16.『この感情は知っている』


 恋愛映画。

 世の中の男女が夢見るドラマティックな恋物語をたった2時間にパッケージした、お手軽な非日常のことだ。


 正直に言えば、私は恋愛映画が得意ではない。

 いや、得意ではなくなった。


 中学生とか高校生くらいの頃はよく映画館に足を運び、あるいは円盤化されたものを買い、友達と感想を言い合ったりもしたものだ。


 オトナになればこんな恋が待っているのかと、乙女心をくすぐられたこともある。


 そんなものは所詮スクリーンの向こう側でしかないと気づいたのは、それからたった数年後のことだったけど。


 そんなこんなで足が遠のいていた映画館にふたたび赴いたとき、結局私がチョイスするのがそんな映画になってしまうのは、きっと学ばないからだ。

 人間というものは、なんて大それたことは言えないから、この場合は私というものは、になる。


 凛ちゃんはどうだろうか。

 彼女は恋愛映画が好きだろうか。

 好きだとして、もしくは好きじゃないとして、それはどうしてなのだろうか。

 いや、そもそも、彼女は映画自体を観る習慣があるのだろうか。


 アクション、SF、コメディ、ホラー、ミステリー、ミュージカル。

 数ある映画の中で、彼女にとって恋愛映画とはどんな位置づけなのだろうか。

 私と同じように、苦手意識があったりするのだろうか。

 

 ――なぜ、私はこんなにも、彼女のことが気になるのだろうか。



 映画はつまらなかった。


 よくある設定とよく聞くセリフの連続で、展開の持っていき方も強引。

 

 最後に主人公が死んじゃうお涙頂戴展開も唐突すぎて置いてけぼりになったし、死に際に5分も10分も喋りつづけ、感動的なセリフを詰め込めるだけ詰め込んでから逝ったのも茶番にしか思えなかった。

 私は人が死ぬ瞬間の呆気なさを知ってるから、余計に。


 そして、私がかつて年間何十本も恋愛映画を観ていたことを思い出し、この空虚な感情もそのせいか、と納得する。


 エンドロールが終わって、劇場が明るくなったとき、私は若干の申し訳なさを抱えながら隣に向き直った。

 

 あんまり面白くなかったね。直接的すぎる。

 もっと面白い映画を知ってるよ。鼻につく。

 かける言葉に迷いながら、なかなか絡まない視線に不自然さを感じていたら、しばらくして彼女の瞳の色に気づいた。


「――――」


 瞳はとても美しい色をしていた。

 スクリーンの光の粒を反射して、エンドロールの余韻が残滓となって彼女の感情を揺さぶる。

 

 少し潤んだ瞳は、決して悲しいせいじゃない。

 もっとあたたかくて、優しい感情だ。


 あぁ、彼女は気づいているのだろうか。

 自分が今、どんな顔をしているのか。


 見て見ぬふり、知らないふりはできなかった。

 その顔を向けられるのが私でなくスクリーンであることに、行き場のない嫉妬心を覚える自分を。


 ――どうやら私は、凛ちゃんにそんな顔をさせたかったらしい。



「……今日は楽しかった」

「――――」


 すっかり空は暗くなったけど、お店や街灯に照らされた道は明るかった。

 冬の匂いからも逃げられなくなってきたレンガ道をふたりで歩いているとき、凛ちゃんが呟く。


「……紗那のおかげで、色々知らない世界を知れた」


 その言葉にはちょっと含みが感じられた。

 映画のあとに行ったカラオケが原因だと思う。


 案の定、凛ちゃんはカラオケに行ったことがないというから、私は喜んで連れていった。

 思えば、映画や美容室以上に凛ちゃんの気が進んでなかったように思うけど、その理由はすぐにわかった。


 凛ちゃんはとんでもない音痴だった。

 いや、クソ音痴だった。


 私も歌があまり上手じゃなくて、採点バーが出ていないとうまく音が取れないから、採点機能をオンにしていたんだけど。

 採点のヤツがあまりにも凛ちゃんに失礼なもんだから、アイツは途中でクビにした。

 自業自得だ。世の中には忖度って言葉もある。


 その結果、解き放たれた凛ちゃんはまさにモンスターだった。


「またカラオケ行こうね」

「……絶っ対に嫌」


 ともあれ、自覚はあるらしい。

 彼女はきっと、もうカラオケには行かないだろう。


 でも、私は楽しかった。

 今日という日は、きっと楽しかった。


「――那」


 あぁ、それにしても寒いな。

 まだ冬は遠いと高を括ってたよ。

 もう少し着込んでくればよかったな。


 そうすれば、この震える寒さも、もう少し――。


「――紗那!」

「――っ」


 ぽすん。

 柔らかいものにぶつかる。

 やば、私、前向いてなかったよ。

 誰かにぶつかっちゃったみたい。


 と思ったら、ぶつかったのはいつの間にか正面で立ち塞がっていた凛ちゃんだった。

 なんぞ?


「凛ちゃん? どしたの、急に」

「……どうしたのじゃない。紗那、ぼーっとしすぎ」

「そうかなあ?」


 たしかに考え事は多かったかもだけど。

 ぼーっとしてたわけじゃ、ないよ?

 ちゃんと頭の中はフル回転なんだから。


 たぶん……。


「……なんか今日の紗那、途中からおかしかった」

「え?」

「……変に大人しかったっていうか。最初暴れてたから余計に」

「……そっか」


 途中から、と言うのなら、きっと映画のあとからを指すのだろう。

 自覚があるとすればそこなのだから。


 だとしても、凛ちゃんに気づかれるほど表に出していたつもりはない。

 カラオケでははしゃいだし、その後の夕食ではもりもり食べた。


 ――私の感情の機微に気づいてくれるなんて、凛ちゃんは私のことをよく見てくれてるんだね。

 なんて、口には出せない。


「……もう! 紗那はしかたない人」

「えっ、あっ」


 しばらく私を見つめたのち、凛ちゃんは強く私の右手を握った。

 そのまま手を引かれ、ずいずいと歩く凛ちゃんに、私は呆気に取られながら引きずられていく。


 いくつかお店の明かりを横目に通り過ぎて、しばらく歩いたとき、凛ちゃんは唐突に歩く方向を変える。

 されるがままにドアを潜り、階段をのぼり、さらにもうひとつドアを潜ったところで、この場所がどこなのか気づく。


「いらっしゃいませ。会員証はお持ちですか?」

「……ないです」

「非会員だと料金が変わってしまうんですが……」

「……それでいいです。2人で、2時間」


 凛ちゃんと店員さんの会話に割り込む間もなく、彼女は受付を済ませ、用意された部屋に向かう。

 防音の分厚いドアが閉められた瞬間、彼女は振り向いて言った。


「……言っておくけど、私のなけなしの全財産だから」

「え、そんな、私が払うよ」

「……いい。紗那にはいっぱいお世話になった」


 カラオケだった。

 さっき訪れた店舗とは違うけど、十分楽しんで、凛ちゃんがもう二度とこないと誓った場所。

 そこに、なぜだか私たちはまた来ていた。


「……私は歌わないから。話するのに丁度よかっただけ」

「話、って……?」

「……帰りたくないんでしょ。顔にそう書いてあるから」

「あ……」


 この子はどこまで私の感情を見透かすんだろう。

 少しだけ怖くなったけど、帰りたくない理由まではどうやらわからないみたいだった。


「……何かあったの?」

「うん、えっと、そうだね……」

「……話したくないなら話さなくていい。歌いたいなら歌えばいい。話したいなら、私に話せばいい」

「――――」

「だって私たち、友達なんでしょ」


 ――あぁもう。

 この子は、本当に、私の心をこうも簡単に掻き回す。

 そして私は本当に、単純で複雑でどうしようもない。

 あっという間に、ドキドキさせられているんだから。


「……私には紗那の考えてる事は分からないけど」

「うん」

「……私は紗那に言いたかったことがあるよ。私は喋るのが下手だから、色々言おうとしても伝わらないから、一言だけ」

「――なに?」


 頭がぐるぐるする。

 いいこと、悪いこと、悲しいこと、嬉しいこと。

 凛ちゃんが次に口にする言葉を色々想像して、どれも正解のようで、どれも間違ってるようで。

 どうにも私は、弱くなってしまったらしい。


 そんな私の馬鹿な葛藤は、本当にたった一言だった彼女の言葉に、ぜんぶ吹き飛ばされることになる。

 

「――ありがとう」

「――――」


 涙が出てきた。

 どうしてかわからないけど、ぐちゃぐちゃの気持ちが溢れだして、小さなしずくになってとめどなく零れた。


 そんな私を見た凛ちゃんは、ギョッとして固まる。


「え……紗那、どうしたの?」

「ううん、あのね、ぶえぇ」

「大丈夫だから、落ち着いて」


 鼻水も出てきた。きたない。

 ほんの数日前、凛ちゃんによる私の『ありがとう』への返答に思ったことを、今は自分自身にぶつけたい思いだ。


 頭は回ってるつもりでも感情は止まらなくて、しばらくそのまま泣いた。

 私の肩に遠慮がちに置かれた凛ちゃんの小さな手が、今は涙を止めさせなかった。



 冷静になってみれば、私の情緒はやばい。

 凛ちゃん視点だと特にやばいと思う。


 いきなり無茶ぶりしてきたかと思えば、楽しむだけ楽しんで大号泣する女。それが私だ。

 いくらなんでも感情に身を任せすぎなんじゃなかろうか。


 ともかく、少しだけマシに頭が回るようになって、気づけば私は凛ちゃんの上にいた。

 いや、少し言葉が足りないかな。

 私の頭は、凛ちゃんの膝の上にあった。


「……あのさ」

「うん、なに?」


 目を開けると、私を見下ろす凛ちゃんと目が合う。

 彼女は珍しく、苦笑いをしているようだった。

 

「……いや、紗那が落ち着くなら別にいいんだけど」

「おかげさまで落ち着いております」

「……まぁ、ならいいか」


 もちろん私のリクエストだ。

 気持ち悪いかな、引かれちゃうかなと思いつつも一応申し出てみた。

 今の私だったらまず間違いなく言えないから、これも冷静さを欠いていた私の所業だ。


 ちなみに、こうして後頭部で感じてみると、やっぱり凛ちゃんはだいぶ細い。

 どこからあのエネルギーが出てるんだってくらい、悔しくなるくらい、ちっちゃくて細いのだ。


 改めて、どうしたってやっぱり凛ちゃんは女の子なのだと思った。


「……そろそろ足痛くなってきたんだけど」

「承知いたしましたっ」


 私は即座に起き上がった。

 凛ちゃんを困らせてはいけない。

 名残惜しくも、引き際はここなのだ。


「……紗那って不思議。急にああなったと思ったら、すぐにまた普通の紗那に戻ってる」

「そう、かな?」

「……紗那が何に悩んでるのか、気になるところではあるんだけど」

「――――」


 それは、私からしたら嬉しい言葉だ。

 知ろうとしてくれるっていうのは、つまり私ともっと関わりたいと思ってくれてるということだから。

 でも、ダメだ。言えない。


「ごめんね。言えないんだ」

「……別にいい。言いたくないことくらい誰にでもあるから。でも」

「でも?」

「……いつか教えてくれたら、嬉しい」

「――――」


 やばい。

 ――やばいやばいやばいやばい、この子!

 落ち着いていた気持ちがまた溢れそうになって、でも今度は涙じゃなくて、もっと形容しがたい大きな気持ち。


 私はいてもたってもいられなくなって、つい声を大きくしていた。


「ねぇ、凛ちゃん!」

「……なに?」

「その、お願いがあるんだけど……」


 そこまで口にして、自分の言おうとしていることの無謀さに気づく。

 それはかつて明莉さんに言われたことであり、私が断ったお願いと同じだったから。

 でももはや口は止まらなくて、快諾された時の幸せを空想して、どうにでもなれって感じ。


「私と一緒に、迷宮に潜ってくれないかな……?」

「……いいけど」


 そんな簡単に頷いてくれるとは思えなかったから、その空想を現実のものにするにはかなりのゴリ押しが必要かと感じていた。

 のに。


 彼女が間髪入れずに答えた言葉は、私には快諾に聞こえた。


「……え? いいの?」

「……紗那なら足を引っ張ることもないだろうし」

「いやいやいや、凛ちゃんと比べたら私なんて……」

「……紗那がいなかったら私は今頃瓦礫の下敷きでしょ。っていうか、紗那から誘っておいてなんでそっちが食い下がってるの?」

「いや、え? あ、たしかに」


 そして本当に了承してくれたんだと自覚したとき、胸はもっといっぱいになった。

 言いようのない感情に包まれていると、私のスマホが光る。

 何の気なしに持ち上げてみると、そこには知ってる名前があった。

 

「あ、明莉さんだ」

「……誰?」

「この前知り合った女の人だよ。仕事、無事に辞められたのかな……あ! え! 明莉さん、配信始めるんだ!」


 数行のメッセージには、近況の報告と、私への感謝の言葉、そして今度の土曜日にライセンスを取る予定であること、無事に取得できたらその足で迷宮に向かい、配信を始めることが綴られていた。


 明莉さんはすごいや。

 心を決めたらすぐに行動して、あっという間に進む道を定めてしまうんだから。


「凛ちゃん!」

「……なに?」

「生きるって、すごいね!」

「……。まぁ、そうかもね」


 多幸感を胸に、私はそう笑った。



「ふー……」


 ベッドに倒れ込む。

 今日は本当に心が休まらなかった。

 楽しかったし、幸せでもあった。


 でも、途中からは手放しに楽しめなくなった。

 きっかけは映画のあと、凛ちゃんのあの表情を見たことだ。


 あれを見て私は、もやもやと巣食っていた気持ちの正体に気づいてしまった。


 凛ちゃんと出会ってから、いや、きっと出会う前から、ずっと薄く張っていた心理に。


 おかしいとは思っていた。

 なんだか最近変だな、とはうっすら感じていた。

 まさか、なんてチラついた瞬間もあったかもしれない。


 でも、自覚した。気づいてしまった。

 理解してしまえば、もう避けようはなかった。


 この感情は知っている。

 知っているからこそ、自覚した時には痛かった。

 もう繰り返さないと、他の生き方を見つけると、そう誓って迷宮に潜ったのだから。


 結局、避けられないのだろうか。

 人間として生を受け、人間として生きる以上、どうしようもない摂理なのだろうか。

 だからこそ、人は恋愛映画を見るのだろうか。


 私は単純だ。

 単純で、馬鹿だ。


 あれだけ重かった心を、切なかった感情を、彼女の言葉ひとつで吹き飛ばしてしまえるくらいには。


「いやいや、このドキドキはあくまでも感謝とかのアレだから!」


 なんて言えたら、楽だっただろう。

 でも、もう遅い。

 自覚してしまった以上、そんな誤魔化しに意味はない。

 余計に苦しくなって、切なくなるだけだ。


 認めよう。

 自分のために、認めてあげよう。


 ――私は、凛ちゃんが好きだ。

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