第142話 決戦②
「ぎゃあああっ!」
「痛い! 痛いいぃ……」
「だ、駄目だ、逃げよう!」
「どこに! 逃げ場なんてねえぞ!」
「進め! 足を止めるな! 早く前に進め!」
矢の雨に晒されたアレリア王国側の前衛は、血の臭いと喧騒に包まれていた。
大半の者が普段は戦いとは無縁である徴集兵たち。矢を受けた者は痛みに絶叫し、それを間近で見た者は恐怖に動揺し、しかし逃げようにも周囲の全てを味方兵士に囲まれていてはどうしようもない。数十人に一人置かれている部隊長は軍隊経験のある志願兵。予想より遥かに早く敵の矢が届いた事態に困惑しながらも、早々に自部隊を崩壊させるわけにはいかないと命令を叫ぶ。
志願兵たちの懸命な呼びかけで、二万六千の巨大な歩兵部隊は数を減らしながらも前進を再開する。死傷者をその場に置き去りにして。
そんな陣形最前面より遥か後ろ、後衛の中心に置かれた本陣で、ツェツィーリアは考える。
この長射程、やはり漆黒弓しかあり得ない。
貴重な最新兵器を援軍に持たせるとは、帝国のエーデルシュタインに対する入れ込みようはそれほどか。女王クラウディアとリガルドの皇族が婚約したという話も聞こえていたが、姻戚となる者に対してはそれほど気前が良くなるか。あるいは、隣国の戦場を最新兵器の格好の大規模試験場と見たか。
矢の雨に襲われた途端に、前衛の前進が目に見えて鈍る。素人揃いの徴集兵が怯むのは仕方ないとして、徴集兵部隊の士官には軍隊経験のある志願兵を充てていたが、彼らも予想外の遠距離から矢を受けて混乱しているのか。
「突撃だ!」
ツェツィーリアの思考を、キルデベルトの怒声が断ち切る。
「距離を詰めて肉薄すれば、それだけこちらの兵の損耗は抑えられる! 前衛は直ちに突撃! その後に残る部隊も進め!」
「っ! 前衛は突撃! 伝達を!」
王の命令をツェツィーリアが伝えると、伝達役の騎士が前方に向けて旗を振る。前衛歩兵の先頭に指揮官として置かれていた将は幸いにも未だ矢に倒れていなかったようで、その将が同じく先頭の部隊長たちに突撃命令を下し、二万を優に超える歩兵が突撃を開始する。
それはまさしく人の波だった。まずは最前列付近の兵士たちから駆け出し、後続が続く。一人ひとりは少しでも早く矢の雨を抜けようと懸命に走り、それが全体ではまるで巨大なひとつの生き物のように、蠢きながら丘を下る。
それを、後ろから正規軍人たち――後衛の先頭を担うロベール・モンテスキュー侯爵の精鋭部隊が追い立てる。督戦隊の如き振る舞いを見せる精鋭が真後ろで武器を構えて隊列を固めているとなれば、敵の矢に恐怖している徴集兵たちもそうそう逃げようとはしない。
無事に突撃が敢行されていく様を確認したキルデベルトは、そこでツェツィーリアを振り向く。
「ファルギエール卿。卿は己の部隊のもとへ向かうがよい……左の守りは任せたぞ」
「……はっ。それでは陛下、ご武運を」
王の命令に敬礼を返し、ツェツィーリアは本陣から離れる。
万単位の軍勢が真正面から激突する戦場では、両軍の陣形が極端な変化を見せることはない。戦術と陣形を既に定めた以上、ツェツィーリアがこれ以上本陣にいてもできることは少ない。
なので、本陣を離れ、後衛の左へと移動する。
総勢八千の後衛、そのうち左端に近い千は、旧ロワール王国軍の精鋭を集めたツェツィーリアの直轄部隊。副官の騎士セレスタンに一時預けていたこの部隊へ、指揮官として合流する。
この決戦において、最も不測の事態が起こり得るのは森に面する左側。そう考えたからこそツェツィーリアは自部隊の布陣を後衛左側に定め、何かが起これば対処する構えをとる。
ツェツィーリアが移動するうちに、前衛はいよいよ敵軍と激突する。
・・・・・・
総大将キルデベルトの決断か、あるいはファルギエール伯爵など参謀による入れ知恵か。敵側が前衛の一斉突撃を敢行したことで、エーデルシュタイン王国側が最初の遠距離攻撃で敵に与えた損害は、想定を下回るものとなる。戦闘不能となった敵徴集兵はせいぜい二千か三千。残る二万数千は、未だ健在で突撃してくる。
下り坂の勢いに乗った巨大な人の波が、エーデルシュタイン王国側の前衛に迫る。それをまさに受け止めんとする最前面には、王国軍と貴族領軍の正規軍人たちが主力として置かれている。
その中でも中心の隊列を固めるのは、歩兵部隊指揮官レベッカ・アイゼンフート侯爵が直率するアルブレヒト連隊の歩兵大隊。
「我らの誇りを見せるに、これ以上ふさわしい戦場はない。命に代えても敵を受け止めろ」
「「「応!」」」
これまで国境地帯よりも後方に置かれ、王国領土を守る最後の盾として存在してきたアルブレヒト連隊の軍人たち。戦列の堅さに定評のある彼らが守る中央最前面は、歩兵部隊の陣形の中でも最重要地点。ここを抜かれれば、エーデルシュタイン王国側は陣形の只中に敵の侵入を許すこととなる。そうなれば内側から軍勢を食い破られ、敗北は必至。
そんなことを、彼らが許すはずもない。その誇りが許さない。
数にものを言わせて迫りくる敵の歩兵前衛と、味方の前衛最前面が、今まさに激突する。得物を構えるエーデルシュタイン王国側の隊列に、粗末な装備を身につけたアレリア王国側の徴集兵たちが力任せにぶつかる。
矢の雨への恐怖と、後ろから追い立てられる焦り、そして坂を駆け下る速度が融合した突撃は、しかしそこで止まった。エーデルシュタイン王国側の歩兵部隊は、勢いに乗った敵に突き崩されることなく、その突撃をしっかりと受け止めた。
そして、敵味方がまさに刃を交える戦場の中心に、怒号と喧騒、悲鳴と絶叫、血と臓腑がまき散らされる。
果敢にも突撃の最先頭中央に立っていた敵側の歩兵指揮官らしき将を、レベッカは自ら斬り伏せた。さらに後ろから続く敵兵、脆弱な徴集兵を容易に仕留めつつ、部下たちを鼓舞し、隊列を維持させる。部下たちはレベッカの期待に応え、一兵たりとも敵を抜かせない。
アルブレヒト連隊歩兵大隊が守る中央以外でも、各部隊が奮戦し、隊列は概ね守られる。なかには勢いに任せて数列ほどを破る敵部隊もいるものの、少数でそんな前進をしたところですぐに疲弊し、孤立し、後方に何十列と控えるエーデルシュタイン王国側の歩兵によって殲滅される。
正規軍人のみならず、戦いにおいては素人である徴集兵たちもよく戦う。
自分たちは侵略者の軍勢を粉砕し、故郷を、土地や家を、家族を守るのだ。そのような決意を胸に、これまで王家の様々な戦略によって散々に煽られた戦意を燃料として果敢に武器を振るう。幸いにも、相対する敵も同じ素人の徴集兵であり、広い戦場においてこの局所に限っては味方が多勢を維持している。開戦までに部隊長たる志願兵より多少の訓練を受けたこともあり、彼らは正規軍人たちの数の不足を補う戦力として十分に機能していた。
大半の者が勇ましく戦っていることで、金で雇われた傭兵たちも真面目に己の役割を果たす。いざ敗走の段になれば逃げ足の速さでは徴集兵にも勝る傭兵だが、勝ち目があるうちは徴集兵よりも遥かに頼れる戦力だった。
エーデルシュタイン王国側の狙い。敵軍と真正面からぶつかりつつ、陣形を維持する。その目標は白兵戦の最初の段階では概ね果たされる。が、それもいつまでもは続かない。
アレリア王国側の前衛歩兵より後ろにいた各部隊が、いよいよ追いついて前進を完了する。そして、アレリア王国軍と貴族領軍と傭兵から成る五千の弓兵部隊による曲射が、エーデルシュタイン王国側の前衛を襲う。
降り注ぐ矢の数は敵弓兵部隊の規模に比して少ない。味方の帝国軍弓兵部隊が漆黒弓の長射程を活かし、両軍の前衛を飛び越えての遠距離攻撃で敵弓兵を牽制し始めた結果だった。
とはいえ、元が五千もの規模を誇る敵弓兵部隊による攻撃は、やはり苛烈。絶え間な降り注ぐ矢が兵士たちの命を次々に奪い、戦闘力を削ぎ、隊列の維持をじわじわと困難にしていく。矢の雨に耐えながら、エーデルシュタイン王国側の前衛は懸命に戦い続ける。
敵が接近してきたことで、帝国軍以外のエーデルシュタイン王国側の弓兵も、味方前衛を援護するための激しい曲射をくり出している。帝国貴族の手勢から成る千の弓兵部隊も、傭兵も、もちろんエーデルシュタイン王国軍と貴族領軍の混成弓兵部隊も。敵と相対する歩兵たちの戦いを少しでも楽にするために、敵前衛を目がけてまさしく矢継ぎ早の攻撃を展開する。
そうして敵の徴集兵を殺し、殺し、殺し、それでも敵側の攻撃の勢いは衰えない。殺した端から次の兵が前に出てくる。
ただ徴集されただけの民兵とは思えない、絶え間ない前進と攻撃。その原因は彼ら前衛歩兵の最後方よりさらに後ろにあった。
アレリア王国側の後衛の正規軍人たちは、前衛の徴集兵たちを前へ前へと追い立て続ける。怒鳴り、突き飛ばし、蹴りつけ、さらには剣や槍を振う。逃げようとした徴集兵を殺して見せ、他の徴集兵たちを脅すことまでしながら、敵に向かって進め、敵を殺してこい、そうけしかける。
最後尾の徴集兵たちがそうして前進を余儀なくされれば、その波は最前列まで届く。二万を超える人波に逆らえる者などいない。最前列の徴集兵たちは、嫌でもエーデルシュタイン王国側の陣に向かって進むしかない。
こうなると、兵の練度などもはや関係ない。アレリア王国側の徴集兵たちはすなわち、長大で分厚い肉の壁。それも自ら動き、こちらを押し潰し飲み込まんと迫りくる壁。武芸で勝るエーデルシュタイン王国側の正規軍人たちは、しかし体力を消耗させられ、追い詰められていく。
倒しても倒しても途切れない目の前の敵兵。溜まる疲労。空からは敵弓兵部隊の矢が、こちらと対峙する敵歩兵最前面への誤射も厭うことなく降り注ぐ。力尽きた仲間が、運悪く矢を受けた戦友が、一人また一人と倒れていく。数こそ少ないが確かに死んでいく。
最前面中央のアルブレヒト連隊歩兵大隊は、レベッカの指揮の下で未だ堅牢な隊列を維持している。それに側面を守られるようにして、並ぶ王国軍歩兵たちも懸命に隊列維持に努める。が、それでもその場に踏みとどまることは叶わず、じわじわと後退を強いられる。陣の両端に近づくほどに状況は悪くなる。隊列が乱れ、より後ろに並んでいる者たちも敵の最前面とぶつかり合う事態となっていく。場所によっては、徴集兵が最前面を担う状況に陥っていく。
エーデルシュタイン王国側の歩兵部隊は、両翼から押し込まれるようにして崩れ始める。
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