第160話 死者だけが戦争の終わりを見た

 講和が成立した後、両国はその履行に向けて速やかに動き出した。

 まず、アレリア王国の軍勢はアルンスベルク要塞より撤退し、ベイラル平原西部まで下がった。直後にエーデルシュタイン王国の軍勢が要塞に入り、支配権を回復した。

 捕虜返還に向けた実務も順調に進む。領主貴族家の関係者の中には、講和から間もなく身代金が支払われたことで、即座に解放されて帰国を果たす者も少なくなかった。

 パトリック・ヴィルヌーヴ伯爵とツェツィーリア・ファルギエール伯爵に関しては、高額な身代金を直ちに用意することが難しいため、今少しの間はエーデルシュタイン王国側に身柄が預けられたままとなる予定。サミュエル・アレリア王太子に関しても、その身柄は今後人質となるマリア王女との交換というかたちで返還されることとなっている。

 数週間のうちに、両伯爵の身代金と、留学準備を終えたマリア王女がベイラル平原に到着し、最重要の捕虜三人の身柄と交換される予定。それをもって、両国が平原を挟んで対峙する現状は終結することとなっている。

 その間、待機する軍勢の規模は徐々に縮小されている。

 千単位の軍勢は、ただそこにいるだけで毎日莫大な戦費を消費する。戦後の立て直しのために少しでも国費を節約したい現状、国境防衛に必要な最低限の兵力を残して解散させたいのは両国とも同じ。だからこそ、まるで示し合わせたように両軍の規模は縮小されていく。

 一万を超える兵力が残り、ひとつの都市の如き様相を見せていたエーデルシュタイン王国の陣地も、段々と小さくなっていく。歴史に残る大戦を為すために一時生まれた天幕の都市は、役目を終えて消えようとしていた。

 まずは、帝国からの援軍が帰国した。次に傭兵と、徴集兵のうち西部王家直轄領以外の出身者が解散した。貴族領軍も、王国西部の貴族たちの手勢以外は帰還していった。

 そして王国軍主力の中では、北部国境の防衛という本来の任務があるアルブレヒト連隊が、最初に戦場を去ろうとしていた。


「時間をとらせてすまないな、ホーゼンフェルト卿」

「いえ、今は私も時間に余裕のある立場なので……ご挨拶いただけて恐縮です」


 フェルディナント連隊の司令部にやってきたアルブレヒト連隊長レベッカ・アイゼンフート侯爵を、フリードリヒは丁寧に迎える。


「というより、私の方からご挨拶に伺うべきでした。申し訳ない」

「いや、いいんだ。私が来たくて勝手に来ただけだからな」


 アルブレヒト連隊の退却に際し、彼女は連隊長自ら挨拶に来てくれた。そのことに、フリードリヒは内心で少しの驚きを抱いている。


「初めて社交の場で会ったときは、まさかこれほど早く、卿をホーゼンフェルト卿と呼ぶことになるとは思わなかった。だが、卿をそう呼ぶこと自体にはもはや違和感もない。先代ホーゼンフェルト卿……マティアス殿が卿を後継者として見出だした理由を、今は私も理解している」


 初対面の際はまったく興味を示さなかったフリードリヒに、彼女は今、真っすぐに視線を向けて称賛を語る。フリードリヒもそれを正面から受け止める。


「光栄です。亡き父の期待に応え続けるためにも、今後も王国軍人として、王国貴族として務めを果たしてまいります」

「卿ならば大丈夫だ。エーデルシュタインの生ける英雄。今この国において、決戦に勝利をもたらした卿こそが最もこの称号にふさわしい」


 そう言って、レベッカはフリードリヒの傍らへと視線を向ける。


「女王陛下から教えていただいたのだが、戦後処理が落ち着いた後、卿は騎士ユーリカと結婚するそうだな」

「……はい」


 やや唐突な話題の転換に虚を突かれながら、フリードリヒは頷く。


「少し、彼女と話をしても?」


 その申し出に、フリードリヒは思わず驚きを顔に出す。振り返ると、レベッカに視線を向けられたユーリカも小さく片眉を上げていた。


「もちろん、構いませんが」


 立場としては、ユーリカは部隊長でもない一騎士で、ホーゼンフェルト伯爵家の一従士に過ぎない。これまで接点もないレベッカが彼女にどのような話をしたいのか、想像もつかない。

 しかし断る理由もないので、フリードリヒはそう答えた。


「では……騎士ユーリカ。ひとつ聞きたいことがある」

「はい。何でしょうか、アイゼンフート侯爵閣下」


 言葉をかけるレベッカに、ユーリカは軍人然とした態度で応じる。


「卿が孤児となる前のこと、卿をユーリカという名で呼び、卿の世話をしていた女性の存在は記憶にあるか?」


 続く問いに、ユーリカは目を見開いた。少し身じろぎをして動揺を示した。

 口を開いて何か言いかけ、しかし結局は無言で首肯しただけだった。


「その女性の名はレーナという。よければ彼女の名を覚えていてほしい……彼女の名だけを記憶に留め置き、私がこの話をしたことは忘れてほしい。卿らの人生は、もはや卿ら二人のものだ」

「……承知しました。教えていただいた名前だけ、記憶します」


 ユーリカはそう答えた。レベッカに視線を向けられ、フリードリヒも無言で頷いた。

 彼女の言葉の裏にある意味を、フリードリヒたちは正しく察した。ユーリカの出自がアイゼンフート侯爵家に関係していることを。その真相をレベッカは公にするつもりがなく、今さら自家の過去の事情にユーリカを巻き込むつもりもないことを。二人は理解した。


「ありがとう。彼女も報われることだろう……ではホーゼンフェルト卿。後日、論功行賞と戦勝祝いの場で」


 そう言い残し、レベッカは天幕を去った。


・・・・・・


 アルブレヒト連隊のもとへ戻りながら、レベッカはふと嘆息する。


「……これでよかったのだろうか」


 普段、レベッカは己の行動に悩むことはない。アイゼンフート侯爵家の当主として、アルブレヒト連隊の長として、ただその立場に基づいて考え、行動しているからこそ。

 しかし今回は、一個人として考え、動いた。ユーリカに、彼女の母親の名を伝えた。

 何故そうしたのかと聞かれれば、そうしたかったから、としか言いようがない。

 レベッカの遠い親類であるレーナは、幼いユーリカを庇護した。だからこそユーリカは生き長らえ、アイゼンフート侯爵領から遠い地で成長し、人の世で生きる術を身につけ、そのことは偶然にもレベッカの知るところとなった。

 今、ユーリカは伴侶を持とうとしている。いずれは子を持つだろう。

 だから、レーナの名を彼女に知っていてほしい。レーナが彼女を庇護したことで、彼女は成長し、そして今度は彼女がレーナのように母となって我が子を庇護する。だからこそレーナの名を記憶してほしい。

 今さら彼女をアイゼンフート侯爵家の家門に迎えようというのではない。今さら近づき、都合よく身内として振舞おうというのではない。そんなことをしてもお互い幸福にはなれず、彼女にとって迷惑なだけだと分かっている。

 だが、せめて知っていてほしい。彼女を愛し庇護したレーナの名を。そう思ってしまった。


「閣下の意図は正しく伝わったはずです。彼女にとっても良きことであったと存じます」

「……ああ。そうであることを願う」


 傍らを歩く忠実な副官の言葉に、レベッカはそう答えた。


・・・・・・


「よかった」


 二人きりになり、ユーリカが言葉を零す。


「知らないままでもよかったけど。せっかくなら知れてよかった。あの人の名前」

「……そうだね」


 フリードリヒは優しく微笑んで言った。ユーリカも、少女のような笑みを返した。

 森に捨てられる前の、ユーリカのおぼろげな記憶。彼女の世話をしてくれた、後になって思えばおそらく母親だったのだろう女性がいたこと。フリードリヒもこれまで何度か聞いてきた。

 ユーリカ曰く、人生が本当に始まる前のどうでもいい記憶。彼女にとっては、忘れていないから脳裏に残っている、ただそれだけの記憶。

 それでも、その記憶の中の女性、彼女の名を知ることができて良かったとユーリカが言うのであれば、フリードリヒにとっても喜ばしいことだった。


・・・・・・


 両軍の撤退がさらに進み、捕虜である二人の伯爵の身柄引き渡し、サミュエル王太子とマリア王女の交換も無事完了した四月。エーデルシュタイン王国側はヒルデガルト連隊と、その補助となる西部王家直轄領の徴集兵部隊を除き、兵を引き上げることとなった。

 フリードリヒの率いるフェルディナント連隊も、これより本来の拠点である王都ザンクト・ヴァルトルーデの軍本部に帰還する。今後は平時の体制へと戻り、即応部隊としての練度を高めながら非常時の出動に備えることになる。


「終わったな、この戦争も」


 帰路の行軍のための整列が進む要塞内。フェルディナント連隊と時を同じくして近衛隊と共に帰還する女王クラウディアが、出発準備の進む様を見渡しながら呟いた。


「はい。女王陛下の御名と共に、大陸の歴史に刻まれる偉大な勝利でした」


 女王と並んで立つフリードリヒは、彼女の言葉にそう答える。


「ああ、偉大な勝利だ……だが、刻まれるのは私の名だけではない。勝利の一手を編み出し、実際に勝利を掴み取った新たな英雄の名も、この勝利と共に歴史書に記される。民衆がその名を語り広める。フリードリヒ・ホーゼンフェルトの名を」

「……身に余る光栄と存じます」


 フリードリヒは静かに笑みを浮かべ、軍服の左胸、ノウゼンハレンの意匠に手を触れる。


「卿が受け取るにふさわしい名誉だ。卿の偉大な父も、ホーゼンフェルトの家名と英雄の称号を再び歴史に刻んだ卿を、誇りに思っているはずだ」


 フリードリヒの出自の真相を知るのは、国内ではクラウディアを含めてまだ数人のみ。彼女はフリードリヒの生みの父が誰かを理解した上で、それでも亡きマティアスがフリードリヒの父である前提で語った。他ならぬフリードリヒが、マティアスをこそ自身の父と定めているからこそ。


「覇王キルデベルトは討たれ、アレリア王家はもはや権勢を維持できない。今後は平和な時代が訪れればいいが……そう上手くもいくまい」


 嘆息交じりに、クラウディアは言う。フリードリヒも、微苦笑を零して頷く。

 アレリア王家が弱れば、これまで征服した地を維持できなくなる。各地方で再独立の動きが起こるのは必然。

 エーデルシュタイン王国としては、交渉によって穏やかな再独立が行われ、アレリア王国が決定的に弱体化した上でルドナ大陸西部が再び均衡を取り戻すのが理想。そのために、例えばノヴァキア王国の再独立を非公式に支援するなど、裏から手を回す計画もある。

 しかし、おそらくそう上手くはいかない。流血を伴う独立戦争が起こり得る。これまでアレリア王国に征服された各地方も、本来は決して一方的に喰われるばかりの被害者ではない。

 一歩間違えれば、アレリア王家が滅亡し、エーデルシュタイン王国は賠償金をとり損なう。それどころか、肥大したアレリア王国を内側から食い破り、新たに覇権を狙う国が台頭する可能性さえある。そうした事態を防いで自国の安寧を保つために、エーデルシュタイン王国も大陸西部の一員として地域の安定のために尽力しなければならない。場合によっては、アレリア王家と協力さえしながら。力を以て事態に介入しながら。

 均衡を取り戻した後も、その均衡がいつまでも続く保証はない。むしろ、以降は均衡がいつまで続くかを見定める日々が始まる。人類の歴史に、永遠の平穏などあり得ない。


「せめて今しばらくは平穏が保たれることを願い、そのための努力をしながら、同時に次の戦いへの備えをしなければならない。為政者にとっても、卿ら軍人にとっても、これは宿命だな」

「はい……死者たちだけでしょう。真に戦争の終わりを見たのは」


 深紅の双眸に諦観を込めながら、フリードリヒは言った。

 それから間もなく出発準備は終わり、クラウディア率いる近衛隊と、フリードリヒ率いるフェルディナント連隊はアルンスベルク要塞を発つ。ヒルデガルト連隊長ディートヘルム・ブライトクロイツが、自ら二人の見送りを務める。


「では、ディートヘルム。アルンスベルク要塞の守護は任せたぞ」

「はっ、必ずや務めを果たします。女王陛下の帰路のご無事をお祈り申し上げます」


 ディートヘルムはクラウディアに答え、そしてフリードリヒにも視線を向ける。

 二人とも、既に連隊長となった身。女王の御前に立つ軍務中、気安く言葉を交わすような真似はしない。

 代わりに、静かに頷き合う。それだけでしばしの別れの挨拶には十分足りる。友人として互いを認め合っているからこそ。

 近衛隊長グスタフに先導され、クラウディアが近衛隊を引き連れて出発する。その後に、フリードリヒもフェルディナント連隊を引き連れて続く。


 この戦いは終わり、女王と英雄は王都へ帰還する。

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