稜の先(そばのさき)

@Ichor

***

 三十歳になった記念に、山に登ろうと思った。

 どこの山でもよかったけど、少しきついのに登りたいと思った。とは言っても、自分には、ほとんど登山の経験がなかった。子供の頃から、家族旅行は海方面ばかりだった。たぶん、両親が〝海派〟だったからだろう。これは持論だが、海派の人たちは「山はきれいだ」とは言うけれど、山へは、あまり行きたがらないような気がする。反対に〝山派〟の人たちがどうなのかは、よく解らない。


「で、どうなんだ?」

 山のことを相談しようと、久しぶりに学生時代の友人に会った。

「山好きが海に行くか、ってこと?」

 奴、綿貫とは、高校も大学も一緒の腐れ縁だ。綿貫は山男を自称する、紛れも無い〝山派〟である。

「やっぱ、あんまり行こうって気にはならないか?」

「そうだな……嫌いじゃないけど、何だろうな、ほら、海ってどうも異性がらみっぽいだろ? それに……」

「何だそれ」

「俺は女にモテないからさ。そういう雰囲気が苦手なんだよな。……山は、年齢も性別も関係ないから。俺の勝手な考えだけど」

「へえ…」

 理由はどうあれ、どうやら海派も山派も似たようなものらしい。

「それに……」

 綿貫はブレンド・コーヒーを一口飲んでから、煙草をくわえて火をつけた。

 自分が「あれっ? 煙草は、やめたんじゃなかったっけ」と指摘すると、「やめるのをやめた」と言う。

「早死にするぞ」

「そうとは限らん。男として、何か一つぐらい世の中に反発していたくなった、ってことさ」

 そう言って、煙突のように煙を吐いた。

「ささやかな反発か?…でも何か、ちょっとショボくないか?」

 喫茶店の大きな窓に貼られた、裏返しのロゴを眺めながら茶々を入れると、綿貫は「人間一人が出来ることなんて、そんなもんだ。三島がハラを切ったって、世の中は何も変わらんのだ。俺たちに何が出来る?」と、うそぶいた。

「おいおい。……そうだ。さっき何か言いかけただろ。ほら、異性がらみが何とかって」

「ああ…。ただの、偏見だから」

 そう言って、綿貫はまた煙を吐いた。

「何だよ、言えよ」

 店内にはアネット・ルイザンがかかっていた。

「この歌……かわいい声だな」

「話をそらすな」

 綿貫は軽く咳払いをした。

「……悪く取るなよ」

「気にするな。俺は別に、海派ってわけじゃないから」

―むしろ自分は、これまで何かに傾倒したこともなかったし、ただ何となく“無難に”生きて来た。他人と議論をするほどの主義・主張も、ポリシーも、ちょっと思いつかない―

 綿貫は水を一口飲むと、続けた。

「海って、古いとか汚いとか、そういうの引かれそうな気がするんだよな。あっ、ファッションの話。……山ではさ、キズだらけの汚れたザン靴履いて、使い込んだキスリングなんか背負ってても、ベテランの職人さんって感じで、むしろ尊敬の目で見られる。俺は、見栄の張り合いってのが苦手でさ」

「確かに、偏見が入ってるかもな」

 綿貫は、ちょっと苦笑いをした。

「ところで蒼井、おまえ…どこに登るつもりなんだ?」

「それなんだけど、少しきつめのに挑戦してみたいんだ。いいとこないかな?」

 綿貫はテーブルに両肘をつき、握り合わせた両手を口に当てた。硝子の丸い灰皿から真直ぐに細く立ちのぼっていた煙草の煙が、螺旋状に揺れた。

「おまえ〝ずぶ〟なんだよな」

「ああ、ずぶの初心者だ」

 綿貫は組んでいた両手を解いて、俺の顔を見た。

「一緒に、登らんか?」

 綿貫が言いたいことは解る。でも……。

「……悪いな。今回だけは、どうしても一人で登ってみたいんだ」

 理由は、あると言えばある。でも、うまく言葉にできない。

「そうか……わかった。じゃあ、いくつか見繕って二、三日中にメールしてやるよ」

 そう言って、綿貫は新しい煙草をくわえて火をつけた。灰皿に乗ったままの、吸いかけを忘れている。

「ありがとう。……ところで、おい」

 俺は顎で灰皿を指した。

「あう」

 綿貫は慌てて古い方をもみ消して、頭を掻いた。

「いいか。山をナメるなよ」

 煙草のことが照れ臭かったのか、真顔で、妙に恰好をつけた言い方だった。


 登山口は、いきなりそこにあった。

―本当に、ここか?―

 とても、三千メートル近い山の入り口には見えない。何も無さすぎる。もっと…そう、歌舞伎町一丁目のアーチのような、目立つ看板でもあるのかと思っていた。

「そんな訳ないか。……よし」

 俺は、両手で腿の辺りをパンパン叩いて気合いを入れ、真新しい登山靴を踏み出した。

 空が、うっすらと白み始めていた。

 頂上までは、片道で約六時間ほどの行程だが、まずはピストンアタックの起点にするロッジを目指す。ゆっくり登っても、昼前にはロッジに着くだろう。と、綿貫のメールにあった。

 自分でも装備品などについては色々と勉強したが、さすがに、実際の登山のことは経験者に従った方がいいだろう。

 登山道は、木々の間をゆるやかに登って行く土の道だった。

「静かだな…」

 自分以外にも登山者や下山者はいるのだろうが、今のところ誰にも出会っていない。

 自分の足音。

 呼吸の音。

 枝葉が擦れる音。

 鳥の声。

 それだけの中を、微かな湿気を孕んだ爽やかな空気を肺に満たしながら、登る。

―山には神が宿っている―

 本当に、そんな気がして来る。幽玄、神秘的、そんな言葉がぴったりだ。人のいない所には神の気配を感じることがある。だが、神は人が造り出したものだ。……人のいない所に、神はいない。

 土の道は延々と続いている。ときに鋭角に折れて方向を変え、ジクザクに斜面を登って行く。所々に丸太で作った階段もあった。

 どこにでも、しっかりと人の手が入っている。人間は何ひとつ、自然のままにはしておけない生き物だ。目の前にあるものには、必ず何かしらの手を加えて、利便性の高いものに変えようとする。もちろん、人間にとっての利便性である。

 人間そのものだって、例外ではない。学校でも、会社でも、それぞれの組織や人間社会にとって都合のいいものに加工されていく。

 でも、そのこと自体は悪い事だとは思わない。数十億もの個人を、混乱なく統制するためには、しかたがないのだろう。

 二時間近く登ると、さすがに少し疲れてきた。鬱蒼と木々が生い茂っていて、まだ道の先を見通すことはできないが、じきに視界が開けて来るはずだ。

―ちょっと休むか―

 ちょうどいい具合に、手頃な岩があったので、そこで休憩することにした。

 岩の上に座り、ザックのホルダーからペットボトルを抜いて、スポーツドリンクを三口飲んだ。それから、谷側に向きを変えて下方を見下ろしてみると、木々の間を通して今登って来た登山道が見えた。

「ずいぶん登ってきたもんだ」

 と言っても、たぶんまだ往路の三分の一も来ていない。

 何となく、山というものがわかってきた感じがする。登山は思っていたより楽だ。何より人が少ないのがいい。この先には、三点確保の岩場があったり、鎖場があったり、なかなかの難所が待ち構えているようだが、それだけ山頂からの眺めが格別なものになると言うものだ。

「山をナメるなよ…か。了解」

 俺は、立ち上がってザックを背負った。

 ルートを教えてくれる〝目印〟と、分岐点に立っている標識を見落とさないように登って行けばいい。後は体力との勝負だ。

 少し登って行くと、座って休んでいる人たちがいた。夫婦らしい中年の男女だった。

 人なんて、どこに行っても溢れかえっているのに、山で会うと、嬉しいような何か不思議な気持ちになる。

 でも俺は、相手の顔を直視しないようにして、ただ会釈をして通り過ぎようとした。見ず知らずの他人なのだから、それが当然の礼儀だと思った。

「こんにちは」

 男性の方が声をかけてきた。

「あっ…こんにちは」

 俺は、ちょっと慌てて振り返った。

「今日はロッジですか?」

 男性が言った。

「はい」

「じゃあ一緒ですね。お先にどうぞ。お気をつけて」

 女性が笑顔で言った。

「ありがとうございます。それじゃ」

 二人は、同じ笑顔でこっちを見ていた。とても仲が良さそうだった。俺は、もう一度会釈をして歩を速めた。

「少し急ぐか……」

 この先で、目的地が同じだと言う中年夫婦に追いつかれたくない、と思った。

 それは、自分の方が若いからという、ただの意地だったのか。それとも、同一の線上を同じ方向に進む者があれば、そこに必ず協力と競争という表裏が生まれる、現代人の〝性〟ゆえか。

 そもそも自分は、他人と比較して考えるのは好きではない。と言うより、そういうことには無関心なタイプだ。

 学生時代だって、成績の優劣などあまり気にしなかった。就職先も、給料やネームバリューで選んだのではない。

 決して欲がないという訳じゃない。もしかすると、負けを認めるのが怖いだけの〝ヘタレ〟なのかも知れない。

 無意識のうちに変な競争心が湧いたのだとしたら、それは社会人になってから身に染み付いたものだろう。

「わっ! 何だ⁈」

 危うく、道を塞ぐように横たわる木の枝につまずきそうになった。

 急ぎ足で登っていて、遠方ばかりに気を取られていたせいで目に入らなかったらしい。

 風で折れたようには見えないが……誰かのイタズラだろうか。

 俺は枝を跨いで、先に進んだ。

 それから、三十分ぐらい歩いただろうか。道の感じが、さっきまでとは違ってきた。ずっと山側を左に見て登っている。道は、斜面に沿ってゆるやかに曲がって続いている。ジグザグになっていないのだ。

 さらに一時間歩いた。そろそろ木の丈が低くなってきて〝ザレ〟が見えて来るはずなのだが、何だか、道が上っているのかどうかさえ怪しくなってきた。

「どこかで道を間違えたかな?」

 今歩いているのは、明らかに人が作った道には違いない。何カ所か木段もあった。でも、どうも様子が変だ。地図を見ても、どの辺りなのか判然としない。

「しょうがない」

 身体もだいぶ慣れて来て、まだ疲れてはいなかったが、休憩して、さっきの夫婦が追いついて来るのを待つことにした。

「これが〝巻き道〟ってやつなのかな?」

 下ろしたザックの上に腰掛けて、山側の上の方を見回してみたが、特に迂回しなければならないような地形は見当たらないし、巻き道にしては長過ぎる気がする。多少勉強をしてきたとは言っても、所詮は付け焼き刃の知識に過ぎない。

 日が、だいぶ高くなっていた。幸い天気は良さそうだ。

 どのぐらい待てば、あの夫婦は追いつくだろうか。あれから早足で登ってきたから、だいぶ差を広げてしまっただろう。

「まいったな……」


 そもそも、今の会社に就職したのは、働かないと食って行けないからだ。

 特に何がしたかった訳ではない。ニートやフリーターは何となく嫌だったから、雇ってくれそうな所に行ってみたら、運良く雇ってもらえた、というだけのことだ。

 約八年。

 仕事も一通り覚えて、そりなりに責任のあるポジションも与えられている。

 出世を考えたことはない、と言ったら嘘になるかも知れないが、たぶん出世はできないと思う。

 そこそこ大きいと言われている会社は、甲子園の常連校のようなものだ。入って来る時点で、レギュラー要員と〝それ以外〟が決まっている。〝それ以外〟の者がレギュラーになれる可能性は、まず無いらしい。

 自分は間違いなく〝それ以外〟だから、せいぜい中間管理職止まりだろう。そんなことも、何となく見えてきた。

 でも、貯金もけっこうできているし、親から、結婚云々というプレッシャーがある以外は、特に不満もなく暮らしている。

 ただ……。

 自分には、ビジョンがない。

―このままでいいのか―


「さて、どうしようか」

 空には、少し雲が湧いていた。

 ここで、あの夫婦を待っていても埒があかないので、来た道を戻ることにした。道を間違えているとしたら、それが一番いいだろうと思う。

 ザックを背負い、飴を一つぶ口に放り込んで、俺はまた歩き出した。

 今度は山側を右に見ながら歩く。

 あの、中年の夫婦と出会った辺りまで戻ってみればいいだろうか。たぶん、あの人たちは道を間違えてはいなかったはずだ。

 時間は、まだある。


―けれども時間は、いつか必ず過ぎ去るものだ―

 人生の残り時間を気にする歳ではないが、何一つ目標もないままに、ただ何となく生きて、たとえ物理的な不自由はなかったとしても、それで自分は後悔しないだろうか。

 もっと色々なものを見てみたい。

 もっと色々なことをしてみたい。

 もし、自分の中に眠っている〝何か〟があるのなら、それを見極めてみたい。

 これまで自分の進む〝道〟の意味を、自分の頭で考えることもなく、疑うこともせずに生きてきた。当たり前のように目の前に置かれた標識に沿って歩いてきただけだ。

 世間一般的な安定と引き換えに、何か忘れ物をしているような気がする。それが何なのか。その〝何か〟を、自分で探してみたいと思う。


「あれ?」

 変だ。

 時間的には、もうとっくに通っていなければならないはずなのだが、あの、跨いで通った倒木がない。あんなもの、誰かがどけたとは思えない。

 しかも。

 俺は立ち止まって辺りを見回した。

 いつの間にか、右側に谷が落ちている。つまり、進行方向が逆になっているのだ。いったい、どこで道を折れて来たのだろうか。全く憶えがない。

 ひやりとした焦りが、足首から全身に這い上ってきた。

 どうやら俺は、完全に道に迷ってしまったらしい。

「確か、綿貫が言ってたな…」

―山で迷ったら、上に行け―

 裾野に下るほど山は広くなるから、余計に迷いやすくなる。対して山頂は一点だ。

「よし」

 とは言ったものの、登りの道が解れば苦労はない。

 今迷っているこの道が、緩やかに登っているようなので、もう少しこのまま歩いてみることにした。

 分岐があれば、登っている方を選んで少しでも上を目指した。道は、登り下りを繰り返しながら延々と続いた。もうそこが、自分が登ろうとしていた山の腹なのかも解らない。

―とにかく上へ―

 休憩無しで、ずいぶん歩いている。膝と肩が辛い。首にかけたタオルで顔の汗を拭ってから、腕時計を確認すると、午後四時を過ぎていた。そう言えば、いくらか気温が下がってきたような気がする。

 誰にも出会わないし、登山道らしき道ともぶつからない。避難小屋も無い。

「本気でまずいな。何とかしなきゃ」

 陽が傾いていく方向から、地図で現在位置を確認してみると、二つのルートのちょうど真ん中辺りにいるようだった。もっとも、ここが登り始めた山だとしたら、だが。

 もしものときのために、シュラフは持って来ている。今まさに、その〝もしものとき〟に遭遇しているのだが、シュラフだけで山で野宿なんてできるものなのか。

 そんなことを考え始めたとき、近くで小枝が折れるような音が聞こえた。

 足を止めて耳を澄ました。

 また、聞こえた。

―人の足音?―

 自分の少し上を誰かが歩いている。

「……だれか、いますかぁ」

 思い切って呼びかけてみた。

 足音らしい音が、リズムを速めて近づいて来る。やはり人だったようだ。

「よかった」

 素直にそう思った。

ガサッ!

 道ではない所から、年配の男性が現れた。

「珍しいな、何してる?」

 男性はこちらを見るなり、しわがれた低い声でそう言った。

 真っ黒に日焼けした顔をよく見ると、かなりの高齢者に見える。

「道に迷ってしまって……」

 俺は、言葉に愛想笑いを添えた。

 男性が、どこから登って来たのかと尋ねたので、最初の登山口を教えた。

「通せんぼを跨いだんだな」

 男性は呆れたように言った。

「通せんぼ、ですか?」

「木が道を塞いでただろ?」

―ああ、あそこか―

「……まあいい。どこに行きたいんだ?」

 男性の言葉は、いちいちぶっきらぼうだった。ちょっと、取っ付きにくい相手だと思った。

「あの、ロッジまで……」

「ロッジって、あっちのか?」

 そう言って、男性はある方向を指差したが、俺には解らない。

「……えっと」

「怪我はしてないみたいだな。じゃあ、歩けるな?」

 案外、やさしい人かも知れない。

「あ、はい」

「じゃ、ついといで」

 身なりはひどく汚れていて、都会に行ったらホームレスに間違えられそうな感じだが、この辺の山にはとても詳しそうだし、今はこの人に頼るしかないだろう。

「あの……蒼井です」

 俺は後ろについて歩きながら、男性の肩越しに名乗った。

 男性は立ち止まって、ああそうか、という風にちょっと背を伸ばしてから振り返った。

「百日紅だ」

 と言った。

「さるすべり…さん?」

―変わった名前だな―

「長いから、百でいいよ」

 そう言って、本当に照れ臭そうにニコリとした。

「ロッジは遠いんでしょうか?」

 本当は少し休みたかった。

「今日は無理だ。この先にビバークできる所があるから、そこに行く」

 それから、百さんと俺は無言で歩いた。

 しばらく行くと、木々の間に大きな岩壁が見えた。百さんが横長のザックを下ろして、紐をほどき始めた。

「ここですか?」

「ここは水場だ。……悪いが蒼井さん、これに水を汲んで来てもらえないか」

 そう言って、古そうな布製の水袋を手渡してきた。

「はい。……ええと」

「あの岩のとこ。清水が出てるから」

 行ってみると、確かに岩のくぼみに沿ってちょろちょろと水が湧き出している。

「汲んだら、行こうか?」

「はい」

 水場から五分ほど歩くと、六畳ほどの広さの平らな場所に出た。

 空がだいぶ暗くなってきた。

 百さんに教わりながら、テントの設営を手伝った。家型の、使い込まれた小さなテントだった。百さんは手際良くペグを打ち込んで、フライシートのロープを張った。

 綿貫が言っていた〝山の職人〟がそこにいた。確かに、恰好は関係ない。

「ラーメンでいいか?」

「はい。あの……何も持って来てなくて、すみません」

「これ……」

 百さんは、ザックの中からランプ型のコンロを取り出しながら言った。

「え?」

「ラジウス」

 そのコンロはラジウスと言うらしい。

「珍しいですね、それ」

「やってみるか?」

「ええ、やらせてください」

 百さんは無駄なことは言わない。でも、百さんのザックからは、必要なものが何でも出て来る。

―何だか、かっこいいな―

 ラジウスは難しくなかった。

 無事に湯が沸いてきたので、インスタントラーメンの袋を開いて、麺を湯に入れた。

「百さん、コッヘル貸してもらえますか?」

 返事がない。

 振り向くと、少し前屈みの姿勢で、森の中に入って行く百さんの背中が見えた。

「トイレかな?」

 だが百さんは、なかなか戻って来なかった。

 二人分のラーメンが出来上がってしまったので、鍋にふたをして待った。

 辺りは、すっかり暗くなった。

 ラーメンがほとんど冷めてしまったころ、ようやく百さんが戻って来た。

「悪いな……食べようか」

「百さん、あの……どこか具合が」

「俺はこれでいいから」

 百さんは、俺の言葉を遮るようにそう言って、ポケットから二十センチくらいの長さの小枝を二本取り出した。どこかで折り取ってきたらしい。

 後は二人とも無言で、冷めたラーメンを食べた。ランプの明かりで赤く照らされてはいたが、百さんの顔色はあまりいいようには見えなかった。ラーメンも、少しずつ無理矢理口に詰め込んでいるようだった。

「蒼井さんは、いくつ?」

 突然ぽつりと、百さんが言った。

「……三十になりました」

「そう、三十歳。……やっと〝成人〟ってとこだな」

「成人、ですか?」

 言われてみれば、そうかも知れない。二十歳は、確かに社会ではまだ子供だ。三十歳になって、やっと何とか〝成人〟の仲間入りができるのかも知れない。

「俺は、十六のときから植木屋だったんだけどな。三十越えて、やっと一人前に鋏が使えるようになった」

 百さんは深く溜め息をついてから、話を続けた。

「梯子に乗るのが怖くなって、やめた。若いころは十尺やそこら、平気で飛び降りたもんだがな」

「植木屋さんて、たいへんなんですね」

「やめよう。先を見なくなった年寄りは、どうも昔の自慢話ばかりしちまう」

 そう言って、ちょっとダルそうに首を回した。

「百さんは、おいくつなんですか?」

 歳が知りたかった訳じゃない。話の流れから、ちょっと世辞でもと思ったのだ。

「あー……七十九になった」

「とても、そんなお歳には見えませんね」

 世辞を言うつもりだったが、正直驚いた。シャツの上からでも解る筋肉や身のこなしは、どう見ても六十代以下だ。

「……」

 だがそれきり、百さんは黙ってしまった。

 見上げると、目を疑うほどの星空が広がっていた。

カラン!

 足下に置いた空のコッヘルが、風に吹かれて裏返った。風が強くなってきたようだ。

「片付けて、寝るか」

 百さんが顔を上げて言った。

 ランプ一本の薄明かりを頼りに、食器類を片付けた。

「先にテントに入ってな」

「……それじゃ、お先に」

 俺はテントに入った。

 真っ暗な狭いテントの中でシュラフと格闘し、どうにか収まりがついたころ、百さんがランプを持ってテントに入って来た。

 ほどなくカチリという音がして、テントは完全な闇に包まれた。

「百さん……もしかして、どこかお身体の具合が悪いんじゃないですか?」

 暗闇の中で、俺は思い切って聞いてみた。

「癌だよ」

 百さんは用意していたかのように、そう答えた。

「大丈夫なんですか?……登山とか」

「大丈夫……じゃないよ。でも人に限らず、生き物ってのは、最後は心のふるさとに戻って来たいと思うものさ。死に場所ってやつだな」

「そんな……。でも百さんは、山が心のふるさとなんですね」

「ああ」

「今回の登山は、何日ぐらい……」

「……」

「百さん?」

「……」

 百さんの寝息が聞こえてきた。

 癌だと言う、百さんの言葉が頭に残った。

 自分は、百さんのように冷静でいられるだろうか。少なくとも今は、無理だ。

 いつか自分にも、死に場所を考える時がやって来るのだろうか。

 それはたぶん……、いや、きっと。

 遠くで木々がざわめいていた。ざわめきは斜面を駆け上り、テントを揺らして過ぎた。

 俺は、そっと寝返りを打った。


 腕時計を確認すると、朝の七時少し前だった。不思議なことに、多少疲れていても会社に間に合う時間に目が醒めてしまう。

 シュラフを丸めてテントから這い出すと、百さんは朝メシの支度をしていた。

「おはようございます」

「……おはよう」

 さわやかな朝の空気の中で、飯ごうのメシとサバの缶詰を黙々と食べた。

 今日も、天気は良さそうだ。

「よろしくお願いします」

 早々に荷物をまとめ、百さんの後について出発した。

 人が作った道ではなく、森の中を踏み分けて登って行く。百さんの足取りは、しっかりとして力強く、とても大病を患っているとは思えない。

 三時間ほど登っただろうか。あまりにも簡単に登山道に出た。とても歩きづらい道だったので、俺はへとへとだったが、百さんは息も上がっていない。

「ここからなら迷わんだろう」

 百さんは、名乗ったときと同じ笑顔で言った。

「ありがとうございました」

 俺は出来るだけ深く頭を下げた。

「あっ、百さん……」

 何かお礼にと思ったのだが、百さんは向こう向きで片手を振り、そのまま森に入って行ってしまった。

「……百さん、お元気で」

 口の中で小さくつぶやいた。

 不思議な人だった。

 ひとつ確かなことは、自らの死期が近いことを知りつつ、堂々と山を歩き、当たり前のように他人の命を救った人がいた、ということだ。

「さて……」

 あの稜線の向こうに、どんな景色が待っているのか。

 俺は少し汚れた靴で、また歩き出した。



<終> 

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