18.『初めての迷宮は不信を添えて』
少なくとも拒絶の意思はない。
そう判断した私は、気長に待つことにした。
正面から右隣に座り直して、ただ黙って。
それはきっと奇怪な行動に映ったことだと思う。
その証拠に、この子は戸惑ったように体をずらし、ちょっとでも距離を置こうと身をよじった。
私はそれを追いかけるようなことはしなかったから、彼女の意思のままに数センチぶんの距離が空く。
あいもかわらず甘ったるい匂いが充満していて頭が痛くなりそうだったけど、今は何もないより、そんな横槍があった方がよさそうだ。
:制服JK!?
:ここ26層とかだよね
:そんな装備でよく潜ってこられたな
:制服型の魔製衣装っていう可能性
:こおりちゃん結婚しよう
目の端に映るコメント欄に苦笑いしつつ、隣に座る女の子のことを考える。
なんとなく見覚えのあるその制服は、この近くにある女子校のものだったような。
つまりコスプレの線はナシ。
いや、この子が現役女子高生じゃない可能性はまだ残されてるけど、見るからにまだ幼げだし、母校の制服を纏って探索する趣味、というわけではないだろう。
どちらにせよ、迷宮探索に適さない衣装でここまで潜っていることは事実だ。
この階層まで目立って強い魔物はいなかったにしろ、まだ発見されて日が浅く情報の少ない迷宮に潜るには、かなり無謀だといえる。
もしさっきの怒鳴り声の主も同じだったとしたら、この先の階層に進み続けることはできないだろう。
そうしているうちに、いつしか心の荒波がさざ波くらいまで落ち着いたらしいその子が、ぽつりと零した。
「……私のせいで」
「――――」
ちらと視線を送る。
目は合わなかったし、彼女はまだ膝を抱えていたから、私は返事することなく話を聞いた。
きっとこの子が求めているのは共感や励ましの言葉じゃなく、吐き出す言葉を受け止めてくれる防波堤だ。
「私のせいで、もう帰れないよ……」
それはまるで、罪を自供しているような、強い圧迫感と緊張を孕んだ物言いだった。
それでいてどこか自棄や諦念、微かな怒りも混じっていて、口元は皮肉げに歪んでいるものだから、自分自身に失笑が隠せないようにも見えた。
「――迷宮は初めて?」
「……はい」
「そっかそっか」
迷宮探索というのは、日常生活とは程遠いところにある。
出入りこそは気軽にできるものの、深く潜ろうとすればするほど、必要な知識や技術も多くなるものだ。
全く知らない世界に踏み込んで、右も左もわからないうちに死ぬ人もいる。
そりゃ、怖いってものだ。
だけど私には、ひとつだけ彼女の勘違いを訂正し、不安を取り除いてあげることができる。
たったひとつ。だけど、きっとこの子にとってなによりも大事なことだ。
「――大丈夫。帰れるよ」
「……どうしてそんなことが言えるんですか」
「だって、私がいるもん」
精いっぱい胸を張りながら、頼れるお姉さんを演出……したつもりで伝える。
その言葉を聞いたその子は、未だ影の差したままゆっくりとこっちを向いた。
「私がいるから大丈夫。一緒に帰ろ?」
「かえ、れるんですか」
「うん。私についてくれば、1時間もしないうちにお日様の下だよ」
「――――」
信じられないと言いたげに目を丸くして、その子は瞳を揺らす。
もちろんだけど私の言葉は強がりでもなんでもなくて、例えばこの子をおんぶしながらでも、危険から遠ざけてあっという間に駆け上がることができる。
私が特別怪力だとかムキムキだとか、そういうわけじゃない。念の為。
黄金色探索者ならそれくらいできないと困るもん。
だから、安心してくれて大丈夫だ。
大丈夫、なんだけど――、
「――かえりたく、ないです」
「――え?」
一抹の希望に触れた彼女は、それを突き放した。
口元を歪ませる少女。
その表情には再び影が落ちて、目も合わなくなった。
いや、帰らないわけにはいかないよ。
まさか迷宮に住むわけにもいかな……いや、住所が迷宮な人には1人だけ心当たりがあるけど、あれはかなり特殊なパターンだ。
私たちに私生活がある以上、いつかは必ず外に出なくちゃいけないんだから。
「私も、あの人たちも、ここで死んじゃえばいいんだ」
「いいわけないよ」
「だって、そうしたらもうあの教室にいかなくて済むから。死んじゃえば、全部終わりにできるから。私にとっては、それが一番いいんです」
「ううん、いいわけない」
「――。私にとっては、それが、一番いいんです! 私はもう、かえりたくありま――」
「――帰ろうよ、一緒に」
絶句して固まる少女。
何か言いたげで、でも言葉が出なくて、伝えたくて、それは涙の雫になってこぼれ落ちた。
最初は静かに流していた涙の、頬を伝う温度に彼女が気づいたとき、ついには決壊したようにわあわあと声をあげる。
私はしばらくそれを見つめていたけど、私がそうしたかったから、彼女の頭に手を伸ばしてその髪の感触を確かめた。
すると彼女はなおさら声をあげて、子どもみたいに泣きじゃくる。
みたい、じゃない。彼女は高校生。
まだ、私よりちょっとだけ子どもなのだ。
少しのあいだ、そのままゆっくりと時間が流れた。
■
「……私はきっと、あの人たちにとって邪魔なんです」
まだ涙は乾かないうちに、彼女は話してくれた。
「だから今日も、ほんとは来たくなくて。でも来ないと怒られるから」
「頑張ったんだね」
「……最初は、迷宮で私が死んじゃうのを期待してるのかなって思ったんですけど、でもあの人たちにそんな度胸はなかったみたいで」
いじめられてるってほどじゃないんですけど、と前置きして話し始めた。
学校で邪険に扱われていること。
無視とかはされてなくて、どちらかというとオモチャにされてるような感覚だということ。
嫌なことを嫌と言えなくて、でもたぶん『あの人たち』はそれをわかった上で無茶を言ってくること。
「迷宮に潜る話になったのも、私が臆病なのをいいことに、ちょっと怖がらせてやろうって話になってたみたいで」
嫌がらせで迷宮に潜るなんて、命知らずだ。
せめて慣れている人を1人は連れてこないと、たとえ低層だって本当に死んじゃうから。
「でもいざ迷宮に潜ってみたら、あの人たちの興味は私に向かなくなって」
「魔品、だね」
「……はい。これでバッグが買えるとか、気になってたイタリアンが食べれるとか、すっごい興奮してて」
聞くところによると無許可だし、どうやって換金するんだろう……なんて考える意味もないか。
ただ、お宝がザクザク出てくる感覚に囚われてしまったってだけ。
迷宮初心者にはありがちな話だ。
「……それでどんどん先に進んで、私は荷物を持たされて。気づいたら……」
「迷ってたんだ」
「……誰も帰る道なんて覚えてなかったんです。みんなイライラしちゃって、でも魔物は出てくるから」
見よう見まねの不完全な魔術で、なんとか戦闘はできていたらしい。
それでも、自分たちが少しずつ摩耗していること、そして死っていう結末が緩やかに現実味を帯び始めたことは、全員が気づいていたようだ。
「でも、あの人が言ったんです。魔物が私しか狙わないって。私が魔物を呼び寄せてるって。またいつもの難癖かと思ったけど、でも、本当だったんです。私だけが魔物に狙われて、あの人たちはそれに巻き込まれてるだけで」
「――――」
やっぱりか。そうだと思った。
私が先に行った3人をほっときながら、たっぷり時間を使ってこの子の前にしゃがみこんでいるのは、もちろんこの子を助けたいからというのが大きな理由だ。
だけど、付け加えるならもうひとつ。
先に行った3人の彼女たちは、私の到着が多少遅れても危険は少ないだろうと判断したからだ。
その根拠は、目の前の少女が纏う芳醇な魔力の気配から。
魔物っていうのは魔力濃度が高いものを優先的に狙う習性があって、純度の高い魔品を持っている人や、分厚い魔力を纏っている人なんかは格好の的になる。
だから、狙われるならこの子だろうと思った。
他の3人の魔力はしっかり感じられていないけど、まず間違いなくこの子より濃いことはない。
だってこの子が秘める魔術のセンスは、きっと私よりもすごいから。
「私のせいで魔物に襲われる……私のせいで、みんな死んじゃうんです。私はほんとに疫病神、だったんです」
魔力濃度の説明を、この子にするべきか否か。
うーん。しないべきだな。
いくら才能があっても今はまだ蕾ですらない、種の状態だ。
それを知ったことで事態が好転することは何もないし、変に楽観視もされない方がいい。
それに、この子はそれを知ったら迷宮を自分の居場所と見定めてしまいそうだ。
その生き方が悪いわけじゃないけど、視野は狭めない方がいい。
種が蕾に、蕾が花開くまでに、命を落とす可能性だって高いんだから。
どうせ今回は私がいる。
余計なことを吹き込むより、私が責任を持って送り届けることの方が大事だ。
だけど、そう。
どうせ私がいるんだから、少しだけおせっかいさせてもらおうかな。
このまま帰っても、きっとこの子はまた暗い顔をしてしまうだろうから。
「疫病神じゃないよ。よくここまで頑張ったね」
私の言葉に、彼女はまた泣きそうな顔をする。
そんな顔より、私はこの子の笑顔が見たい。
「――じゃあ、ちょっと文句言いに行こっか」
「……え?」
「準備不足、連携放棄、パーティメンバーを置き去りにすること……ぜんぶ迷宮じゃご法度だって、しっかり伝えなきゃね」
だから私は、いたずらを画策する子どもみたいに笑った。
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