第127話 起死回生②
それからの二週間で、防御陣地を中心とした一帯は様変わりしていった。
フリードリヒたち前線指揮官は、クラウディアの命令通りに動き、その結果として徐々に民が集まってきた。成人男子を中心に、少なからぬ女性や子供、自力で長く移動できる程度に体力のある老人たちも。前半の一週間は近隣から緩やかに、後半の一週間ではより広い範囲から急激に、集まる数は増えた。
さらに、クラウディアの到着予定日が迫る頃には、領主貴族たちもやって来た。大半は当主本人が、当主が急ぎの旅に耐えられない家は次期当主が名代として、僅かな供を連れた強行軍で続々と到来した。
全ての領主貴族家の代表者と、王国西部を中心に多数の臣民。総勢で一万に迫るほど大勢の人間が、丘とその周囲の平原に集った。
この間、王領からは大量の食料が送られてきた。輸送部隊だけでなく商人たちも使い、山のような食料が今も届き続けている。さらにはまとまった資金も送られ、周辺地域からの食料買い付けも進められている。これらは今後ここで防衛線を敷く兵力の維持はもちろん、集った民をこの数日間食わせるための食料でもあった。
「それにしても、よくこれだけの人間が集まったもんだな……敵に動きがないままでよかったぜ。こんなところに進軍なんかされた日には大惨事だ」
もはや混沌と呼ぶべき光景を見渡しながら、ため息交じりに言ったのはディートヘルムだった。
数のみを見れば一万近く。しかしその過半は徴集兵とも呼べない民の単なる群れであり、とてもではないが戦力とは見なせない。領主貴族たちの供は道中の護衛以上のものではなく、こちらも兵力として数えられない。
ここに数日留めることしか考えられていない烏合の衆。おまけに、元よりいた徴集兵たちの落ちきった士気が伝播し、そこへ国王崩御の布告も加わり、漂う空気はひどく重い。民は皆、自分たちが何故ここに集められたのかも分からず、暗い顔でただ時間が流れるのを待っている。こんなところへ敵軍がやって来れば、大混乱は必至だっただろう。
幸いにも、アレリア王国側はそんなことをしている暇はないのか、あるいはこちらの異様な状況を何かの罠と警戒でもしているのか、下手な動きは見せていない。相変わらず二、三千程度の兵力で要塞を進軍拠点化する作業に勤しんでいる。
「そこは王太女殿下としても、敵が動かないことに賭けていたんだろうね。こんな状況では、まったく賭けに出ずに何かを成すことは難しいわけだから」
ディートヘルムの隣で、フリードリヒは苦笑を零す。
それから間もなく、二人のもとに到着したのは王家の先触れだった。王家の一行が今日中に到着することは今朝のうちに別の先触れから伝えられているので、新たにやって来たこの先触れは、一行の到着が近いことを伝えるためのものだった。
街道上で出迎えの準備を整えたフリードリヒたちは、東から行軍してくる一団を視界に捉える。
警護につく近衛隊と、その応援としてアルブレヒト連隊の一部。防衛線へのさらなる援軍として王領から動員された徴集兵。それ以外にも大勢の非戦闘員や、王領方面からの証人として連れてこられた民。それらの先頭に立つのは、まさに王太女クラウディアその人だった。
彼女が自ら最前に立っていることに内心驚きながらも、フリードリヒとディートヘルムは敬礼を示し、前線指揮官として主君を出迎える。二人の後ろでは、出迎えの一群に加わっている両連隊の幹部たちが倣う。
「王太女殿下」
「出迎えご苦労……指示通りに準備をしてくれたようだな」
まず二人に言葉をかけたクラウディアは、それから群衆が集っている光景を見回す。彼女の後ろでは、近衛隊長グスタフ・アイヒベルガー子爵が全隊に停止命令を下す。
「民はこの西部王家直轄領だけでなく、王国西部の各貴族領や、一部は王国南東部からも集まっております。また、領主貴族たちも既に、全ての家から当主あるいは名代が集いました」
「何よりだ。王国北東部の民は、アルブレヒト連隊から借りた騎士や兵士たちがいる……これで実質的に、王国全土から貴族と民が集ったことになる。これから始まることの証人として」
クラウディアは笑みを見せた。その表情からは、国難の中で父王を失ったことへの不安や疲れは微塵もうかがえなかった。これまでにもフリードリヒたちが見てきた、父王の代理として堂々と国政を取り仕切る王太女の姿だった。
そして今日、彼女は君主の代理ではなくなる。君主そのものになる。
戴冠式が執り行われる。
・・・・・・
おそらく事前に王都で何度か予行演習が行われたのか、クラウディアが伴ってきた官僚と聖職者たちの動きは迅速だった。典礼大臣の指揮のもと、防御陣地のすぐ近くにある丘の上に、瞬く間に儀式の場が作られた。
儀式の舞台となる巨大な絨毯が大地に敷かれ、儀式の背景となる巨大な幕が張られる。辺りには王家の紋章が記された無数の旗が並ぶ。
そうして準備が進む様を、フリードリヒは邪魔にならない位置から眺めていた。傍らにはいつものように、ユーリカが寄り添っている。
そこへ、後ろから鋭い声がかかる。
「異例尽くしの戴冠式だな。中央教会の壮麗なる大聖堂ではなく、このような平原の戦場で民衆を前に行われるとは」
フリードリヒが振り返ると、歩み寄ってきたのは声と同じように鋭い視線をたたえた老人――財務大臣ヘルムート・ダールマイアー侯爵だった。
「……確かに、これは異例のことです。平原の戦場で戴冠する君主は、エーデルシュタイン王国の歴史を見てもクラウディア殿下が最初となります。ですが、民の前で戴冠する最初の君主ではありません。建国の母ヴァルトルーデ女王陛下も、当時は増築の途上だった中央教会に貴族のみならず民を入れ、彼らを証人に戴冠を果たしたと歴史書で読みました」
「ほう、よく勉強しているな。さすがは聡明だ秀才だともてはやされるだけある」
努めて冷静な表情でフリードリヒが答えると、ヘルムートは皮肉で答えながら隣に並んでくる。
そして、じろりと横目で睨みつけてくる。
「だが、私を見るその意外そうな顔は不愉快なので止めてほしいものだ。文官の中でも一際年老いたこの私が、快適な宮廷を出て戦場に現れたことがそれほど面白いか?」
その言葉に、フリードリヒは驚いて片眉を上げた。
クラウディアが連れてきたのは、護衛や援軍、戴冠式に必要な人員だけではなかった。文官の筆頭であるヘルムートや、各大臣をはじめとした重鎮たちも、ほぼ全員が随行していた。
普段は王城に勤め、戦場とは縁のない人生を送る文官たちは、前線に出る武官とは対立しがちな存在。武官の支配する戦場に、政敵である彼らが揃って現れるのは前例のないこと。
ましてやヘルムートは、元より保守的な性格に老齢も加わり、先例主義の権化のような人物。その彼が、最前線の戦場で戴冠式を行うというクラウディアの独断であろう行動に付き合い、爵位と役職にふさわしい快適な待遇を望めないどころか、命の危険すらもあるこの戦場にやって来た。領主貴族でも高齢の者は名代を寄越しているのに、齢七十に近づいている文官の彼が自ら随行してきた。この事実に驚きを覚えなかったと言えば嘘になる。
その内心を、フリードリヒは上手く隠しているつもりだった。
「宮廷の政治の世界で人生の大半を過ごしてきた身だ。卿の本心程度、分からぬはずがなかろう……私も、よもやこの身を戦場に運ぶことになるとは思わなんだ。だが、どこであろうとこの国の新たな君主が誕生する場に、代々の重臣たる私が居合わせないことなどあり得ぬ。王太女殿下がそこで戴冠なさるのであれば、戦場でも地獄でも付き従うのが我が忠誠の証だ。見くびるなよ」
意外と思われたことが心外だと言わんばかりの声で、ヘルムートは言った。そこには王家の側近としての意地が垣間見えた。
「これは失礼いたしました。閣下のお覚悟、敬服いたします」
「ふんっ、そうやって隙のない態度と言葉で恭しく返してくるところも、父親によく似ている」
フリードリヒが素直に詫びて一礼すると、ヘルムートはますます不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「それと、私のことは閣下ではなく卿と呼べ。卿の父君が私をそう呼んだようにな。今や卿こそがホーゼンフェルトの家名を背負う伯爵なのだ。家名と爵位にふさわしい振る舞いを見せよ……マティアス・ホーゼンフェルト伯爵は王国にとって得難い将であり、王国が歴史に名を刻んで称えるべき英雄だった。卿の父と同じ時代に王家に仕えたことを誇りに思うぞ」
「……光栄極まるお言葉、亡き父に代わり感謝申し上げます。ダールマイアー卿」
養父の政敵であり、同志であった老貴族に、フリードリヒは視線を逸らさず答えた。
・・・・・・
それからさほどかからず、準備は終わる。
丘の上に形作られた儀式の場。そこに生まれたのは俗世ならざる空間だった。
背景を飾る巨大な幕。足元を彩る巨大な絨毯。王家の威容を示す数多の紋章旗。その周囲には、さらに王国軍旗も並べられている。
そして集った、正装の貴族たち。クラウディアが伴ってきた文官たちはもちろん、クラウディアの求めに応じて集った領主貴族たちも、重要な式典を前にできる限り着飾って立ち並ぶ。
前線の将たる連隊長たちも、今は王国貴族の一員として。北部国境監視の指揮を部下に任せ、クラウディアと共に参上したレベッカ・アイゼンフート侯爵。そしてディートヘルム・ブライトクロイツ。彼らの隣にフリードリヒも立つ。
身につけた軍服の上着とマントは、マティアスのもの。幸いにも養父と極端な体格差はなかったので、多少の手直しを加えた上で今この場で着る分には違和感はない。
儀式の場を前に正装の王国貴族が集結した、その様でも既に十分な存在感と説得力があった。そしてさらにその周囲に、完全装備の王国軍が整列する。
一際目を引くのが、王家の直轄であり、儀仗も任務のひとつとする近衛隊だった。数は一個大隊三百人。それが整然と並ぶ様は圧巻で、鎧は陽光の下に輝きを放つ。
前線の部隊が言うところの「お綺麗な大隊」、その真価がある意味では最も発揮されていた。
もちろん、各連隊もそれに負けてはいない。この場の周辺警戒や非常時の即応を務める部隊を除き、総勢およそ千人。使い込まれた装備をできる限り磨き、直近の実戦を生き抜いたことによる覇気とその人数を迫力の根拠に、堂々と並ぶ。
それら全ての威厳が融合した結果、完成したのはまさしく歴史の一幕。名画をそのまま具現化したような空間。これから名画として永遠に記録される光景。実際、幾人もの宮廷画家や戦場画家たちが、やや離れた位置で忙しく筆を走らせている。
その空間の前へと集合を命じられた民は――思わず息を呑み、あるいは逆に感嘆の息を吐きながら、儀式の場を見た。
西部王家直轄領をはじめとした田舎の民はもちろん、王国一の都会たる王都の民でさえも、これほどの威容は見たことも聞いたこともなかった。それは彼ら平民の想像力の限界を超えた圧巻の光景、まるで神話やお伽噺の世界だった。
エーデルシュタイン王家が為政者であり、王族が天上人である証左を、平民には全容を想像できないほどの力を王家が持つことの証左を、彼らはその威容の中に見た。それまで彼らを満たしていた不安は丘の上の輝きに照らされて霧散し、新たに恍惚と高揚が生まれ、静かに広がり始めた。
数千もの民が惚れ惚れとしながら儀式の場を眺めていると、精緻な模様の刻まれた鮮やかな幕の前に、王太女クラウディアが姿を現す。
彼女のために作られ、彼女だけが身につけることを許された、豪奢で美麗な赤の軍装。儀礼服も兼ねたこの軍装に身を包み、荘厳な光景の主役として、俗世離れした空間の主として、クラウディアは立った。
エーデルシュタイン王国の歴史に、そして大陸の歴史に残る戴冠式が、いよいよ始まった。
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