第162話 戦後②
ブルーノは決戦を生き残った。
戦闘において、彼は逃げることなく最後まで果敢に戦ったが、記録に残されるような目覚ましい戦果を示すことはなかった。騎士や貴族を討ち取ることも、生け捕りにすることもなかった。
当人としても、必死に武器を振るい、何度か敵兵に傷を負わせた覚えはあったが、それが敵兵の死に直接繋がったのかは分からない。
敵が壊走し、皆で追撃し、深追いすることなく女王クラウディアより戦闘終了が宣言された後。ブルーノは気が抜けてその場に座り込んだ。そして、ふと疑問を抱いた。
果たして自分は、自分に剣を預けたヴェルナーに誇れるだけの働きをしたのだろうか。騎士の剣を預けられ、この剣にふさわしい働きを示すことができたのだろうか。
自信をもって頷くことはできず、なのでブルーノは、せめてもう少し働きを示そうと思った。
ふと目についたのは、戦場に倒れて苦しむ負傷者。追撃戦の中で傷を負ったのであろう、泥と血にまみれた騎士だった。
立ち上がったブルーノは彼に駆け寄り、彼が足に負っていた傷を縛る応急処置を施し、大量出血で意識朦朧となっている彼を担いで野営地まで懸命に走った。それが功を奏し、彼は一命をとりとめた。
彼がはっきりと話せる状態まで回復した段になって知ったが、ブルーノが助けた騎士は、ある領主貴族家の継嗣だった。
ブルーノには金属鎧の質の良し悪しなど判断できず、発見した際、騎士はマントに記された家紋も見えないほど血と泥で汚れていた。彼が貴族だと知って驚愕するブルーノを前に、彼も、貴族家当主である彼の父も甚く感心していた。それが貴族と知らず、褒美目当てでもなく力を尽くして人を助けるとは、一介の平民ながら何と高潔な者だろうと。
そして、ブルーノは謝礼に大銀貨の詰まった小袋を受け取った。今や自作農家の家長であり、平民の中では裕福な部類に入るブルーノにとっても、年収に匹敵する大金だった。
さらに、徴集兵部隊の解散が間近となった頃。ブルーノは広大な野営地の後方、司令部の置かれた天幕の前に呼び出された。そこにはブルーノ以外にも、数十人の徴集兵が集められていた。皆、決戦において何かしらの特筆すべき働きを示した徴集兵だった。
整列を終えると、その場に現れたのは女王クラウディア・エーデルシュタインだった。さすがに一人ひとりに言葉をかけることまではしなかったが、彼女は居並ぶ民の全員に向けて、その働きを称えた。
女王から直接言葉を賜り、称賛される。一介の平民としては類まれな、生涯の誇りとなる名誉だった。
そして、集った全員に名誉騎士の称号が授与された。
ブルーノにも、王家の官僚から証書が手渡された。量産された植物紙ではなく、凝った装飾の施された羊皮紙だった。
今はブルーノも字が読める。ドーフェン子爵領ボルガの平民ブルーノを、女王の名において名誉騎士に叙する旨が、証書には確かに記されていた。
あくまで儀礼的な名誉称号とはいえ、ブルーノは騎士になった。
その後、徴集兵部隊が解散した際、ブルーノはドーフェン子爵領に帰る同郷の者たちとは別行動をとり、一度王都に向かうことにした。ヴェルナーより預かった剣を、彼の遺族に返すために。
事情を説明すると、ブルーノが助けた貴族はまた甚く感心し、王都行きの面倒をみてくれた。家紋の封蝋が押された書簡を渡し、彼の家の王都別邸をブルーノが頼れるよう手配してくれた。
王都出身の徴集兵たちが帰還する列に交じり、ブルーノは生まれて初めて王都に行った。
まずは助けた貴族の王都別邸に向かい、書簡を渡すと、その別邸を預かる従士が何から何まで世話をしてくれた。滞在中の宿を提供し、ヴェルナーの家を探すのも手伝ってくれた。
さして時間もかからず、ヴェルナーの家は見つかった。ブルーノは彼の遺族に剣を返した。そして彼の勇敢な最期を語った。彼の葬儀にも参列し、空の骨壺に花を手向け、遺族と共に彼の死を悼んだ。
その後は何日か王都に滞在し、生涯一度きりかもしれない王都での日々を楽しんだ。謝礼金をいくらか使い、妻と、妻のお腹にいる我が子への土産も買った。
そうして王都滞在を終えたブルーノは、ドーフェン子爵領への帰路についた。
ボルガに帰還したブルーノは、住民たちから賑やかに迎えられた。
決戦でのブルーノの勇ましさも、その後に貴族を助けた行いも、王家から名誉騎士に叙されたことも、先に帰った者たちによって既に伝えられていた。まさしくボルガの英雄として帰還したブルーノを、皆が称えてくれた。
妻は泣いていた。夫が得た名誉はもちろんのこと、何より夫が生きて帰ったことに安堵したらしかった。ブルーノがボルガを発つ前よりも、お腹の膨らみは随分と目立つようになっていた。
「……名誉騎士になって分かったよ」
帰宅を果たし、一段落ついた後。ブルーノは呟くように言った。
「この名誉騎士号でも、俺には過ぎた褒美だ。一生誇れることだし、珍しい経験もできたが、こんなことは一度きりで十分だ。俺には今の立場が身の丈に合ってるし、精一杯だ」
かつて。ボルガの皆で盗賊と戦ったとき。働きによっては騎士に推薦してやるとフリードリヒが言っていた。ブルーノは喜んだが、あれは嘘だった。
あれが噓でよかった。
命の恩人として好意的に接せられているとはいえ、貴族を前に話すのはひどく緊張した。女王陛下を前にした時の緊張はもっと凄かった。心臓が口から飛び出すかと思った。
自身にとっては二度目のことだが、命懸けの戦いはやはり怖かった。あれを生涯の仕事にしたいとは、とても思えなかった。
もしあの日のフリードリヒの言葉が嘘ではなく、間違って騎士なんてものに叙されていたら。自分ではとてもその立場についていけなかっただろう。
フリードリヒは日々あのような世界に身を置いているのかと思うと恐ろしくなる。軍人となって戦場に生き、今や伯爵として王侯貴族の社会に生きるフリードリヒは、やはり自分とは別格の人間なのだと思い知った。逆立ちしても敵わない。
「それでいいじゃない。私は今のあなたが大好きよ……おかえりなさい。無事で本当によかった」
妻に優しく抱きしめられ、彼女の体温を感じながら、ブルーノは安らぎを覚える。
英雄の真似などできない。しなくていい。田舎都市の自作農。自分はそれで十分だ。
長閑な暮らしが一番だ。退屈なほど平和なボルガが一番だ。
・・・・・・
バッハシュタイン地方守備大隊に所属する旧バッハシュタイン公爵領軍の元騎士たちは、アレリア王国との決戦において獅子奮迅の働きを示した功績を認められ、再叙任を果たした。
フランツィスカは再叙任された騎士たちの筆頭として、叙任式で女王クラウディアより直々に言葉を賜った。敵騎士を突き落として馬を奪い、皆を鼓舞して敵陣に斬り込んだ活躍について触れられ、自分の奮戦を女王も把握してくれているのだと知った。
「……本当に、我らの名誉は回復されたのだな」
バッハシュタイン地方への帰路。馬上にいることで騎士に戻ったのだと実感し、あらためて感慨を抱きながら、フランツィスカは呟く。
騎士身分を剥奪されていた期間はさして長くない。功績を挙げる機会に恵まれ、思っていたよりもずっと早く再叙任を果たすことができた。とはいえ、それでもやはり待ち長かったと感じた。
「背中を蹴られた功績で叙任されるっていうのも、少し複雑な気分ですがね」
「何だ、まだ根に持ってるのか?」
「そりゃあね。女王陛下が俺の間抜けな様をご覧になってたのかもしれないと思うと……」
フランツィスカの傍ら、冗談めかして言うのは騎士ローマンだった。先の決戦では、馬上の敵騎士に飛びかかるフランツィスカから背中を踏み台にされ、そのことで未だにこうして愚痴を言ってくる。
「いいじゃないか。結果的に騎士身分に戻り、それどころか出世まで果たしたのだから……案外、お前が苦労してきたことも陛下は知っておられるのかもしれないぞ」
再叙任に伴い、フランツィスカはバッハシュタイン地方守備大隊の一個中隊を預かることとなった。元公爵領軍の騎士としては今のところ最高位を得たことになる。
そして、ローマンは正式に彼女の副官となり、中隊においては彼女に次いで指揮権を有する立場となった。平騎士であった公爵領軍時代よりも、士官としては「偉く」なったと言える。
「ははは、ならいいんですがね……とりあえず、帰ったら墓参りですか」
「ああ、まずはな」
フランツィスカの父エグモントをはじめ、公爵家による謀反の際に死んだ領軍騎士たち。彼らにこそ、まずは伝えなければならない。一度は道を間違えた自分たちは、再び正しき道に戻り、名誉を取り戻したことを。
エーデルシュタイン王国軍の軍旗の下、フランツィスカたちは故郷への帰路を進む。
・・・・・・
「どう思う?」
「……まあ、どうにか全盛期の七割ってところか」
王都ザンクト・ヴァルトルーデの郊外で行われている、フェルディナント連隊全体での陣形移動の訓練。騎兵部隊の動きを見ながら、大隊長オリヴァーは側近格のヤーグと言葉を交わす。
先のアレリア王国との戦争を通して、フェルディナント連隊は極めて大きな損害を被った。先代連隊長マティアスや騎兵大隊長オイゲン・シュターミッツ男爵、歩兵大隊長バルトルトなど連隊の中核を担っていた幹部たちが散り、連隊を支えていた古参軍人たちも戦死した。
その穴を埋めた補充兵力の多くは、教育は受けているが実戦経験に欠ける若い新米騎士や、実力で言えば素人に毛が生えた程度の、やる気だけが取り柄の新兵たち。先の決戦を戦い抜いたことでいくらかましになったが、それでもまだ頼りないことこの上ない。
練度で言えば全盛期に遠く及ばないフェルディナント連隊を、オリヴァーのような幹部やヤーグのような古参軍人が中心となり、鍛え上げなければならない。戦勝によって得られた平穏が続いている今のうちに、再び即応部隊として十全の能力を得なければならない。
そのためにこそ、終戦後の僅かな休養期間が開けた今、訓練が日々行われている。
陣形移動が完了すると、オリヴァーとヤーグは他の大隊長たちや、連隊長付副官グレゴールと合流。それぞれが所感を話し合い、問題点を洗い出す。
ちなみに、連隊長フリードリヒは別の仕事で王城に出向いていて不在。そのため、今はグレゴールが訓練の指揮をとっていた。
「やはりまだまだ、新兵たちの動きが悪いな。それに尽きる。全体の足を引っ張っている」
「こればかりは仕方ないだろう。くり返して慣れさせるしかない」
厳しい表情で呟く歩兵大隊長リュディガーに、もう一人の歩兵大隊長である騎士トーマスが答える。バルトルトの戦死に伴って新たに大隊長職についたトーマスは、年齢ではリュディガーよりも上。部下たちからの信頼も厚く、既に連隊を支える重要な一員となっている。
「騎兵部隊に関しては、新しく入った騎士たちが散らばりがちなのが気になる。密集した際に味方と接触するのを恐れているのだろうが、あれでは騎乗突撃の破壊力が落ちる」
「もう少し大隊ごとの訓練時間をとってもいいのでは? 私としても、新米の弓兵たちの動きが……特に狩人上がりの者たちは長距離での曲射に慣れていないせいで、角度のつけ方が大雑把になりがちなのが気になるわ。あれではいざというときに味方の陣を誤射しかねない」
オリヴァーも意見を出すと、さらに弓兵大隊長ロミルダも続ける。
「では、一旦大隊ごとに分かれ、歩兵と騎兵は部隊行動の、弓兵は一斉攻撃の練度向上に努めることとしよう。午後には再び全体での会戦と陣形移動の訓練を行う……夕方にはホーゼンフェルト閣下も戻られる予定だ。それまでに一定の成果を見せることを目指す」
グレゴールがそのように語って場を締め、大隊長たちはそれぞれの側近と共に己の部下たちのもとへ戻る。
オリヴァーも、ヤーグと共に騎兵大隊のもとへ向かう。小隊ごとに集合している騎士たちのうち、まずは自身の直轄の小隊へと呼びかける。
「しばらく走りながら、何度か進路移動をくり返して大隊全体での動きを新任の騎士たちに慣れさせる。新米たちを一旦隊列の後ろに集めて、先達たちの動き方を覚えさせよう。その左右を直轄小隊で囲み、密集しての疾走に慣れさせるんだ。最後尾はギュンターに任せる。密集に怖気づいて外側に広がろうとする者がいたら、後ろから注意してやれ」
「任せてくだせえ。俺が一喝してやれば、あいつらすぐに言うこと聞きますよ」
ギュンターが答えると、直轄小隊の騎士たちから笑いが起こる。ヤーグもへらへらと笑い、オリヴァーも苦笑を零す。
戦場で叩き上げられて今や一人前の騎士となったギュンターは、その強面や巨躯もあって、新米騎士たちから見れば分かりやすく怖い先輩であるらしい。オリヴァーにとっては、新米たちに緊張感を与え続けてくれる頼もしい部下だった。
「その意気だ。頼んだぞ……それじゃあ、各小隊に伝達。速やかに隊列を整えろ」
騎士たちは敬礼で応え、他の小隊のもとへ走る。
隊列が整うのを待ちながら、オリヴァーは振り返る。王都の長大な城壁と、そして台地の上にそびえ立つ荘厳な王城が見える。
フェルディナント連隊は、王国軍は、これからも王家の剣として、この国の盾として戦う。亡き先達たちの遺志を継ぎ、務めを果たしていく。
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