第123話 新たな英雄①
過酷を極める撤退戦の末、フェルディナント連隊は戦場から逃げきった。それから間もなく、ヒルデガルト連隊と徴集兵部隊も、要塞からの脱出を果たして東へ退却してきた。
アレリア王国の軍勢は深く追撃を行うことはなく、奪取したアルンスベルク要塞の維持に専念するつもりのようだった。
後方に待機していた輸送部隊と退却時に合流し、少しでも敵から距離をとるために日が暮れた後も街道を東進。夜半になってようやく停止する。この距離ならば要塞の敵がすぐに襲ってくることはない。それだけを安心材料に、疲れ果てた騎士と兵士たちに休息をとらせる。
正確な損害を確認すると、死者と重傷者を除いた残存兵力は、二個の連隊でそれぞれ七百を割っていた。フェルディナント連隊はオイゲン・シュターミッツ男爵や騎士バルトルトをはじめ、経験豊富な古参軍人を多く失った。ヒルデガルト連隊も、複数の幹部士官や、退却に際して殿を務めた熟練の軍人たちを失っている。
そして、両連隊ともに連隊長が指揮不能の状態に陥っている。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵は胸にクロスボウの矢を受けて重体。ヨーゼフ・オブシディアン侯爵も、要塞からの脱出時に敵の攻撃を受けて重傷を負い、今は意識を失っている。
「うちの軍医の見立てでは、生き残れるかは五分五分だそうだ。手当ては済んだから後は体力次第だが、もう歳だからな。どうなるかは読めない」
ヨーゼフの容態についてそう語ったのは、連隊長代理を務めているディートヘルム・ブライトクロイツだった。
東門側の敵陣を突破する上で最も危険な先頭を指揮したディートヘルムと、同じ程度に危険な殿を指揮したヨーゼフ。ディートヘルムがかすり傷程度で済み、対するヨーゼフが命にかかわる負傷をしたのは、戦場が作り出す偶然の結果に過ぎない。
「そうか。オブシディアン閣下の回復を心から願ってるよ」
「ああ……ホーゼンフェルト閣下も」
ディートヘルムは多くを尋ねず、フリードリヒも無言で頷いたのみだった。
状況は極めて厳しい。エーデルシュタインの生ける英雄と、その英雄以上に長く王国軍を支えてきた老将。彼ら二人に頼ることはできない。国境防衛の要たるアルンスベルク要塞も失った。兵員の損害も大きい。これから先、西部王家直轄領が、王国そのものがどうなるか分からない。
生き残っている前線の軍人として、やるべきことは分かっている。しかし、すぐに全力で動き出せる状況ではない。フリードリヒたちフェルディナント連隊の幹部と、ディートヘルムたちヒルデガルト連隊の幹部は、夜明けとともにとるべき行動――後方への援軍と補給の手配や、周辺地域からの民兵の徴集など――を確認し合い、ひとまずそれぞれの連隊に戻って短い休息をとる。
とはいえ、フリードリヒも、グレゴールやロミルダ、リュディガー、オリヴァーといった連隊の幹部陣も、とても仮眠をとる気にはなれない。皆が願うのは、連隊の長であるマティアスが一命をとりとめること。英雄が死の淵から生還すること。
同時に、彼の負った傷を考えれば、それが極めて難しいことも理解している。戦場で数多の死を見てきた軍人だからこそ。
「……皆さん」
言葉もなく集っていたフリードリヒたちに、声をかけたのは連隊付の軍医だった。
東方からの移民二世である薄い顔立ちの軍医の、その無念そうな表情を見ただけで、皆がマティアスの運命を察した。
「結論から申し上げますと、連隊長閣下が助かる見込みはありません。あまりにも出血が多く、内臓にも傷が達しています」
残酷な現実を突きつけられ、しかし衝撃に声を上げるような者はいない。
フリードリヒも、表情を硬くしながら、努めて冷静でいようとする。隣に立つユーリカの手が、僅かにフリードリヒの手の甲に触れる。
「選択肢は二つ。閣下が少しでも命を長らえるよう、このまま安静を保つか。あるいは、死が早まる代わりに一時的に意識を取り戻されるよう、薬を使うかです」
その薬については、フリードリヒも聞いたことがあった。危篤の人間に使うことで、その者に残る生命力を全て引き出し、僅かな時間だけ意識を明瞭にさせる薬。主に、王侯貴族などに最期の言葉を語らせるために使われるものだという。
「どちらを選んでも、余命は数時間からせいぜい半日程度の差でしょうが……いかがいたしましょう」
軍医の言葉にフリードリヒが皆の顔をうかがうと、皆は逆にフリードリヒに視線を向けた。
「若様。ホーゼンフェルト伯爵家の継嗣である若様がご決断ください」
グレゴールの言葉が、全員の意思であるようだった。
「……では、薬を使ってください。閣下もこのまま旅立たれるよりも、皆に言葉を遺すことを望まれるでしょう」
数瞬の思案の後、フリードリヒは軍医に言った。
「かしこまりました。それでは……皆様、こちらへお越しください」
軍医に続いて、連隊の幹部たちは移動する。フリードリヒはユーリカに寄り添われ、皆に続きながら、小さく深呼吸する。
これから、英雄の最期に立ち会う。自身を見出してくれた養父を見送る。
・・・・・・
軍医に用意ができたことを告げられ、皆が小さな天幕に入ると、中で寝台に横たわるマティアスはしっかりと目を開いていた。フリードリヒたちが歩み寄ると、顔ごと視線を向けてきた。
一見すると、これから死にゆく人間にはとても見えない。今にも起き上がり、そのまま活動できそうなほどに思えた。
しかし歩み寄ってよく見ると、燭台の灯りに照らされたその顔は生者のものとは思えないほど青白い。首元も、手も、見える肌の全てに血の気がない。まるで遺体が動いているかのようだった。
「自分の状況は聞いた」
口を開き、マティアスは最初にそう言った。今は天幕の隅で気配を消している軍医より、これが最期の時間であると既に聞いているらしかった。
最期を自覚してもなお、英雄は冷静さを保っていた。
「私が倒れた後、戦況はどうなった?」
「……敵の追撃を受け止めて連隊の過半を退却させるため、シュターミッツ卿とバルトルト大隊長をはじめ古参の者たちが戦死しました。また、アルンスベルク要塞は陥落し、ヒルデガルト連隊は脱出。オブシディアン閣下は重傷を負い、意識を失っておられます。両連隊は現在、要塞から東に一日弱の地点で待機。夜明けとともに更に東進し、本格的に防衛の態勢を整える予定です」
フリードリヒが簡潔に説明すると、マティアスは天幕の天井を見つめて少しの間無言になり、そして再び口を開く。
「そうか、オイゲンとバルトルトが逝ったか」
そう呟いた後、集った者たちに再び顔を向ける。
「聞くに、厳しい戦況のようだ。私にはこの戦況に臨む力は残っていないが……フェルディナント連隊の為すべきことは、私が死んだ後も何ら変わらぬ。王家の指揮のもと、義務を果たせ」
死、という言葉がマティアスの口から出たことで、天幕に漂う悲壮な空気が一層強まった。
「ロミルダ、リュディガー、そしてオリヴァー。皆、オイゲンやバルトルトにも劣らぬ士官だ。むしろ私たちの世代より優秀だろう。何も心配はしていない。今後も連隊を支えてくれ」
呼ばれた三人は、軍人らしく表情を引き締め、無言で敬礼を示して応えた。
「ユーリカ。フリードリヒの心の支えであるお前は、いずれホーゼンフェルト伯爵家そのものの支えとなることだろう。お前がフリードリヒと並び、ホーゼンフェルトの家名を名乗る日をこの目で見たかった。どうかいつまでも、我が継嗣の傍にいてくれ」
「はい、閣下。必ず」
いつになく神妙な表情で、ユーリカは答えた。
「……グレゴール。我が忠臣。我が友よ。これまでよく仕えてくれた」
マティアスはそう言って手を差し出す。弱々しい動きでゆっくりと向けられたその右手を、グレゴールは両手でしっかりと握り返す。
「以降はホーゼンフェルトの家督を継ぐフリードリヒに仕え、支えてやってくれ」
「御意。お仕えできて光栄にございました、伯爵閣下」
厳かに一礼したグレゴールに微笑を向けて頷き、マティアスは一同を見回す。
「私はエーデルシュタイン王国の勝利を信じている。お前たちならばこの苦境を乗り越え、王国を守り抜くことができると確信している……将として遺せる言葉は、もはやそれだけだ。最期はフリードリヒと二人にしてくれ」
★★★★★★★
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