17.『甘い匂いに誘われて』


 吊り橋効果という言葉がある。

 

『うわー! この吊り橋怖くてドキドキするよお!』という心理を、『うわー! ドキドキするってことは一緒に橋を渡ってるこの人のことが好きなんだ!』に変換しちゃうっていう、脳みそのバグである。


 いつかの私は、別にいいじゃん、と思っていた。

 恋のきっかけなんて千差万別、そういう形もアリじゃん、って。


 今の私は違う。

 今の私は、それって素敵なことだな、と思っている。


 それにはもちろん私の身を置く環境が関係していて、要するに今の私が吊り橋効果を得られる場所というのは、本気で命の危険が隣り合わせの迷宮くらいのものだからだ。


 死の瀬戸際ですらも恋を想って生きる意味を見出そうとするなんて、案外人間の脳みそもロマンチックじゃん、って。


 実際、迷宮内でカップルが成立することはよくある。

 颯爽と命を救ってくれた相手に心の全てを奪われてしまう、なんてのは自然なことなのかもしれない。


 迷宮カップルのうち半数が、探索中と私生活とのギャップに失望し、半年以内に破局していること。

 それから2割が1年以内に死別していることは、恋のロマンスの前じゃ誰も直視したがらないけど。


 ともかく、私もそんな俗物的な感性の持ち主のひとりだ。


 だけどそれは、あくまで傍観者の立場であることが条件。

 私自身が恋を求めるには、この傷は塞がりきっていないのだ。


 ついこの前、祐人くんに求婚されたときも、あれは困った。

 個人的な感情もそうだし、彼のためにも私なんかやめておいた方がいいと思う。


 もっと利己的な理由だけを述べるならば、それもいくつかある。

 例えば、私は他人に幻滅されたくない。


 私生活と迷宮内じゃ当然、人格も多少変わるし。

 あとは、『氷坂紗那』と『こおりちゃん』の人格もまた、私の中じゃちょっと別物なのだ。


 恋。

 このたった二文字に、どうして私たちはいつの時代も囚われるのだろうか。

 恋路の行く末はほとんどが別れだというのに、どうしてこうも繰り返すのだろうか。


 私は思う。

 人は、恋の痛みに耐えられるように創られていないのだと。

 

 否、恋に限った話じゃない。

 人の世には、あまりに痛みが多い。


 誰かに好かれ、愛情を注がれているうちは幸せだろう。

 でも、いつしか必ずすれ違い、幻滅され、目の前からいなくなってしまう。

 恋人も、友達も、家族だって。

 結局のところ、他人に寄りかかりすぎないのが一番賢い生き方だと私は感じている。


「……私ってば意外と、劣等感の塊なんだなぁ」


 なんて、月並みだ。

 明莉さんの言葉を借りるなら、私が悩んでることだって、きっと誰もが乗り越えてる。

 人の世の上で生きていくなら避けようがない、必要な痛みなんだ。


 ただ、傷の深さと、癒えるまでにかかる時間が人によって違うということ。

 そして、私の傷は自分で思う以上に深かったということ。

 それだけだ。


 それゆえに私が出した結論は――、


「……保留!」


 保留だ。

 こんな後暗い悩みなんていつだってできる。

 今は淡く芽生えたこの気持ちを、せめて大事に育てていこう。

 言葉になって漏れちゃいそうになるくらい育てたとき、この気持ちの正体にも気づけるはずだ。



「へぇー……うちの近所にこんな迷宮ができてたなんてねぇ」


 魔力の鮮度と壁や床の質から見るに、ここ数年のうちに発生したものらしい。

 今でこそ新しい迷宮が発見されることは少なくなったけど、それでも未だに増え続けているのだ。


:近所?

:おいやめろ住所ぶっぱだけはやめとけ

:みんな絶対に特定するなよ?

:こおりちゃんのプライバシーが風前の灯


「うん、結構深い迷宮だよ。これは探索しがいがありそう。まだ魔品もいっぱい残ってるかも」


:目が¥になってますよ

:欲望まみれのこおりちゃんかわいい

:天下の氷女王も金の力には勝てないか

:うーんこれは金の亡者


 久々のワクワクを胸に時間をかけて降りていく。

 もちろん魔動式エレベーターなんてものはないから、自分の足で1層ずつ。


 6層まで降りたところで、最初の魔物がお出ましになった。


「角兎か。やっぱり魔力濃いめの迷宮みたいだね」


 角兎。ツノの生えたウサギだ。

 ただし、その体長は大きいもので1メートル近くもなるし、そのツノは一突きで簡単に人間の命を奪う。


 そして一番やっかいなのが、こいつらは群れで行動するということ。

 1匹見たら100匹いると思え。

 角兎を見かけたら、その階層には角兎しか存在しない。

 なんてのは、よく聞く話である。


 だけど幸いにも、今は1匹しか見当たらないから、戦いやすそうだ。


 狭い通路。一直線で、避けられる隙間はギリギリ確保できるくらい。

 角兎に捕捉された私は、即座に回避の準備をする。


「――――」


 助走さえあれば時速100キロで走れる角兎も、この狭い通路ではその半分も出せない。

 私は角兎が駆け出した瞬間、身を翻して突進をかわす。


 すれ違いざまに、私は右手に魔力を込めた。


「――【氷烈刃】」


 角兎が全力ダッシュしても逃げられない速さで襲う氷の刃が、その身を綺麗に二分する。

 薄く通り抜ける刃は傷口さえも瞬時に凍てつかせ、その場には血の一滴もこぼれない。


 歩く道が汚れなくて済むから、やっぱり氷魔術は便利だ。

 群れとの戦闘中に血で滑ったり、張り付いたり、踏み込みづらくなったりしないのは探索じゃかなりの利点といえる。


「じゃあ、とりあえずこの階層の角兎を殲滅して……お宝探しかなっ」


:ひえっ……

:血も涙もないとはこの事か

:角兎殲滅って何時間かかるんだ

:今日の配信ウサギ狩りで終わらせるつもりかな?

:てか真っ二つにしたのに血が流れないのって氷魔術じゃ普通なの?

:そもそも氷烈刃で角兎を真っ二つにできるのが普通じゃない

:氷魔術は派手すぎるか地味すぎるかの2択で探索向きじゃないってのが常識だったもんな

:氷魔術をここまで探索に最適化したのはこおりちゃんの功績


 小一時間で殲滅は完了。

 ひとつひとつの部屋を巡って、しらみつぶしに魔品を探す。

 めぼしいものはなかったけれど、多少のお小遣いにはなるはずだし、使えそうなものはポケットに詰め込んだ。

 

 特にこの緑青色の魔玉は、磨けば凛ちゃんによく似合うだろう。

 そう、凛ちゃんなら……はっ。

 え、私ってば、もう無意識に凛ちゃんのことを考えることが習慣になりつつあるの!?


 妙な気恥ずかしさに、私は顔を手で覆った。


:え、なに!?

:始まった、こおりちゃんの奇行

:〜こおりちゃんロード中〜

:ここ1週間くらいこんな感じなんだよな

:恋でもしたんじゃね


 目ざといコメントが流れ、私はひゅっと喉を鳴らす。

 それはきっと軽口とか冗談とか、あるいはネタとか呼ばれる類のコメントなんだと思う。

 少なくとも本気で言ってるわけではないだろうけど、それにしたって図星を突かれた気になる。


 でもそのコメントに反応したらそれこそ図星だと暴露するようなものだし、見なかったことにしよう。



 1層、また1層と降りていって、20層を少し過ぎたくらい。

 そこでようやく、自分以外の探索者が残したであろう痕跡を見つけた。


「足跡と、魔力の残滓……はぁ、どうりで魔品が少ないと思った」


 ここまでまるで痕跡がなかったのを見るに、かなり前から潜っている人たちのようだ。

 迷宮は生きている。足跡くらいの痕跡なら簡単に消してしまうから、未だに残ってる足跡はここ数日のものだろう。


「まったく、いつから潜ってるんだか……」


 大きさの違う足跡が、3つか4つか……とにかく複数人のものだ。

 規則的に並んでいるから、きっとパーティで探索している人たちだろう。


「……まぁ、たぶん深層まである迷宮だし。無駄足ってことはないか」


 もし先に探索されていたとしても、迷宮の中にはたった数人じゃとても持って帰れないくらいの魔品が眠っているものだ。

 

 それが深層ともなればひとしおで、超豪運の持ち主の中には1回の探索でマンションを買った人もいるらしい。

 なんでもこぶし大の魔玉が出土したとか。羨ましい。


「まぁ、今となっちゃ夢のまた夢だろうなぁ……」


 大きい魔玉は掘りつくされちゃったし。

 そのサイズまで魔玉が育つには数十年かかるし。

 当時と比べてレートも下がってるし。

 換金の時に取られる手数料も増えたし。

 世知辛い世の中だ……。



 さらにそこから何層か降りたところで、鼻腔をくすぐる甘い香りに気づいた。

 微かにしか感じられないけど、ついさっきまでの階層にはなかったもの。


「……探索者さんのおやつタイム、ってわけじゃないだろうね」


 なら、迷宮内で匂いを放つものなんて、ひとつしかない。

 魔物だ。

 私の中に、ふたつの選択肢が浮かぶ。


 ひとつ。

 匂いを避け、速やかに次の階層へ向かう。


 ふたつ。

 匂いの発生源を調べ、対処する。


「正直、無策で突っ込みたくはないんだけど……」


 ちらとコメント欄を見やる。

 楽観的な言葉や、戦闘を期待する声が目立っていた。

 やるしかないか。『狂戮』でもない限りこの階層で命が脅かされることはまずないんだけど、でももし危険だったらすぐに逃げよう。

 

 気を引き締めつつ、それが私の仕事だからと気持ちを割り切る。

 匂いをたどり、私はゆっくりと歩き始めた。


 しばらくして、いくつかの部屋を越えたとき。

 誰かの言い争う声が――いや、一方的に怒鳴りつける声が聞こえた。


「――あんたのせいでしょ、この疫病神! 死ぬんなら、あんただけ死んでよ!」


 それは身も震えるほどの怒りを孕んだ声で、とても尋常ではなかった。

 私が聞き取れたのはそこまでだったけど、つまり『死』がよぎる程度には切迫しているということ。


 周囲の警戒は怠らず、だけど足は早く、私はまっすぐ声の方向に向かう。

 怒鳴り声とはいえ声は近かった。そんなに離れてはいないはずだ。

 全力で追いつこうと思えば、見失うことなく追いつけるだろう。

 

 なんて思っていたら、ひとつ先の部屋にその子は膝を抱えて座り込んでいた。

 狭い部屋にひとり。怒鳴り声の主ではないようだ。

 この場所に魔物の姿はなく、ひとまずは安全そうだったから、私は胸を撫で下ろしてその子の前にしゃがむ。


「どうしたの?」


 声をかけながら観察したところ、外傷は特にない。

 目は充血していて、腫れぼったくなっているけど、殴打痕とは違う。

 

 それよりも気になるのは服装だ。

 どう考えても探索に向いていない格好。

 ブレザーの下にブラウスを、そして綺麗な細い足を露出させるスカートを着用していて、とても魔物と戦える衣装には思えない。


 というか、高校の制服だコレ。


「大丈夫? 話せる?」

「ぁ……」


 か細い返事は、身体というよりは精神の摩耗が原因だと思う。

 さっきの怒鳴り声だったり、甘い香りの正体だったり、この子の服装のことだったり、聞きたいことは山ほどある。

 けど、それはまだ後回しの方がよさそうだ。

 

 ともかく、私を見つめるその子の瞳は、怯えているような、縋るものを見つけたような、そんな曖昧な色をしていた。

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