第158話 姉弟
御前会議の翌日。フリードリヒは野営地の一角を訪れた。
そこは、先の決戦で捉えた捕虜のうち、サミュエル王太子や貴族家当主など特に重要な人物が置かれている区画。早期の返還が予想されており、場合によってはクラウディアやその重臣たちと直接話をする必要もあるため、彼らは他の捕虜とは違い、後方の野営地から司令部のある最前線に移送されている。
捕虜とはいえ高貴な身分の者ばかりが集められているので、彼ら一人ずつに専用の天幕が用意され、警護と見張りと御用聞きを兼ねて近衛隊も置かれている。一個小隊が囲む天幕群、そのうちのひとつに、フリードリヒは近衛騎士の案内を受けて入る。
そこに座っていたのは、ツェツィーリア・ファルギエール伯爵。これまで直接対峙することはなくとも、幾度も戦いをくり広げた因縁の敵。
「……少し外してくれ」
「承知しました」
案内の騎士は天幕を去り、そしてフリードリヒが従者として伴っているユーリカは入り口に立って気配を消す。
ツェツィーリアは身体を拘束されていないが、武器を隠し持っていないことは入念に確認されている。彼女が妙な動きを見せても、ユーリカが動く方が確実に早い。フリードリヒは彼女に掴みかかられない程度の距離を保ち、彼女と向かい合う位置に座る。
そして、彼女と視線を合わせる。
覇王の側近。若き智将。これまで強敵として立ちはだかったツェツィーリアは、しかし今は全てを諦めきったような無気力な表情をしていた。
「……初めまして。ツェツィーリア・ファルギエール伯爵」
「ああ、初めまして。会ってもらえて嬉しいよ、フリードリヒ・ホーゼンフェルト伯爵」
そこで互いに言葉が途切れ、しばらく沈黙が漂う。二人とも視線は逸らさない。
同じ深紅の瞳。顔立ちも、姉弟だと言われれば分かる程度には似ている。目の前の女性を見据えながら、フリードリヒはそう思った。
「……私が伝えた話は、もう聞いてくれたのかな?」
「あなた方への聴取を担当したグスタフ・アイヒベルガー子爵から聞きました。何でも、行方不明となったあなたの弟が、この私かもしれないと」
フリードリヒが答えると、ツェツィーリアは微かに笑みを浮かべる。
「確かに、私は国境であるユディト山脈沿いの辺境都市で、親を知らない孤児として育ちました。私が教会に預けられた時期も、あなたの弟が行方不明になったという時期と一致します。あの時期あの一帯で、行方不明になった深紅の髪と瞳の赤ん坊が何人もいたとは思えません……ですが、どれも断定するに足る証拠ではありません」
「そうだな。君の言う通りだ……では、より有力な証拠としてこんな話はどうだろう。教会に預けられたとき、赤ん坊の君はおそらく、淡い緑色の布に包まれていたのではないかな? そして、布の片隅にはクローバーの模様が編み込まれていた」
その話を聞いて、フリードリヒは小さく息を吐く。
自身の身元に関する唯一の手がかり。淡い緑色の上等な布と、その片隅に編み込まれたクローバーの意匠。十歳になった年、その話を育ての親である修道女アルマから聞かされた。いつか役に立つかもしれないからと。
そして言われた。この手がかりについては、下手に人に話さない方がいいと。なので今まで話したのはユーリカと、亡き父マティアスだけ。目の前の、敵国の将が知るはずがない。彼女が直接見ていたのでなければ。
「……当たっているようだな。クローバーは母の実家の象徴で、家紋にも意匠が施されている。そして母の両親は、孫が生まれる度に布を贈ってくれたそうだ。私が生まれたときも、弟が生まれたときも。母はいつも弟を布でくるみ、寝かせていた」
「では、やはり私はあなたの弟で間違いないのですね」
フリードリヒは表情を変えることはなく、答える声は落ち着いていた。
「どう思った? 自分の出生の秘密を知って」
ツェツィーリアに問われ、フリードリヒは考える。
アレリア王国の貴族として生まれ、戦争で実の父を失い、結果として母をも失った。何も知らないまま、生家にとって敵である隣国で育ち、そして父と母の仇であるエーデルシュタインの生ける英雄に見出され、養子として迎えられた。彼を新たな父として敬い、愛し、その後継者として戦場に立ち、自身の本来の故国と戦った。これまで戦場で因縁めいた戦いをくり広げてきたのは、生き別れた実の姉だった。姉によって新たな父を殺され、その姉と決戦で殺し合った。
あまりにも皮肉めいた、まるで趣味の悪い創作のような話だ。己の運命を呪い、神を呪ったとしてもおかしくないのだろう。
しかし。
「……自分でも驚くほどに、動揺を覚えませんでした」
正直な心境を、フリードリヒは答える。
「狼狽するべきなのかもしれません。信じたくないと叫び、実の父の仇を養父と慕ったことを嫌悪し、姉と殺し合ったという事実に恐怖し、自身の境遇の残酷さに泣くべきなのかもしれません……ですが、まったくそのような気分にはならないのです」
自身の感情を心の内でゆっくりと咀嚼しながら、それを言葉に変えていく。
「教会に預けられたときに包まれていた上等な布の話から、自分はどこか裕福な家の子供で、何か理由があって手放されたのだろうとは思っていました。私も人間である以上、どこかに生みの親がいるのは当然であって、今回こうして自分の出自が明らかになり、自分が手放された経緯も知り、納得した。ただそれだけです」
語るフリードリヒを、ツェツィーリアは感情を顔に出さず、じっと見つめる。
「出自を知ったことで、自分の中で何かが変わることはありません。確かに私は、最初はアレリア王国の貴族として生まれたのでしょう。ですが、私の人生の記憶は全てがエーデルシュタイン王国でのもの。私はこの国で孤児として育ったフリードリヒという人間であり、私の知る親とは、今は亡きマティアス・ホーゼンフェルト伯爵です。彼は血の繋がらない私を息子にしてくれた。だから私も、血の繋がらない彼を父と思っています。彼が私の実の父を討ったという事実があったとしても、それは変わりません。私を生んでくれた実の両親には感謝していますが、そのことと養父への敬愛は、私の中で何ら対立するものではありません」
フリードリヒは心中を語りきった。
自分が生みの母に手放された経緯についても、ツェツィーリアが語った内容をあらかじめ間接的に聞いていた。実の両親であるジェラルド・ファルギエールとフェリシティ・ファルギエールは、自分を愛してくれていたのだろう。だからこそ、父はロワール地方で不吉とされる赤髪の自分を受け入れ、母は――冷静な判断とは言えなかったかもしれないが――自分を生かすために逃がしてくれたのだろう。
だから、実の両親に対して何ら恨むところはない。むしろ感謝している。叶うものなら感謝を直接伝え、言葉を交わしてみたかった。せめて、いずれ墓参りくらいはしたいと思う。
それと同時に、養父マティアスへの敬愛も何ら変わらない。たとえ彼が実の父を殺し、実の母の人生を結果的に壊し、自分の人生を永遠に変えてしまったのだとしても。
これが矛盾なのだとしたら、その矛盾ごと抱え、受け入れてしまえばいい。
「……そうか」
答えながら、ツェツィーリアは笑みを零した。その意味を理解しかねて、少し考えた上でフリードリヒは言葉を続ける。
「きっと、私の答えはあなたの期待したものではなかったと思いますが……」
「いや、むしろ君がそう言ってくれてよかった。どうかそのまま、亡き養父への愛を持ち続けてほしい。英雄の息子として、マティアス・ホーゼンフェルト伯爵から受け継いだものを大切に守りながら生きてほしい」
穏やかに言われ、フリードリヒは驚きを表情に出した。
「……いいのですか?」
「ああ。ホーゼンフェルト伯爵位を継いでエーデルシュタイン王国軍の連隊長にまでなった君が、今さらアレリア王国に戻ってくることはできないんだ。君が悩むことなく運命を受け入れられるのなら、それは喜ぶべきことだ……これまでの半生を呪い、己の立場を呪い、この先の未来に絶望しながら生きていく君の姿など想像したくはない。君に苦しんでほしくはない。だって君は、私の弟なのだから。私に残された最後の家族なのだから」
答えるツェツィーリアの声と表情には、慈愛の情が見てとれた。彼女の声は穏やかで、表情は優しかった。
だからこそ、フリードリヒは気まずさを覚える。
「ありがとうございます。ですが……その」
「分かっているさ。今の私たちには、血の繋がり以外の何もない。互いのことをほとんど知らないし、姉弟としての思い出もない。少し前までは命の奪い合いをしていて、この先それぞれの仕える国がどのような関係になっていくかも分からない。こんな私にいきなり弟扱いされては、君も困るだけだろう……いや、むしろ憎悪や嫌悪を覚えるかもしれないな。私は君の養父を討った仇なのだから」
どこか寂しげに言ったツェツィーリアに、フリードリヒは首を横に振る。
「最後に関しては否定します。あなたに憎悪や嫌悪を覚えてはいません。私は父から――養父マティアスから教えられました。軍人が戦うのはそれが務めだからであり、そこに私情を挟む余地はないと。戦争で誰を殺しても喜ぶべきではなく、誰を殺されても恨むべきではないと。その言葉通り、彼は実の息子ルドルフをあなたに討たれたことを、恨んではいませんでした。なので父を討ったあなたを、私は恨んでいません」
ツェツィーリアを、実の姉を、真っすぐに見つめながらフリードリヒは言った。
すると、ツェツィーリアは自嘲するように笑い、呟く。
「私が敗けたのも当然か。君は私よりも遥かに優れた軍人なのだから。家族を奪われたことへの復讐ばかり追い求めていた私などよりも、遥かに」
その呟きには言葉を返さず、フリードリヒは少しの思案の後、また口を開く。
「少なくとも今、姉弟としてあなたと接することはできません。私の心情としても、私のいる政治的な立場を考えても。私たちの関係が今後どうなるのかは分かりませんし、自分でどうなりたいと思っているのかも定まりません。ですが……今日こうして、あなたと話ができたことはよかったと思っています」
その言葉を聞いたツェツィーリアは、優しい微笑のまま頷く。
「君がそう言ってくれて嬉しい。そして、私も君と話すことができてよかった……君はもう、幼き日の私が愛でた赤ん坊のマクシミリアンではなく、エーデルシュタイン王国のフリードリヒ・ホーゼンフェルト伯爵だ。だとしても、弟が生きていたことが分かって本当によかった。家族を全て失ったと思って、今まで生きてきたから」
語る彼女の表情は、まるで少女のようにも見えた。
その顔を見て、彼女の気配を感じ取って、フリードリヒの記憶の奥底からこれまで忘れていた光景が浮かんできた気がした。ひどく曖昧で、しかし懐かしい光景が。
「……後ろに立っている騎士ユーリカは、僕の従士で、恋人で、僕は戦後に彼女と結婚するつもりです。彼女と出会ったばかりの幼い頃、彼女と寄り添い合ったとき、このまま彼女の傍にずっといたいと強く思いました。理由は自分でも分からないままでしたが、今、分かりました」
ツェツィーリアは少し驚いた様子で、しかし弟の話を無言で聞く。
「まだ物心もついていない頃の、おそらくはまだ生家にいた赤ん坊の頃の記憶が、微かに残っていたんだと思います。あのときのユーリカのような幼い少女に優しく寄り添われていた、懐かしくて安らげる記憶が」
赤ん坊のフリードリヒに優しく寄り添った幼い少女。それが誰のことかを理解したツェツィーリアの目から、涙が一筋流れる。
「君の中に少しでも、私と家族だったときの記憶が残っていたのなら。その記憶の残滓が今の君に繋がっているのなら。それだけで救われた気がするよ……ありがとう。どうかこれからも元気で。そして幸せに」
笑顔で言うツェツィーリアに、フリードリヒも笑みを返して頷き、そして天幕を去る。
エーデルシュタイン王国の将とアレリア王国の将。真逆の立場にある、今はまだ敵同士の両者。生きて再会し、言葉を交わす日が来るのか。あるいはこの対話が最初で最後の機会だったのか。それはまだ誰にも、フリードリヒ自身にも分からない。
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