第125話 偉大な父、偉大な王
アルンスベルク要塞包囲の報を受けた後、王太女クラウディア・エーデルシュタインの決断は必要十分に迅速だった。
まず、即応部隊たるフェルディナント連隊を援軍として要塞に送り、その上でグスタフ・アイヒベルガー子爵に命令を下し、近衛隊を軸としたさらなる援軍の編成を急いだ。王都とその近郊で民兵を徴集し、三千に迫る規模の軍勢を組織してベイラル平原に送り込むために準備を進めた。
並行して王国西部の各貴族領に伝令を送り、領軍、場合によっては領民からの徴集兵を動員して北方平原の守りをさらに固めるように命じた。総勢で千を超える兵力が北方平原に集まれば、もし敵の別動隊などがいた場合もその侵入を防ぐことが叶い、状況によっては北からベイラル平原に進軍させて援護を担わせることもできる。
それらの対応を、アレリア王国側の巧みな攻勢が上回った。
アルンスベルク要塞陥落。フェルディナント連隊、ヒルデガルト連隊ともに敗走。
マティアス・ホーゼンフェルト伯爵、戦死。
鷹による伝令の二往復で伝えられたそれらの凶報は、王城に激震をもたらした。このエーデルシュタイン王国の、まるで終わりの始まりを告げるかのごとき報せに、宮廷貴族から王家の使用人にいたるまで誰もが凄まじい衝撃を受けた。
そのように絶望的な報せが舞い込もうと、為政者たるエーデルシュタイン王家は事態を諦めるわけにはいかない。まずは前線指揮官たちの奮闘によって全滅が防がれた二個連隊への後方支援を継続し、その上で編成中の援軍を速やかに送り、新たに防衛線を築かなければならない。
それらの準備を急ぎ進めさせつつ、さらに先のこと――来たるべき決戦への備えを考えなければならない。遥かに悪化した状況で迎える決戦への備えを。
グスタフをはじめとした武官、そして財務大臣ヘルムート・ダールマイアー侯爵や外務大臣アルフォンス・バルテン伯爵など大臣級の文官も集った御前会議の場。
想定を超えて厳しい現状でどのように防衛線を敷き、迎える決戦をどう戦うか。どれほどの兵力を集結させられるか。その兵力を維持するためにどれほどの後方支援が必要か。それだけの準備を成すのにどれほどの金や物資が必要か。
山積する議題を、ときに臣下たちが意見をぶつけ合う中で着実に片付けていたクラウディアのもとへ――会議の流れを完全に止め、駆け寄ってきたのは王家の侍従長だった。
「……王太女殿下」
荘厳な会議室に飛び込んできた老齢の侍従長。彼女の顔は青ざめていた。取り乱してはいないものの、尋常でない報告を届けにきた様子、何かを怖がっているような様子だった。
常に冷静沈着な熟練の直臣が、そのような顔をするのを、クラウディアは初めて見た。近衛騎士たちも入室を止めないほどの、緊急の用件。冷静な侍従長が動揺を示し、御前会議の流れを止めてまで王太女のもとへ歩み寄る要件。
その内容を察して目を見開いたクラウディアの耳元に、侍従長は予想通りの言葉を語る。
「国王陛下の御容態が急変し、危篤の状態です。どうか急ぎ陛下の御傍へ」
侍従長の声は少し震えていた。外から凶報ばかりが届く今、城の内からも凶報を届けなければならないことをこそ恐れていたのだろう。彼女の気持ちはクラウディアにもよく理解できた。
今なのか。国境防衛の要を失い、英雄を失い、さらにこの上で偉大な王を失うのか。
たとえ老いて何も為せないとしても、名君ジギスムントはその存在そのものが、エーデルシュタイン王国の象徴として揺るぎない力を持っていた。その王が世を去ろうとしている。
神は今このとき、この国から偉大な王を連れていくというのか。
そんな嘆きをこらえ、クラウディアは無表情を堅持して口を開く。
「……分かった」
御前会議の中断を宣言し、クラウディアは会議室を去る。
・・・・・・
急ぎ向かった王の寝室には、既に死の空気が漂い始めていた。
「……陛下」
「来たか、クラウディア。私がくたばる前に間に合って幸いだ」
呼びかけるクラウディアの声は重苦しかったが、答えるジギスムントは言葉に冗談さえ交え、その声は思いのほか穏やかなものだった。
痩せきった体躯。枯れた肌。この一年半ほどでますます衰え、なんとか命を繋いでいるだけと言うべき状態となっている、かつては勇ましき王だった父。もはや誰が見ても死の間際と分かるほどに生気はなく、しかし今は目を開いて意識もはっきりしている様子。まるで喋る死者のようなその有様から、薬が使われているとクラウディアは理解する。
この薬が使われた以上、父に残された時間は僅か。ごく短い生命力の蝋燭が溶け落ちたとき、父の命の灯は消える。
隣に寄り添う王妃アレクシアと手を握り合いながら、ジギスムントは皮肉な笑みを浮かべる。
「国境地帯の現状は聞いた。ホーゼンフェルト卿の戦死についても。まさかあの英雄が、僅かな差とはいえ私より先に世を去るとはな……できることならば、アレリア王国との戦いの行く末を最後まで見たかったが、もはや叶わぬ夢だ。仕方あるまい。後は神の御許から眺めるとしよう」
まるで、楽しみだった芝居を見逃したかのような軽い調子で、ジギスムントは語った。おそらく彼は、元より己の目で決着を見届けられるとは期待していなかったのだろう。
「どうやら私は、かつてなく厳しい状況の中で玉座を去る君主になるようだ。そしてお前は、かつてなく厳しい状況の中で王冠を戴く君主になる。まったく、神は何を思ってお前にこのような運命を授けたのか」
苦笑混じりに語るジギスムントの枕元に歩み寄り、片膝をつき、クラウディアは悲壮な決意を固める。
「陛下。この国の王位を継ぐ者として、ここに誓います。必ずや――」
「勝てずともよい。守れずともよい」
クラウディアの言葉を、ジギスムントは遮った。予想だにしなかった父の言葉に、クラウディアは思わず目を見開いた。
「かつて宿敵であったロワール王国も、友邦であったノヴァキア王国も今はない。時代を遡って見れば、偉大なるルーテシア王国でさえ滅びたのだ。永遠に続く国などない。それは歴史が物語っている……我らがエーデルシュタイン王国にも、いずれ滅びの時が来よう。それがいつになるかは神のみが知ることだ」
唖然とするクラウディアをよそに、ジギスムントは天井を見つめながら語る。
そしてそこで、再び娘に視線を向ける。
「この家に、私の長子に生まれたというただそれだけの理由で、お前には大きな宿命と責任を負わせてしまった。この上で、異様な野心を燃やす隣国の覇王に国力で圧倒されながら、それでも必ずこの国を守り抜けなどと呪いをかけるつもりはない……どうせ私が何も言わずとも、お前は全力を尽くし、己の使命を果たそうとすると分かっている。だからあえてこう言おう」
ジギスムントはクラウディアに向けて手を伸ばす。枯れ枝のように細く骨ばった手で、クラウディアの頬を撫でる。
「己が考えるままに、好きなように振る舞え。結果を気にせず思いきりやれ。我が娘よ」
「……はい、父上。あなたの娘でいられて、私は幸福でした」
国王と王太女ではなく、父と娘として、二人は言葉を交わす。
「それは私の台詞だ。お前の父であったことは、我が人生で最良の幸福のひとつだ……では、残された時間はアレクシアと過ごそう」
そう言ったジギスムントに一礼し、最後にもう一度父を視線を交わし、クラウディアは去った。
クラウディアの見た生前の父、その最期の姿は、たとえ肉体が弱り衰えようとも表情と瞳に君主の威厳を保っていた。最期の一瞬まで、クラウディアにとって偉大なる父、偉大なる王だった。
・・・・・・
愛する娘の背を見送り、そしてジギスムントはアレクシアと目を見合わせる。表情にはようやく弱さと甘えが含まれ、数十年にわたって連れ添った最愛の妻と微笑み合う。
「……私は良き王だったか? 良き夫、良き父でいられたか?」
「ええ、もちろんですわ」
ジギスムントの問いかけに、アレクシアは迷うことなく、慈愛に満ちた声で答える。
「あなたの名前は、あなたの偉大な功績と共に歴史に残ります。そしてあなたが私たちにくれた愛と思い出は、私たちの心に残り続けます……この戦争の結末と、この国の行く末を見届けて、いずれ私もあなたのもとへ行きます。だけど、少し心配ですわ」
「心配? 一体何が」
「だって、あなたはとても寂しがり屋ですから。しばらくお傍にいてあげられなくなるなんて」
そう言って、アレクシアはジギスムントに優しく口づけする。
静かな時間が、穏やかな最期のひとときが流れる。
・・・・・・
父の寝室を辞したクラウディアは、主館の一角にある塔に上がった。
ここからは王都ザンクト・ヴァルトルーデが一望できる。エーデルシュタイン王国の中心たる美しい都市は、今はまだ国境地帯が墜ちたことなど知らず、美しいままに繁栄を謳歌している。
戦火がこの王都まで到達するか。あるいは、二個連隊が後退した防衛線までで押し止められ、またベイラル平原まで押し戻されるか。
戦乱の元凶たるキルデベルト・アレリア王が討たれ、戦火そのものが潰えるのか。
それは全て、これからの決戦によって決まる。これからの決戦に臨む将や騎士、兵士たちの奮闘に。そして何より、これからの決戦に向けて国を動かす自分の働きに。
決戦に備え、決戦の時がくればそこへ王国の全力をぶつける。その基本戦略は変わらない。しかし、決戦の迎え方は想定よりも遥かに悪い形となった。勝利の可能性が高いとは言い難い。むしろ低いと言うべきだろう。
では、このまま終わるのか。偉大な王を失ったこの国は、他の大陸西部諸国と同じように結局は力尽きて併合されるのか。ただ単に、その順番が最後であっただけなのか。
そんなはずはない。そのような運命を、新たにこの国の女王となる自分が受け入れていいはずがない。立場に強いられたわけではなく、自分自身がそう思っている。
だからこそ、考えろ。女王として、この国の新たな庇護者として、自分は決戦に向けて何ができるのか。
自分はこれまで、偉大な父王から何を学んできた。考えろ。
王都の風景を見渡し、王都の風を浴びながら思案を巡らせるクラウディアに、やがてひとつの策が天啓の如く舞い降りる。
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