第136話 幕間の冬①
冬の只中。本格的な軍事行動をとれない気候の中でも、決戦に向けた準備が止まることはない。
前線たる西部王家直轄領や、王国の中心たる王都では物資の集積や輸送準備が進み、一方で王国各地では、冬明けの兵力徴集の用意が行われる。
気温が多少なりとも上がる日中、厚い外套を着込んだ王国軍や貴族領軍の軍人たちが、都市や農村へ駆ける。主家の布告を届けるために。
ある日の午後。ドーフェン子爵領の西方、辺境の小都市ボルガにも、子爵領軍の騎士が伝令に訪れた。伝令より報告を受けた駐留部隊の隊長――盗賊との戦いで戦死した先任のデニスに代わり、駐留部隊を率いてボルガを守っている騎士が、広場に置かれた壇上に立つ。
「ドーフェン子爵閣下のご命令により、このボルガからも最低十人、徴集兵を送り出すことになった。晩冬になったら戦場に発つ。俺も参戦するので道中は一緒に行ってやるが、戦場では領軍と徴集兵は別行動になるからそのつもりでいろ。自分から徴集に応じる者がいれば、今ここで名乗り出てくれ。いなければ男連中から適当に選ぶ」
騎士の言葉に、集まった民衆の間でざわめきが起こる。
戦場での伝説的な戴冠式の話は、ボルガにも届いていた。ボルガを代表して戴冠式の場に立ち会った者たちから詳細が語られていた。
だからこそ、誰もが思った。いよいよこのときが来たのだと。
間もなく、数人の男が名乗り出る。戴冠式を実際に目撃し、その様子をこれまで熱く語ってきた者たちだった。続いて、さらに何人もの男たちが自ら従軍を申し出る。伝え聞いた女王の言葉に感化され、士気高くある者たちだった。
彼らの顔には緊張や不安もあるが、何より土地や家族を守ることへの強い決意があった。
その様を見ながら、ブルーノは意を決して数歩進み出ると、手を挙げた。
「……俺も行く。俺を徴集兵にしてくれ」
その行動を見て、隣に立っていた、少し前に結婚したばかりの妻が驚愕する。ブルーノが挙げた手を慌てて下げさせようとする。
「ちょっと、何言ってるのよ。戦争なんかに行って、もし死んでしまったら今までのあなたの努力はどうなるのよ。他にも男の人は大勢いるんだから、何もあなたが行かなくたって……」
心配そうな妻の表情に、彼女が自分を心配してくれる事実に、ブルーノは思わず笑みを零す。
ブルーノにとって従妹にあたる妻は、両親からブルーノとの結婚を打診された当初、ひどく冷たかった。実兄を盗賊に殺された上に、不良の従兄と結婚することになるかもしれないと聞かされたのだから、無理のないことだった。
その彼女も、ブルーノの必死の努力を次第に認めてくれるようになった。彼女と幸せな結婚を果たしたときこそが、自分の努力が報われたとブルーノが最も感じた瞬間だった。
最初はあれほど自分を嫌悪していた彼女が、今は伴侶として心配してくれている。それだけで戦いに臨む価値があるとブルーノは思った。
「俺が努力したのは、死んだ従兄に代わって自作農家の跡取りの立場を継ぐためだ。仕事を覚えるだけじゃねえ、これからボルガの中心に立つ一人として、その義務も受け継ぐつもりで頑張ってきたんだ……ここでまた逃げたら、俺は何のために生き延びて、何のために努力してきたのか、それこそ分からなくなっちまう」
自分たちボルガの住民は、盗賊の襲来を前に一度生きることを諦めた。そんな自分たちを救ったのはたった一人の孤児上がりの青年だった。
マティアス・ホーゼンフェルト伯爵は壮絶な戦死を遂げ、今はフリードリヒが跡を継いでホーゼンフェルト伯爵になったという。遥かな高みへ上ってしまった同郷の青年が、またボルガへ帰郷したとき。自分は命惜しさに義務を放棄し、戦争から顔を背けたと言うつもりか。
どうしようもない人間だった自分は、今後ボルガの顔役の一人になるのだ。であれば、皆の先頭に立って町を、土地を、家族を、守らなければならないのだ。
自分が戦わずに、代わりに他の誰かに過酷な務めを押しつけて、この先どうやってボルガの社会をまとめる役割を担うというのだ。顔役が守らない町に、夫が守らない家族に、一体どんな幸福な未来があるというのだ。
縋りつく妻の頭を、ブルーノは優しく撫でる。
「俺が義務を果たすのは、結局は全部お前たちのためなんだ。俺はお前を、お前の腹の中にいる赤ん坊を、守らないと駄目なんだ。戦争がボルガまで来ないように、俺が戦争に行くんだ。頼む、分かってくれ」
ブルーノが真摯な表情で語ると、妻は諦念混じりの表情を見せ、頷いた。彼女は生まれながらに土地持ちの自作農家の娘。この家を継ぐ者の義務は元より理解しており、夫が自分とお腹の子供に向ける愛情と誠意も認めてくれている。
結局、徴集兵としての従軍に、自ら臨むことを名乗り出た者は十七人いた。
そこからくじで十人が選ばれ、ブルーノもそこに含まれていた。
・・・・・・
アレリア王国ロワール地方の東部。
一応は国境地帯にあたるこの地域は、しかしユディト山脈という天然の要害がそびえ立っているために、平原に近い場所を除けば直接の戦火とはほとんど無縁だった。いくつもの農村が点在し、ロワール地方の食料生産を担う牧歌的な地域としてこれまで存在してきた。
そんなロワール地方東部も、大規模な決戦が迫る今の時期ばかりは、戦争と無縁ではいられなかった。アレリア王国軍や貴族領軍の騎士が村々を巡り、晩冬の兵力徴集に応じるよう王家や領主家の命令を伝えた。
ベイラル平原に近く兵を集めやすい利点もあってか、動員される徴集兵の数は村々の人口に比して多かった。重い負担を前にして、住民たちの間には暗い空気が漂った。
さらに追い打ちをかけるように、食料供出の命令も届けられた。やはり戦地に近いことから、この地域の農村は輸送の手間が小さい食料供給地と見なされ、食料生産量に対して少なからぬ物資の供出が命じられた。
ロワール王国時代は掠奪に近いかたちで軍に食料をとられる例も多かったことを考えると、相場と比べて妥当な、あるいは多少割の良い価格で食料を買い上げていくアレリア王国の軍勢の振る舞いは、良心的と言えるものだった。とはいえ、いきなり備蓄を供出させられることは、やはり住民たちに不安をもたらした。
蓄えが心許なくなった農村の住民たちは、冬の間はあまり出ない村の周辺に今年ばかりはくり出し、より多くの食料確保に臨む羽目になった。降雪のある日を避けながら、他の季節と比べて痩せている森に踏み入り、野草や木の実、冬眠しない類の獣を探し、苦労しながら食料の足しを集めていた。
その過程で、少なからぬ者たちが奇妙なものを目撃した。
当初、目撃例の多くは、ユディト山脈の麓に広がる森林地帯、そのごく浅い場所で発生した。
ある者が言うには、人間とは思えない顔をした、赤い身体を持つ得体の知れない何かが、松明を手にうろついていた。
ある者が言うには、真っ赤な恐ろしい姿をした化け物が、火を噴きながら近づいてきたので慌てて逃げ帰った。
ある者が言うには、血のように赤い肌と長い尻尾を持つ化け物が、何かを焼いて貪り食っているのを見た。
いずれの目撃談も、得体の知れない化け物、赤い身体、火を操る、といった共通点があった。
それらの噂を一つ二つ耳にした者たちは、最初は鼻で笑った。誰かが悪ふざけの冗談で言ったのだろう、あるいは冬の森が怖くて獣を見間違えるか、幻覚でも見たのだろうと。
しかし、いくつもの噂が近隣の村同士を駆け巡るようになると、本当に何か恐ろしい存在が森にいるのではないかと考える者が増えていった。そして次第に、噂はひとつの形へと定まった。
山脈に棲むユディトの悪魔が、平地に下りてきて人間の世界をうろついている。
そんな話がまことしやかに語られるようになり、その間も得体の知れない存在の目撃例は増え続けた。
王国軍や貴族領軍に助けを求める者もいた。しかし、ユディト山脈から悪魔が降りてきたから退治してくれ……などと言われても、まともに話を聞く軍人などいなかった。悪魔退治を嘆願した者たちは、決戦の準備で忙しいのだからと軍人たちに軽くあしらわれた。
戦争の気配が近づく中での、不気味な事態の多発。住民たちは不安を募らせ続けた。
そしてついには、得体の知れない存在は人里近くでも目撃されるようになった。夜半、村のすぐ外で何かが火を噴いている様を、何十という村人が揃って目の当たりにした例が、ロワール地方東部のあちらこちらで複数、伝えられた。
この段になると、得体の知れない存在がユディトの悪魔であると、確定的に語られるようになった。そして悪魔が出没する理由については、ある憶測が有力なものとして広まった。
曰く、ロワール地方東部の民にとっては恐怖の対象だったエーデルシュタインの生ける英雄、マティアス・ホーゼンフェルト伯爵が死んだ。家を継いだのは孤児上がりの養子。山から下りてきたユディトの悪魔などと噂されている謎の男。そのユディトの悪魔が英雄に代わって貴族となった途端に、山から悪魔たちが現れて何か悪さをしている。これが偶然であるものか。
ユディトの悪魔に関する言い伝えは、国境地帯でも地域によって詳細が異なる。人を生きたまま食らう、生きたまま炙り殺す、不幸ばかりが降り注ぐ呪いをもたらす、命をむしばむ恐ろしい病をもたらす、他にも多種多様な、恐怖を煽る迷信がある。
そのように語られる恐ろしい存在が、自分たちの暮らす人里の近くまで来て何かしている。その事実は多くの民に不安を植えつけた。
一か月以上にわたって続いた悪魔の目撃例は、冬も後半になると、ぱたりと止んだ。不意に訪れた静けさも、かえって国境地帯の民衆の悪い想像をかきたてた。
なおも諦めず、軍に悪魔の捜索を求める者も少数いたが、学のない民の戯言と一蹴されて終わった。現場の軍人たちが煩い民を追い払って済ませ、噂が上層部まで報告されることはなかった。
★★★★★★★
お知らせです。
本作の書籍第1巻となる
『フリードリヒの戦場1 若き天才軍師の初陣、嘘から始まる英雄譚の幕開け』
の書影が公開されました。
近況ノートや作者のXアカウントでも公開しています。ご覧いただけますと幸いです。
素晴らしいイラストとキャラクターデザインは岩本ゼロゴ先生に手がけていただきました。
本文の方も大幅に加筆修正し、書籍版だけの外伝も複数書き下ろしております。
2024年7月25日、オーバーラップノベルス様より発売されます。
既に各販売サイトや書店での予約受付も始まっております。
皆様何卒よろしくお願いいたします。
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