその人は進む。

 この手を引いて、迷わずに。


 時折現れる魔物を足を止めることすらなく処理しては、進む。


 この人は強かった。

「私についてくれば、1時間もしないうちにお日様の下だよ」という強気な言葉が、きっと嘘偽りないだろうことはすぐに理解した。


 それでも私たちの進む先は、お日様の下じゃない。

 むしろその逆の、下の階層だ。


「あのまま先に進んだなら、そろそろ次の階層に行ってると思うんだ」


 という言葉から、私の帰還は先延ばしとなった。

 正直なところ、あの3人が本当に死んでしまって、私だけが生き残ったら、私は毎夜眠れないだろう。

 頭の中では達観したようなことを考えてるフリをしても、本心から割り切ることなんて出来ていないのだから。

 

 そしてその不安をこの人が摘んでくれるというのなら、感謝してもしきれない。

 それはそれとしても、あの人たちとまた出会うのは怖いこと、なのだけれど。


「――あった。階段だよ」


 素人目から見ても、この人は相当に探索慣れしている。

 歩くたび、手元の紙切れにササッと地図が書き記されていく。

 こうすればハズレの道を選んでしまった時もすぐに迷わず引き返せるというわけだ。


「マッピングって言うんだけどね。情報の少ない迷宮では、自分で地図を描かないと迷っちゃうんだ」


 私たちは実力だけでなく、知恵も足りていなかったようだ。

 少し考えれば当たり前のことだけれど、迷宮じゃなくても、地図がなければ簡単に迷う。

 何から何まで準備不足。私たちがこうなるのは必然だったのかもしれない。


 そんなこんなで、次の階層へ続く階段はすぐに見つかった。

 この早さなら、あの3人にもすぐに追いつくだろう。

 なんと頼もしいことか。



 砂糖を煮詰めたような甘ったるい匂いが、狭い階段に充満している。

 足を一歩踏み出すことすら億劫にさせる強烈な臭気は、まさか獲物を釣るための餌ではあるまい。


「……しまった。ボスフロアか」


 私の手を引いて前を歩くその人の表情が少しだけ固くなった。

 聞けば、迷宮には数階層ごとに『ボス』と呼ばれる強大な魔物がいるらしい。

 その中でも特に手強い魔物がいる場所は、その階層が丸ごと『ボス』と戦うための大部屋になっていることもあるという。


「ちょっと派手に戦うかもだから、私のそばを離れないで」


 そして、ついに私たちの手は離れ離れになった。


 階段を駆け下りると、広がるのは石造りの大きな部屋。

 視覚が状況を判断するより先に、劈くような臭気が頭痛を引き起こした。


「ね、あの人たちがそう?」


 その人が指さした方には、蛇がいた。

 大きな蛇だ。時々ニュース番組で『ペットの巨大ヘビが脱走しました』なんて情報と映像を見かけることがあるけれど、あれが赤ちゃんに思えるくらいの大きさ。


 そんな途方もなく巨大な蛇が、灰色の煙を吐いて待ち構えている。


 そして次に視線を動かした先で見つけたのは、3人の人影だ。

 巨大蛇と向かい合って微動だにしない様子は、まるで立ちすくんでいるようだった。


「――花田、さん!」


 大きな声が出た。

 未だかつて出したことのないような、遠くまで自分の存在をアピールするための大声。


 見覚えのある3人がそれでも振り向かなかったのは、私の声が届いていないのか、あるいは別の理由か。


「バジリスクだ。ちょっと特殊個体かも」


 そう呟きながら、その人は右足に力を込めた。

 もはや私と目が合うこともなく、信じられない脚力で今にも飛び出そうという時、最後に私に言葉をくれた。


「――大丈夫。ぜったい助けるよ」


 私の返事を待たずに、その人はもうはるか遠くにいた。



 私がここまで使ってきたのは、魔術ではなかったのかもしれない。


 もともと皆無だった自信を、絞り滓すらも喪失させて余りあるほどの魔術は、確かにあの人が行使したものだ。


 フロア中を駆け回り、尾の薙ぎ払いを飛んで躱し、口から吐かれる灰を魔術で相殺する。

 その様子は人を超えていた。普通の人間が同じ動きをしようとすれば、背中にワイヤーが必要になるだろう。


「――【氷烈刃】」


 それでいて、蛇の不規則的な攻撃を全ていなしながら、彼女は反撃すらもこなしている。

 そういえば彼女は私に「そばから離れないで」と言っていたような気がするが、無茶だ。

 私にそんな動きができるのだったら、誰の手も借りることなく今頃無事に帰還していることだろう。


「……っ、あっ」


 見とれている場合じゃない。

 今の私がするべきことは、黙って隅で縮こまっていることなものか。


 彼女が戦ってくれている間に、私は私の出来ることをする。


「――花田、さん。大丈夫?」


 最初に見た場所と同じところで立ち続けている3人に、私は必死に駆け寄った。

 戦闘の邪魔になるかもしれない、とも思ったが、3人が4人になったところで大して変わらないはずだ。


 とにかくこの3人と一緒に、4人で安全なところへ隠れることが最善だろう。


 私の言葉であっても、あの3人も命は惜しいはず。

 素直に従うと高を括っての行動だったが、花田うららたちの反応は私の予想していたものと少し違った。


「花田、さん!」

「――月野さん!? ねぇ、動けないの! 里奈たちも動かなくなっちゃったの! どうにかしてよ!」


 正面に回り込んで、私は目を疑う。

 

 3人のうち真ん中の花田うららは、私の姿を視界に入れた瞬間にそう叫んだ。


 その両隣に立っている2人は、驚いた表情のまま、まるで写真に収められたように動きを止めている。

 喋ることも、逃げることも、息をすることもない。


 瞳からは輝きが失われ、まるで石のように固まって――いや、これは石そのものだ。


 2人は、石になっていた。


「……っ、花田、さん」

「ねぇ、早く! なんとかしてよ! 早くアイツ倒して、これ治してよ!」

「っ、魔物はあの人が戦ってくれてる、けど……」


 心臓が鳴り止まない。

 2人は死んだ、のか。


 やはり私のせいで、助けられず、死んだのか。

 そして花田うららにも、着実に『死』という魔の手は迫ってきていて――、


「――花田、さん」

「なに、なんなの!? いいから早く、あいつを――」

「腕、が」


 ほんの今まで生身に見えていた腕が、みるみるうちに灰に染まっていく。

 じわじわと蝕んでいって、今にも頭の先まで固まってしまうのではないかと、恐怖心に支配される。


「きゃぁあ! ねぇ、こういう時のためにあんたがいるんでしょ! 魔術でなんとかしてよ! 早く!」

「そんな、無理、だよ」


 焦り。焦り。焦り。

 どうにかしなくては。どうすればいい。

 考えても考えても答えは出なくて、己の無力さを嘆くしかなかった。


 そんな中、ある言葉を思い出した。


「……ぜったい」

「え!? なんなの、なんとかできるの!?」

「ぜったい、助けるって。あの人が言ってた」

「あの人って、戦ってる人!? 誰なの、あの人! もう時間ないよ! 早くなんとかしてよ!」

「……希望、だよ。私たちの、最後の希望」


 あの言葉は、私に向けられた言葉だった。

 だからって、つまりあれは『私だけを助ける』という意味だろうか。

 私にはどうにも、そうは思えなかった。


 あれだけの実力と観察眼を持ってる人だ。この魔物の正体も一目見て看破していた。

 なら、この状況を打開する知識を、あの人は持っているのではないだろうか。


 石になった2人まで綺麗に元通りにして、5人でお日様の下に帰れるのではないだろうか。


 ――もはやそう考えるしか、私の心を持たせる術はなかった。

 どこまでも他力本願で、楽観的な女だ、私は。


「――【氷晶六華】」


 肌を刺す寒さに、私の視線は未だ戦闘中と思われる彼女に奪われる。

 その瞬間、私はこの世界を永久凍土と見紛った。


 私と花田うららたちが立つ、ほんの数メートルの空白を除いて、床から壁、天井に至るまでの全てが凍りついていたのだ。


 そしてもちろん、彼女と相対していた蛇の魔物も例外ではなく、芯まで凍りついて崩れ散っていた。


 戦いは、あの人の完全勝利だった。


 私は咄嗟に花田うららを見る。

 魔物が死んだなら、そして私の予想が正しいなら、花田うららたちの石化は綺麗さっぱり解けているはずだ。


「……ねぇ、月野さん。私、戻らないよ? ねぇ! 動けない! なんで、なんで!」

「――――」


 単純すぎる私の考えを嘲笑うように、尚もじわじわと石化に蝕まれている花田うららの姿が、そこにはあった。


「ふぅー、ちょっと手こずっちゃった。お待たせしました」

「――っ、あの! みんな、石になっちゃって、その……!」


 ぐちゃぐちゃな私の内心とは裏腹に、軽いエクササイズをして汗を流したくらいの温度感で、彼女は戻ってくる。

 なぜそんなに余裕なのか。

 

 そりゃこの人は強いから石化なんかにかからないのかもしれないけど、今目の前に3人も命の危機に直面している人がいる。

 助けないと、終わってしまう。

 助けるって、言ったのに。


 それとも、もう手遅れだと判断されていたのだろうか。

 一目見たあの瞬間から、花田うららたちは助からないと、諦めて私の命だけを救おうと、そう考えていたのだろうか。


 もしそうなら、『ぜったい助ける』の意味も腑に落ちる。

 腑に落ちるけど、探索者というのはなんとドライで、人の命をなんとも思っていないのかとも思う。


「あ、はじめまして。氷坂紗那です。その子からお話は聞いてました」

「――助けてください! 助けてください! もう体が動かないんです!」

「あちゃー、もう首下まで石化しちゃったか。これは持ってあと3分かなぁ」

「――っ。お願いします! なんでもするので、助けてください! 死にたくない!」


 信じられないものを見ている気分だった。

 あれだけ優しくて、温かくて、私を助けてくれた人が、花田うららに対してはまるで何の感情も抱いていないようだったのだ。


 頼もしくもあると同時に、やはり強い探索者というのは、怖い存在だと強く思った。

 この人たちは、人が終わる瞬間に慣れすぎている。


「うーん。ね、どうしよっか?」

「――ぇ?」


 そして何故かその人は、私にそんなことを言った。

 どうしよっか。

 どういう意味だろう。


 どうするって、どうすることが出来ると言うのか。

 私はこんなにも、無力なのに。


「お願いします! 助けてください! 助けてください!」

「ごめん、ちょっと黙って」

「――っ」


 私も今日初めて体験したことだが、死の恐怖というのは計り知れない。

 まさに今、その感情に飲み込まれようとしている人間にかけるには、あまりに非情な反応だった。


 怖い。

 私は、この人が怖い。

 私の身に同じことが起こっても、花田うららのように簡単に見捨てられるのだ。


 私の内心を知ってか知らずか、それでもその人は私に言葉をかける。


「ね、どうする?」

「……どうする、ってなんですか」

「私、この人たちのこと治せるよ」

「――っ! 私のこと治せるんですか!? お願いします! 助けてください! 治してください!」

「うるさいなぁ。私、今この子と話してるんだけど。邪魔しないでくれる?」

「――――」


 どこまでも冷たい対応に、ついに花田うららは黙らされた。

 これ以上この人の機嫌を損ねたら、本気で見捨てられて永遠の闇に包まれるのだと、理解したのだろう。


 私はまだ、この人が怖かった。


「この人たちをどうするか、決める権利はあなたにあるよ。どうしよっか?」

「どうして、私に……」

「だって、この人たちに散々酷い思いをさせられたんでしょ? 大丈夫。ここは迷宮だし、この人たちを殺すのはバジリスクだよ。見捨てても罪にはならないもん」


 花田うららの顔色が、みるみるうちに青く染まっていく。

 たまらずに叫ぼうとして、でもそれさえもこの人の前じゃ許されなくて、ついには涙を浮かべていた。


 さっきまでは首下までだった石化も、今は顎まで差し掛かっている。


「うえぇ、うぇえ……」

「ありゃ、泣いちゃった」

「……っ。お願いします。この人たちを助けてください」

「――。ふぅん、本当にそれでいいの? 仕返しをするチャンスだよ?」

「……はい。いいです」


 正直、花田うららたちを許せるわけじゃない。

 でも、仕返しをしようなんて考えたこともなかった。


 なによりも、自分の選択で人が死ぬのは、嫌だ。

 ここで花田うららたちを助ければ、明日からも今日までと同じ生活が待っているだろう。

 ひょっとしたら、今日よりも酷い毎日が待っているかもしれない。


 それでも、人を殺すなんて選択、私にはできなかった。


「だってさ。よかったね、この子が優しくて。なんかこの子に言うことある?」

「うえぇ……ありがとう、月野さん……月野さんと友達でよかった……」

「……ううん。いいよ」


 そんな形式だけの会話を聞いたその人は、顎に手を当てて言った。

 

「……うーん。やっぱり助けるのやめようかなぁ」

「え……な、なんでですか!?」

「だってあなた、自分が助かることしか考えてないじゃん」


 私にはよく意味が分からなかったが、花田うららは図星をつかれたように固まった。

 私よりも花田うららとの付き合いが浅いこの人は、その心を丸裸にしていくように看破する。


「もう石化しちゃった隣の2人のこと、一度も気にしたそぶり見せなかったし」

「そ、それは……!」

「それにさ、あなた、本当に月野さんの友達なの? ね、月野さん。この子って友達?」


 友達。

 その言葉の定義は曖昧なものではあるが、私と花田うららの関係性を形容するなら、きっと『友達』ではないのだろう。


 だけど、それを言ってしまえば花田うららは見捨てられる。

 そして今度こそ本当に、それは私が花田うららを殺す選択になるのだ。


「その、人は……」

「うん。教えて?」

「その人は、と……」


 その瞬間、思い出した。

 私の頭を撫でる、この人の指の感触を。

 あの温かい、慈悲の塊みたいな声を。


 生きることを、生き方を、生きたいと願う心を諦めていた私に、それでもまた生きたいと思わせてくれたこの人への感謝を。


 だから私は、嘘がつけなかった。

 本当の気持ちを、ぶちまけてしまいたかった。


「友達じゃ、ないです……」

「――。そっか」

「――つ、月野さん!」

「と、友達じゃ、ないですけど……! それでも、その人たちを助けてくれませんか……!」


 一度認めてしまえば、溢れ出る心は止められなかった。

 何故だか私も涙が飛び出して、鼻水まで吹き出して、それでも止まらなかった。


 私と花田うららは友達じゃない。

 私は彼女に対して情なんて持ってないし、もし死んでも涙は出ないだろう。


 私は、『平和』だけを求めている。

 ――そう思い込むことで、どこまでも価値の薄い自分の人生に、言い訳をしたかったのだ。


『平和』だけなんて、嘘だ。

 本当はかわいいバッグも欲しいし、誕生日に一緒に遊園地へ行ってくれる友達も欲しいし、もっとマシなスクールカーストも欲しい。


 本当は欲望だらけなのに、私じゃ手に入らないから、諦めて妥協していただけだ。

 自分で選択をして前に進むのが怖いから、その時に後悔をしたくないから、他人に甘えて委ねていただけだ。


 だから、もし私が私自身の力で前に進めるのなら、まず最初に友達が欲しい。

 それは花田うららではないかもしれないけど、いや、まず間違いなく花田うららではないけど、ここで彼女を見捨ててしまったら、私はのうのうとそんな選択をできなくなる。


 ――私が私のために、自分の足で前に進むために。

 そのために、私は初めて選ぶのだ。

 自分自身の想いで、持っているはずの心で。


『平和』よりも沢山の『欲しいもの』を求めていいのなら。

 明日を楽しみに眠りに落ちることができるのなら。


 私は、向き合おう。歩き出そう。

 ここから始めるのだ。私の人生を。


 ――『役割』なんて、クソ喰らえだ。


「――助けてあげて、くれませんか」

「友達じゃないのに、嫌な目にあわされたのに、いいの?」

「私にとって、その人は、嫌な人ですけど……でも、死ぬ必要がある人じゃ、ないんです! 生きていれば、前に進めるから。生きてないと、ごめんなさいも聞けないから! だから、お願いします!」


 しばらく険しい顔をしていたその人は、急に耐えきれなくなったように吹き出して、いたずらに笑った。

 その表情は、あの小部屋で見たものと同じ温かさをしていて。


 その人は私の頭を優しく撫でて、言った。


「――よく頑張ったね。えらいえらい! すんごいえらい! うん、助けるよ」


 と。

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