第126話 起死回生①

 アルンスベルク要塞の陥落からおよそ一週間。後退したフェルディナント連隊とヒルデガルト連隊は、周辺より徴集兵を集め、王領より送られてきた援軍の第一波とも合流し、三千ほどの兵力を束ねて防衛線の構築に努めていた。

 要塞陥落から一夜明けた後、さらに東へ後退。要塞より二日の距離にある街道の傍ら、アレリア王国の軍勢が東進する際に無防備な側面を晒さざるを得ない地点で丘の上に防御陣地を築き、敵が王領を目指して進軍してきても、こちらの残存兵力を排除しようと進軍してきても、当面は守り粘れるような態勢を築こうとしていた。

 かき集められた徴集兵たちは戦力としては頼りないが、敵の攻勢を阻害する空堀や簡素な土壁の構築、木の伐採と木柵の作成、進軍を妨害するための街道の意図的な破壊など、土木作業においては有用な肉体労働力として働いてくれている。部隊を維持するための補給に関しては、輸送部隊が問題なく行ってくれている。

 他方では、王家の事前の指示もあり、王国西部の領主貴族たちも行動を開始。彼らが領軍と徴集兵を動員して北方平原を守り、この西部王家直轄領の北側にまとまった戦力が置かれることで、いざというときはこちらと連係をとることも可能となっている。


 幸いにも、アレリア王国側はさらなる進軍の気配を見せていない。逆に、要塞攻略の要となっていた精鋭部隊が退却していき、代わりに貴族領軍や徴集兵など、質的に劣る戦力が抜けた頭数を補っている。物資の運び込みなども始まっている。

 それらの状況から考えて、ノヴァキア王国への侵攻から大規模に動き続けていた敵側も、さすがに息切れしてここで一度態勢を整えるものと思われた。

 敵の侵攻の足は止まり、当面再開の様子はない。それは凶報ばかりが続く現在のエーデルシュタイン王国にとって、唯一の吉報だった。敵の足がただ止まったという報せを吉報と捉えなければならない事実が、この国の苦境を示していた。

 そして敵は、埋めた空堀を掘り返し、壊れた跳ね橋や城門を修復し、城壁上に常に多くの兵力を配置し、要塞を固く守る準備も進めているという。こちらは敵の進軍を押しとどめることはできても、東と北からの不意打ちで要塞を奪取するのはもはや難しい。

 二十余年前の戦争で、不意打ちを受けて手薄な要塞を奪取されたロワール王国と同じ愚を犯すつもりは、どうやらアレリア王国にはないらしかった。


「頭数は最低限揃ったし、防御陣地もどうにかそれらしくなってきたが……問題は士気だな」


 二個連隊が共同で置いた司令部の天幕。何もなくとも日に一度は開いている軍議の場で、呟いたのはヒルデガルド連隊長代理のディートヘルム・ブライトクロイツだった。

 国境防衛の要だったアルンスベルク要塞の陥落。そして、国を守る王国軍の象徴的存在となっていた、エーデルシュタインの生ける英雄の戦死。長くベイラル平原を守ってきたヨーゼフも、一命はとりとめたものの、老齢であることも災いしてか怪我の状態が悪く体力も消耗し、指揮をとれる状態にない。

 それらの事実は、当然のように皆の心に暗い影を落としている。指揮を引き継いでいるフリードリヒやディートヘルムの能力と実績は、この際関係ない。これだけの凶報が立て続けに聞こえた後となれば、落ち込まない者などいない。

 結果、徴集兵たちを中心に著しい士気の低下が起こっている。あのアルンスベルク要塞が奪われたのであれば、エーデルシュタインの生ける英雄が死んでしまったのであれば、熟練の老将が倒れたのであれば、自分たちはこのまま勝てないのではないか……そのような不安が伝播している。

 この士気低下を放置していてはまずい。今のところ何とか士気を維持している王国軍人たちも、騎士はともかく末端の兵士たちなどは、このままではどうなるか分からない。今集っている徴集兵たちの不安が伝われば、これから集う徴集兵や、その他の民にも悪影響が出る。

 そうして戦う前から負け戦の空気が漂えば、領主貴族たちなども、端から戦いを諦めてしまう者が出てくるかもしれない。

 兵卒や徴集兵たちの士気壊滅。領主貴族たちの不参戦。そのような状況になれば、本当に決戦の前に敗北が決まってしまう。

 とはいえ、この状況で徴集兵たちの士気を高める有効な手立てはない。英雄の後継者として見出されたフリードリヒも、名家の継嗣で優れた騎士であるディートヘルムも、民の間で無名というわけではないが、偉大な先達にはやはり及ばない。その立ち姿を見せるだけで皆に勇気を与えたマティアスや、その一喝で指揮下の者たちに覇気を込めたヨーゼフのようにはいかない。


「つくづく、ファルギエール伯爵には腹が立つな。仕える国の安定そのものを賭けに使って策を講じるとは、頭は良いが馬鹿だ」

「あはは、言い得て妙だね」


 ディートヘルムの容赦ない批評に、フリードリヒは微苦笑を零す。

 王国中央の守りの要である精鋭たちを惜しみなく最前線に投入し、大陸北部から迎えた猟兵たちも効果的に利用し、ノヴァキア王国の国境を突破して電撃的に征服。併合を終えて精鋭たちを中央に戻すと見せかけて、またもや電撃的な進軍でアルンスベルク要塞を包囲し、攻撃。フェルディナント連隊が態勢を整える間もなく参戦せざるを得ない状況を作り出し、奇襲によって要塞防衛部隊ごと打ち破り、最後には要塞を奪取する。

 ツェツィーリア・ファルギエール伯爵の智慧と、その大胆な策を許容するアレリア王の度胸、そしてアレリア王国の国力が合わさったからこそ実現した作戦。芸術的なまでに鮮やかだが、同時に恐ろしく危険な賭けでもある。

 これほど長く王国中央に精鋭部隊が不在となれば、どのような悪影響が出てもおかしくなかっただろう。下手をすれば、この数十年で併合された地域の貴族や旧王族が、中央に隙ありと見て反乱に及んでいたかもしれない。

 それがなかったとしても、替えの利かない虎の子の戦力である精鋭たちがもし侵攻で大損害を負っていたら、その後のアレリア王家の力は大幅に削がれ、それがそのまま歪な大国の崩壊に繋がった可能性もある。

 そこまでの危険を伴った策も、絶対の成功が見込まれるものではない。ノヴァキア国境の戦いで猟兵部隊がしくじれば。ノヴァキア王国の併合に手こずれば。アルンスベルク要塞への電撃的な進軍が、途中でエーデルシュタイン王国側に露呈していれば。長く複雑で大規模な作戦だからこそ、失敗に繋がる要素はいくらでもあったことだろう。


「確かに、愚かしいほど危険な作戦だった……だけど、ファルギエール伯爵は成功した。それが全てだよ。彼女は恐るべき智将で、彼女の策は見事なものだった」

「……達観してるな、フリードリヒ」


 養父の仇に対する称賛ともとれる言い方に、ディートヘルムが意外そうな顔で返した。


「戦場で講じる策なんて、どれも賭けみたいなものだから。僕がいままで講じた策も、失敗の可能性は常にあった。幸運にも全部が成功したおかげで、英雄の後継者にふさわしい逸材だと評されたけどね……ファルギエール伯爵も条件は同じだよ。彼女は知略を巡らせ、臆することなく賭けに臨み、そして凄まじい戦果を手にした。であれば勝者として認めるべきだ」


 軍人が戦うのはそれが務めだからであり、そこに私情を挟む余地はない。戦争で誰を殺しても喜ぶべきではなく、誰を殺されても恨むべきではない。

 亡き養父はそう語っていた。だからこそ、フリードリヒは憎しみによってファルギエール伯爵への評価を歪めることは決してしない。


「間違いなく、彼女は勝者だ――ただし緒戦のね。決戦で勝ち、最終的な勝者となるのはこっちだよ。僕はファルギエール伯爵に勝ち、エーデルシュタイン王国はアレリア王国に勝つ」


 静かに、しかし獰猛に。気高い獣のような気配を纏いながら語るフリードリヒを見て、今度はディートヘルムが微苦笑を零す。


「お前、ますますホーゼンフェルト閣下に……先代閣下に似てきたな」

「そうかな?」


 自分では意識していなかった評価に、フリードリヒは少しの照れを感じながらはにかむ。


「ああ。纏う雰囲気が似てきた。頼もしいかぎりだ……もちろん俺も勝ちを諦めるつもりは毛頭ないが、そうなるとやっぱり、どうにかして兵士どもの士気を上げる方法を考えないとな。集まった奴らと、これから集まる奴らの全員に勝機があると思わせる必要がある。俺たちがその気でも、兵士どもが勝てる気にならないと、最悪の場合は決戦の前に軍勢が崩壊する」

「それは違いないね。とはいえ、今の僕らには彼らの士気を上げる材料がない」


 フリードリヒも策を考えてはいる。しかし、妙案は未だ浮かんでいない。戦術面で工夫してどうにかなる問題ではない以上、今まで奇策を編み出したようにはいかない。

 士気を上げるには、物理的に勝ち目を見せるか、精神的に希望を見せるか、そのどちらかしかない。前者は難しい。エーデルシュタイン王国はアレリア王国に、国力で明確に劣る。おまけに手痛い敗北を喫したばかり。その事実は既に広まりつつある。

 そして後者も。どうあがいても、今の自分では父マティアスのような皆の希望になり得ない。


「いや……それなら……」


 ふと、フリードリヒの頭の中にひとつの考えが浮かぶ。

 記憶の中にある光景。英雄の継嗣を騙ったフリードリヒの言葉に釣られ、戦意を宿したボルガの住民たち。王子と公爵による謀反という大事件の後に、国王ジギスムントの堂々たる姿と語り口を受けて、王家への失望ではなくむしろ信頼を抱いた王領民たち。


 人は、民は、空気に飲まれる。彼らは理屈ではなく空気に心を動かされ、理性ではなく感情で決断し行動する。


 今、この国そのものの空気を動かすことのできる人物は誰か。十分な知名度を得る前に英雄の後を継いだ自分では、まだない。

 ただ一人、己の見せ方と語り方によっては民の心を動かし得る人物。それは――


「伝令! 王城より鷹の伝令です!」


 司令部天幕に、鷹用の小さな伝令文を手にした騎士が駆け込み、フリードリヒのまとまりかけた思考を遮る。

 ディートヘルムは未だ貴族家継嗣かつ連隊長代理の立場なので、伯爵家当主であり正式な連隊長であるフリードリヒが、この場の最上位者として文を受け取る。丸められた文を広げ、そこに刻まれた短い文章に視線を向ける。


「……国王陛下、崩御」


 最初の一文を読み上げると、集っている一同に大きな衝撃が走る。読み上げたフリードリヒ自身も衝撃を受ける。

 国王ジギスムントは、もはやいつ崩御してもおかしくない病状であると一部の重臣たちは聞いていた。聞いていない者も、おおよそのところは察していた。

 誰もが、そう遠くない日にこの報せを聞くことを覚悟していた。偉大な王を見送ることを覚悟していた。しかし、今このときなのか、という思いを皆が抱いた。


「まだ続きが……この報せを広く布告せよ。二週間後、王太女は前線に参上する。できるだけ多くの都市や村より、老若男女問わず満遍なく民を集め、迎えよ」


 次いで読み上げられた内容に、一同は今度は疑問を抱く。


「……布告するのですか? 今この時、国王陛下が崩御されたことを?」


 最初に疑問を口に出したのは、今はディートヘルムの補佐に回っている、ヒルデガルド連隊の連隊長付副官だった。


「ですが、そんなことをすれば、兵や民はますます不安を抱くでしょう」

「それに、そう遠くないうちに敵側にも知られることになる。この国が王を失ったことを知った敵が勢いづく可能性も……布告するより、むしろできるだけ長く隠すべきでは?」


 リュディガーが言い、ヒルデガルド連隊の弓兵大隊長の言葉が続く。


「老若男女問わず民をかき集める理由も分からないな。徴集兵にもならない奴らを無計画に集めたところで、この戦場では足手まといの無駄飯食らいになるだけだろうに」

「追って伝令役の騎士が到着し、詳細を説明してくれるのでしょうが……果たして殿下は一体どのようなお考えで……」


 苦い表情でディートヘルムが呟き、その後に続いたグレゴールの言葉を最後に、再び天幕の中に沈黙が広がる。

 鷹に長距離を飛ばせるとなると、持たせられる伝令文はごく小さい。そこに記すことのできる内容は限られる。おまけに、南方から輸入された鷹には個体差があり、大柄な個体は緊急報告を送る可能性の高い各連隊に優先して回されている。

 そのため、王城にいる小柄な鷹では届けられる伝令文はさらに小さなものとなり、複雑な事情説明を成すのは不可能。王太女クラウディアは、事実の説明とこちらへの指示に伝令内容を絞ったのだと分かる。

 とはいえ、現状では皆クラウディアの意図が読めず、困惑を通り越して不安を抱き始めていた。

 そのような中で、フリードリヒは――微笑を浮かべて伝令文を見下ろしていた。


「……フリードリヒ?」


 軍議の間ずっとフリードリヒに視線を向けているユーリカが、その顔を見て言う。ユーリカの言葉で、他の者たちもフリードリヒの微笑に気づく。


「王太女殿下も、僕と同じ策を考えておられるみたいだ……まずは、殿下の御指示の通りに国王陛下崩御の布告を。そして、できるだけ多くの人里から、これから起こることの証人として民を集めるんだ。各地域に速やかに使者を送る計画を、今日中にまとめよう。遠方からは馬車で民を運ぶことになるだろうから、その用意も。その後に起こることは、おそらく――」


 自身の考察が、新たな君主となるクラウディアの意図と一致していることを願いながら、同時に半ば確信しながら、フリードリヒは皆に語る。

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