第146話 決戦⑥
戦場の北側。エーデルシュタイン王国の陣から見て右側前方。
アレリア王国の軍勢、その前衛左側面を正面に見据える森の中に、フリードリヒ率いるフェルディナント連隊は潜んでいた。
森に溶け込んだ隊列の先頭付近で、フリードリヒは戦場を観察する。
敵陣前衛には徴集兵のみならず、後衛にいた「王の鎧」をはじめ正規軍の精鋭部隊が進出。徴集兵の間を縫うようにして進んでいるために、部隊ごとの境界は曖昧になり始めている。
そして、その前衛の只中に、覇王キルデベルト・アレリアもいる。彼を囲む「王の鎧」、その中でも直衛の騎士などはさすがに固まって隊列を維持しているが、混雑極まる陣中で前進するのに苦労しているようだった。
その様を見て、フリードリヒは静かに笑む。機は熟した。
「馬車を前に」
「馬車を森から出せ! 三台ともだ!」
連隊長として命令を下すと、それを副官グレゴールが大声で伝達する。
そして、森の中に潜んでいた三台の馬車が動き出す。
それは異様な見た目をした改造馬車だった。荷を運ぶためのものではなかった。荷馬一頭が牽く二輪の車体は小さく、御者の席があるのみ。そしてその車体から、馬の両横を通って前方に、左右それぞれ数本ずつの棒が伸びていた。車体と棒には布や毛皮が貼りつけられて奇妙な模様の壁を成し、馬車の側面を覆っていた。
棒の先にあるのは、人の背丈を優に超えるほど大きな木製の面。人の面ではない。悪魔のような恐ろしげな顔の面が赤く塗られ、馬車の前面を飾る。
人間の本能的な恐怖心をくすぐる不気味な顔。文化都市としても知られる王都ザンクト・ヴァルトルーデで随一と評される芸術家が、直々の王命を受けて作り上げた面だった。
悪魔の面の下には、車輪ではなく大きなそりが取りつけられている。そして馬車の進路上の地面からは、障害になるような石や木の根があらかじめ取り払われ、多少の整地がなされている。
大柄な荷馬は悪魔の面と車体、そして乗員の重量をものともせず、力強く地を踏みしめて前進する。三台の馬車、三つの巨大な顔が、森の中から戦場に姿を現す。その姿はまるで、まだらの皮を纏って地を這いずる化け物だった。
「旗を」
さらにフリードリヒが命じると、やはり直ちに伝達され、馬車と並んで数騎の騎士が旗を掲げながら森を出る。旗に記されているのはホーゼンフェルト伯爵家の家紋。意匠はノウゼンハレン。花言葉は、忠誠と勝利。
巨大で恐ろしげな悪魔の面と、高く掲げられた幾つもの旗。その目立ちすぎる一団に、アレリア王国側の前衛左端にいる徴集兵たちはすぐに気づく。
「お、おい、何だあれ!」
「旗だ! ホーゼンフェルト伯爵の旗だぞ!」
ノウゼンハレンの意匠。それがホーゼンフェルト伯爵家の旗だと、徴集兵の多くを占めるロワール地方東部の民は知っている。
今は亡き英雄マティアス・ホーゼンフェルトは、ロワール地方――旧ロワール王国東部の民にとっては恐ろしい強敵。二十余年前のベイラル平原の大戦においては多くの徴集兵が動員され、彼らはマティアスの凄まじい戦いぶりを目の当たりにした。
ロワール地方東部の人間ならば、マティアスの恐ろしさを身をもって知る者を、誰もが一人二人は身内や友人知人に持つ。自分自身が当時の戦場にいて知る者もいる。
故にロワール地方東部の民の間で、ホーゼンフェルト伯爵家の家紋はよく知られている。
もし戦争に動員されて、戦場でこのような花が描かれた旗を見たら逃げろ。旗の下には恐ろしいホーゼンフェルト伯爵がいる。命が惜しければ離れろ。誰もがそう教え合ってきた。当時はまだ幼かった者や生まれていなかった者も、親世代から教えられて育った。
なので、掲げられたいくつもの旗を見た瞬間に、その旗の持ち主が誰なのかを徴集兵の多くが理解した。そして反射的に恐怖を抱く。
「なんでだよ! ホーゼンフェルト伯爵は死んだんじゃなかったのか!?」
「伯爵が死んでも世継ぎがいるだろ! 例の養子だよ!」
「あれか? 山から下りてきたユディトの悪魔だって噂の奴か?」
「じゃ、じゃあ、あの馬鹿でかい悪魔みたいな顔は……」
彼らは思い出す。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵が、数年前に迎えた養子の噂を。
突如として英雄に見出された辺境の孤児。その正体は、ユディト山脈から下りてきて人間になりすました悪魔だとも言われている。
そして、この決戦の前には、山の麓でユディトの悪魔らしき姿が頻繁に目撃されている。
今まさに戦場に現れたホーゼンフェルト伯爵家の旗。掲げているのは家を継いだのであろうユディトの悪魔。旗の下には、恐ろしげな悪魔の面が据えつけられた、訳の分からない蠢く物体。
全ての話が繋がった。と、彼らが思った次の瞬間――悪魔の面が火を吐いた。
巨大な赤い悪魔の顔、その巨大な口から、轟々と音を立てて赤い炎が吐き出された。三つの悪魔の顔、その全てがそれぞれ火を吐いた。
元より、後ろから追い立てられて強制的に戦わされていた徴集兵たち。極度の緊張で気持ちばかりが昂り、しかし戦いの疲労と死への恐怖で士気が大きく衰えていたところで、畏怖の対象であるホーゼンフェルト伯爵家の旗を目の当たりにした。さらにはマティアスの養子とユディトの悪魔に関する数々の噂を思い出し、そして目の前で巨大な悪魔の顔が火を吐く光景を目の当たりにした。
それだけで、恐慌するには十分だった。
「うわああああああっ!」
「悪魔が来た! ユディトの悪魔が来たあああっ!」
「逃げろ! 逃げろおおお!」
あれは何だ。悪魔の乗り物か。悪魔の使役する魔物か。いや、自分たちが知らないだけで、あれこそが悪魔の真の姿なのか。人間になりすましたユディトの悪魔が仲間を呼んだのか。エーデルシュタイン王国は新たにホーゼンフェルト伯爵となったユディトの悪魔と手を組み、悪魔の力を借りてこの戦争に勝とうとしているのか。
悪魔が襲いかかってきたら、自分たちは一体どのようにして殺されるのだろうか。刃や矢で死ぬのが優しく思えるほど惨い死に方をするのかもしれない。生きたまま食われ、引き裂かれ、血を啜られ、焼かれ、そうして死ぬのかもしれない。
あれが怖い。
もはや理屈ではなかった。悪夢のような光景が本能的な恐怖を呼び起こし、その恐怖が妄想を掻き立て、その妄想がまた新たな恐怖を生み、いくつもの恐怖が彼らロワール地方東部出身の徴集兵を包み込む。
「ユディトの悪魔だ! 悪魔がいるぞ! こっちに来る!」
「逃げろ! 逃げろ! このままじゃ食われちまう! 焼き殺されちまう! 早く逃げろ!」
「邪魔だ! お前らそこをどけ! どけって言ってんだよ!」
まず、前衛左端で悪魔の面が火を吐く光景をまさに目にした者たちが、完全な恐慌状態に陥って陣形の右へと逃げ始めた。悪魔が来る、悪魔に殺されると泣き叫びながら。
それを聞いた者たちは、それを叫ぶ者たちが逃げてくる左側を確認し、畏怖の対象である旗と炎を吐く不気味な悪魔の顔を目撃し、やはり恐慌状態に陥って同じように逃げ始めた。
陣形のもっと右側、もはや旗も悪魔の顔も見えない位置にいる者や、ロワール地方東部の出身でないためにそもそもユディトの悪魔をよく知らない者も、周囲の何十何百という味方が叫ぶ言葉を聞き、彼らが恐れおののきながら押し寄せる様を見ただけで、訳も分からないまま同じ状態に陥った。よく分からないが何かとんでもなく恐ろしいものが襲ってきたらしいと考え、皆の恐慌に釣られて自らも恐慌状態になった。
徴集兵とはすなわち、ただ動員されただけの民衆。感情の高ぶった民衆は、何かひとつきっかけがあれば一斉に一方向に流される。群衆の中では容易に伝染する。高揚も。そして恐怖も。
アレリア王国の軍勢、その前衛の徴集兵たち、その左から右へと恐怖が伝播していく。
★★★★★★★
おかげさまで『フリードリヒの戦場』書籍1巻が無事に発売日を迎えました。
書籍の帯にて情報解禁されましたが、本作のコミカライズ企画も進行中です。
引き続きフリードリヒたちの物語を何卒よろしくお願いいたします。
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