第143話 決戦③

 その様を、クラウディアは本陣より見渡していた。


「……やはり簡単にはいかないか。アレリア王の容赦なき戦術、誠に恐ろしいものだ」


 自国の民である徴集兵の損耗をまったく厭わず、むしろこちらの歩兵部隊を疲弊させるための消耗戦力として用いる。血も涙もない覇王の戦い方に、嫌悪とある意味での感心を抱く。

 このままでは、こちらの次の狙いが実現するまで歩兵部隊は持ちこたえられないだろう。そう判断したクラウディアは――手に抱えていた己の兜を被る。後方の本陣から戦場を俯瞰して指揮をとる上では、視界を狭めるだけなので不要である兜を。


「アイヒベルガー卿。行くぞ」

「……御意」


 クラウディアの呼びかけに、女王の護衛指揮官であるグスタフ・アイヒベルガー子爵が答える声はやや渋い。常に無表情と無感情を貫く彼にしては異例の、気乗りしない態度の表明だった。

 本陣直衛、女王を守る近衛隊が、一斉に装備を整える。歩兵部隊が押されているとはいえ未だ戦闘は遠く前方で行われているのに、まるでこれから直ちに戦うかのように。


「女王陛下? あの、これより一体何を?」


 その様を疑問に思って問いかけたのは、非戦闘員の帝国貴族でありながら本陣に立って決戦を見届けることを決断したクリストファー・ラングフォード侯爵。自らの死の危険も承知で友邦の女王と同じ場所に立つことを決断している彼は、しかし作戦の詳細を知らされているわけではなく、クラウディアたちの突然の行動に困惑を見せる。


「前に出る。戦闘が行われている最前面に。そうして兵たちを鼓舞するのだ」


 クラウディアが行動の意味を明かすと、クリストファーの目が見開かれる。


「なっ!? そ、それは、あまりにも危険では……」

「心配はありがたいが、その議論は既に終えている。我が直臣たちとな。その上で出る決断をした――さすがに卿を伴うことはできない。ここで見ているといい。我が覚悟を」


 言い残し、クリストファーの返事を聞くことなく、クラウディアは馬を進める。周囲を近衛隊の騎士に、そのさらに周囲を近衛兵に囲まれながら、最前面の喧騒へと向かう。


「……どうかご武運を、女王陛下」


 クラウディアの背から放たれる覚悟に当てられ、クリストファーは唖然と、そしてどこか恍惚としながら呟いた。

 その呟きを知らず、クラウディアは前進する。自身のために育てられた専用の白馬を駆り、自身専用の鎧を纏い、王家の旗が掲げられる中を前へ前へと進む。

 前衛の歩兵たちが落ち着いていたのは、隊列の最後方のみ。最前面まで半分も進まないうちに、戦場の喧騒に触れる。

 未だ敵と直接対峙していない兵たちも、既に及び腰になっていた。前方からは絶え間なく下がってくる負傷者。自力で歩ける程度の者たちとはいえ、その様は痛々しい。ただ血を流しているだけではなく、肉を切られ骨がむき出しになっている者、片目が飛び出している者、腕を失っている者もいる。その凄惨な姿を見て、元はただの平民である徴集兵たちは恐れおののく。

 さらに、最前面ほどの密度ではないとはいえ、空からは敵の矢も降り注ぐ。先ほどまで隣に立っていた仲間が、次の瞬間には矢を受けて倒れ、もがき苦しむ。あるいは既に事切れている。そんな戦場の現実を目の当たりにした素人兵士たちに、既に開戦前ほどの士気の高さはない。

 敵に押し込まれた最前面からさらに押されるようにして、全体の後退が始まっている。この後退が、このままではさして時間もかからず敗走へと変わるだろう。

 そうはさせない。


「進め!」


 クラウディアは声を張り上げた。男の比率が圧倒的に多い歩兵部隊の隊列只中で、女王の声は喧騒をかき分けてよく通った。

 そこで初めて女王が前に出てきていることに気づいた多くの兵士たちが、驚愕の表情で一斉に振り返る。


「我らが下がればこの国は敗北する! 故郷の土地も家も、家族までもが蹂躙されるのだ! それを許さぬためにこそ、我らは戦うことを選んだのだろう! 故郷を思え! 家を思え! 愛する者を思え! そして私と共に前に進め!」


 鎧と白馬の輝きに彩られ、近衛隊の威容を纏い、王家の旗を堂々と引き連れ、矢が降り注ぐ戦場の只中を突き進む。クラウディアの姿は、及び腰の徴集兵たちに伝説の戴冠式を思い出させる。

 最も顕著な反応を見せたのは、実際に戴冠式の光景を目撃した者たち。

 街や村の代表としてあの日戴冠式の場に集まった者たちは、そのまま兵力徴集に応じた者が多く、徴集兵の士気高さを維持する根幹となっていた。そうした者たちがまず士気を取り戻す。

 その高揚が、周囲の者たちに伝播していく。伝聞でのみ戴冠式の感動を知っていた者たちも、女王の勇ましい姿を実際に目にし、力強い言葉を聞き、さらには周囲の仲間が士気を取り戻し始めたことで、今一度高い士気を得る。


 進め。


 口々に叫びながら、歩兵部隊後衛の徴集兵たちは尻込みするような後退を止め、前に進む。

 彼らの声を浴びながら、クラウディアはさらに前進する。

 いよいよ戦場の最前面が近づき、降り注ぐ矢が格段に増える。剣や槍がぶつかり合う衝撃音、殺意に満ちた怒号が響き、敵の姿さえ見え始める。

 そこでは王国軍兵士も、貴族領の兵士も、傭兵も、徴集兵も、もはや部隊の境目さえ曖昧になりながら敵歩兵前衛とせめぎ合っていた。やはり凄まじいのは敵の数。退却も交代もなく、命をすり潰すようにして迫る敵徴集兵に、こちらの隊列は見る見るうちに押し込まれていく。


「進め!」


 クラウディアは吠える。その声は戦場に広く響き渡る。


「ここが王国の運命を決する戦場だ! 進め! 進め! 進めぇっ!」


 これほどの喧騒の中ではまともに演説などできない。ただ声を張り上げ、何度もくり返す。

 女王の声は怒号や悲鳴の間を抜け、混沌とした戦場の最前面に広く届いていく。


・・・・・・


 最前面の右翼側、ヒルデガルト連隊歩兵部隊が守る一帯。一個中隊を率いて戦うその騎士は、士官として騎乗しながら、鼓舞もむなしく逃げ腰になり始めた兵士たちを見回し、悔しさに顔を歪ませる。

 奮戦したが、ここまでか。後は押し込まれ、敗北するばかりか。そう考えたとき、耳に届いたのはこれまでに何度か、軍人として重要な局面で――直近では戴冠式で――聞いた声だった。


 進め。


 まさかと思い、声の方を振り返り、そして驚愕に目を見開く。

 女王クラウディアがいる。このような、矢が降り注ぎ怒号飛び交う戦場の最前面に。

 これも何かの作戦なのか。一体どんな。

 作戦全体の概要など知らされていない一士官の身では、この異様な状況を理解できなかった。理解できずとも、目の前の現実として存在する以上は受け入れざるを得なかった。


「進め!」


 意識を向けているからか、今度はよりはっきりと女王の声が聞こえた。君主の証である王家の剣を掲げ、輝く白馬に乗りながら、女王が命じる声が聞こえた。

 自分たちの女王が、近衛隊に囲まれながら、まだ前に進もうとしている。この先には敵しかいないというのに。途切れることなく続く敵の軍勢があるばかりなのに。


「す、進め! 女王陛下の御前だぞ!」


 焦りながら、その騎士は部下たちに叫んだ。部下たちにも女王の声は聞こえていたようで、彼らも驚いた表情を浮かべている。


「ええい進め! 進めと言っている! 進めぇ!」


 怒鳴りながら、騎士は自ら前進する。

 自分は王国軍人だ。王国騎士だ。王家より叙任を受け、国を守ると誓った。

 その自分が、戦場で君主より後ろにいることなどあってはならない。王国軍人は君主よりも前に立ち、君主を守り、そして国を守りながら戦わなければならない。


「進め! 中隊、総員進め! 女王陛下の御為に! 王国のために!」


 声も形相も懸命に、騎士は無理やり前進する。立ちはだかった敵徴集兵を馬で踏み潰し、蹴散らしながら、足に敵の攻撃を受けることも厭わず進もうとする。

 それに、部下たちもついてくる。進め。進め。進め。口々に言いながら前進を試み、自然とまた隊列が固められる。態勢を立て直す。横に並べば戦うのは正面の敵のみ。補充兵も多いとはいえ、長く国境を守り抜いてきた栄光あるヒルデガルト連隊の白兵戦部隊。徴集兵を相手にそう簡単に崩されはしない。

 この中隊と同じような光景が、最前面の至るところでくり広げられる。士官たちが前進を命じ、王国軍騎士の誇りを示すように自らが率先して進む。兵士たちも意地になってそれに続く。


・・・・・・


 女王と共に突き進むのは、王国軍ばかりではなかった。


「なっ! 女王陛下!?」


 領軍の騎士たちを継嗣に預けて騎兵部隊に送り込み、当主の自分は領軍歩兵を率いて最前面で戦っていたその貴族は、戦場でも最も危険なこの場所に女王クラウディアが出張ってきたことにこれ以上ないほどの驚愕を示す。

 女王は剣を掲げ、周囲に呼びかけている。進め、という声が聞こえる。

 歩兵部隊を鼓舞し、士気を高めさせ、陣形を維持するために前に出てきたのか。それにしても何という無茶を。


「進め!」


 女王は止まらない。後退を続ける自分たちの軍勢は、このままでは女王率いる近衛隊に追い抜かれてしまう。

 そう思った瞬間、その貴族は血相を変えて剣を振り上げる。


「進め! 我らの誇りにかけて前進しろ! 進むのだ!」


 若き女王が、誰よりも勇ましく、無謀なほどの覚悟を示しながら前に進んでいる。これで自分が下がればそれは恥だ。先祖より受け継いできた家名が汚れるほどの大恥だ。

 ここで自分が逃げたならば、たとえ王国が戦争に勝利したとしても、その後どんな顔をして生きていくというのか。あの貴族家の当主は女王を置いて戦場から逃げたと周囲から指をさされ、嘲笑され、それでどうやって家を存続させていくというのか。

 前に進むのだ。王国貴族の誇りにかけて。


「進め! 立ちふさがる者は殺せ! 進め!」


 手勢を引き連れて敵を蹴散らすその貴族と同じように、他の領軍歩兵部隊の指揮官たちも必死に戦う。貴族家の子弟や縁者が。あるいは当主自身が。女王の覚悟を前にして誇りをかき立てられ、焦燥と高揚に追い立てられるように、誰もが前に前に突き進みながら戦い続ける。

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