第116話 大博打
北方向よりベイラル平原にアレリア王国の軍勢が侵入。その総数はおよそ二千。
軍勢は既にアルンスベルク要塞から半日弱の地点まで接近し、今日中には到来する見込み。
そのような報告が哨戒の騎士よりもたらされたのは、八月の上旬のことだった。
報告を受けてから敵の襲来までに残された時間はあまりにも少なく、アルンスベルク要塞を守るエーデルシュタイン王国軍ヒルデガルト連隊にできる備えは限られていた。要塞に近いいくつかの村落から、成人男子をかき集めるようにして総勢で二百ほどの徴集兵を動員したのみで、連隊と合わせて千二百の兵力で要塞に立て籠もることを余儀なくされた。
間もなく、報告の通りに敵の軍勢が到来。アルンスベルク要塞は最低限以下の準備のみで、予期せぬ籠城戦に臨むこととなった。
敵陣に掲げられている旗から判断して、軍勢を率いているのはツェツィーリア・ファルギエール伯爵。および、パトリック・ヴィルヌーヴ伯爵。
「ちっ。『王の鎧』と、残りの連中も本当はアレリア王の傍にいるはずの精鋭共かよ。ご主人様とサンヴィクトワールに帰ったはずの覇王の犬どもが、どうしてこんなところにいやがる。一体どうなってんだ」
要塞の城壁上。掲げられた旗と敵側の整った装備を見て部隊の見当をつけながら、騎兵大隊長ディートヘルム・ブライトクロイツは吐き捨てるように言った。
「……確か、連中には専属の補給部隊がついていて、だからこそ王都サンヴィクトワールからノヴァキアとの国境地帯まで強行軍が叶ったという話だった。おそらく、またその補給部隊に頼り、ミュレー地方とロワール地方を縦断してここまでやってきたのだろう」
ディートヘルムの隣に立つ連隊長ヨーゼフ・オブシディアン侯爵は、敵が「王の鎧」を含む最精鋭であることを受けてそう考察する。
「とはいえ、こちらに察知されずにあれだけの兵力を移動させるのは容易なことではあるまい。軍勢が目立つので大きな街道は利用できず、その分補給にも苦労したはずだ。よくここまで辿り着いたものだ……迎え撃つ儂らとしては迷惑きわまりないがな」
最後の方は嘆息交じりに言って、ヨーゼフは顔をしかめた。
「あいつらが守るべきはアレリアの王都や王領だろう。それがノヴァキアまで遠征して、その上でさらにベイラル平原に寄り道とは暢気なもんだな。真っすぐ巣に帰ってりゃあいいものを」
ディートヘルムの悪態には、ヨーゼフも同感だった。
本来は虎の子の戦力として王国中央に置いておくべき精鋭。それを国境の最前線に投入するというのは、アレリア王国としては相当に思いきった策のはず。精鋭の動員が長期になればなるほどアレリア王国中央の防衛と治安維持は不安定になり、温存すべき戦力が消耗される。
そのため、アレリア王が精鋭を連れて帰路についたとの報告が入ったとき、ヨーゼフたちは何も疑いを抱かなかった。大胆な策を終え、ようやく最重要戦力を中央に戻すのだろうと納得した。
それがまさか、さらに次の戦場へと投入するとは。大胆を越えて無謀と言うべきアレリア王の戦略には、驚愕を通り越して呆れを覚える。
「来てしまったものは仕方あるまい。まずは鷹を使って後方に報せる。そうすれば、じきにフェルディナント連隊あたりが援軍として駆けつけ、さらに少し待てばより多くの増援もあるだろう。それまで何が何でも要塞を守るぞ、騎兵大隊長」
「承知。必要なら敵本陣への斬り込みでも何でもやるぜ、連隊長閣下」
厳しい状況に怯むことなく、ディートヘルムは獰猛に言った。
・・・・・・
「ここまでは順調に辿り着きましたね。さすがはアレリア王家が誇る精鋭。見事なものです」
「何が順調なものか。このような無茶をさせておきながら」
アルンスベルク要塞の目前に辿り着き、休息もそこそこに戦いの準備を開始する二千の軍勢。その本陣で、ツェツィーリアの言葉にパトリックが皮肉な苦笑を返す。
アレリア王国軍の最精鋭の実力をもってしても、この奇襲は困難なものだった。全てはひたすらに時間と体力との戦いだった。
ここに来るまでが、全てひとつの策だった。ノヴァキア国境への急襲からこのアルンスベルク要塞の包囲までを、ツェツィーリアは最初から一続きの策として計画していた。
まず、ノヴァキア王国の征服を成し遂げる。それが一段落した後、キルデベルト・アレリア国王が王都サンヴィクトワールへの帰還を宣言し、親征に際して王国中央から伴った精鋭のうち、死者と重傷者を除く二千二百を連れてノヴァキア地方を西に発つ。
その途中で、部隊は二手に分かれる。片方は、キルデベルト率いる「王の鎧」が総勢で二百。彼らは主君の護衛として、本当にキルデベルトと共に王都へ帰る。
そしてもう片方は、ツェツィーリアとパトリック率いる二千。こちらはエーデルシュタイン王国との国境地帯、ベイラル平原のアルンスベルク要塞を目指して南進する。ノヴァキアの地で物資を補充した補給部隊も、こちらの軍勢に随行する。
この二千の軍勢が敵側に察知されることなく南進を果たすことが、策の要だった。
まず、キルデベルトとその護衛たちは、南進を隠すための囮として機能した。
国王が王都への帰還を宣言し、「王の鎧」を連れて西進している様は、当然ながらその道中で民の目に触れる。辺境の民は、国王がどの程度の規模の軍勢と共にノヴァキアの地を発ったのかなどそもそも知らない。国王の伴う軍勢の規模が二百でも、誰も疑問は抱かない。
キルデベルトの帰路であるアレリア王国北部の辺境までは、エーデルシュタイン王国の間諜の目もなかなか行き届かない。キルデベルトの道中に何か起こらない限り、北部辺境から届くのは「王が帰還中である」という噂だけ。ロワール地方や王国中央にいるであろう敵の間諜たちも、ノヴァキアの地を発った国王がそのまま王都に帰っているのだと考える。まさか途中で軍勢が分かれ、兵力の大半が南に転進したとは思わない。
このようにして、君主そのものを囮に利用する大胆な目くらましを敢行しつつ、主力の二千はロワール地方を南進する。
ここでもツェツィーリアはひとつ策を講じた。軍勢そのものが身を隠すため、二千の軍勢は主要街道を全て避け、周辺の地元民が使うような田舎道ばかりを通った。本来ならば周辺に補給拠点となる都市や村落もない中でこのような進軍は叶わないが、ここで補給部隊の存在が活きた。専属の補給部隊がいたからこそ、困難な進軍も実現した。
ロワール地方出身の軍人として地理に詳しいツェツィーリアが事前におおよその経路を定め、同じく地理に詳しい副官セレスタンを派遣してより細かな道の選定をさせ、荷馬車が通れる程度の経路を昨年の秋のうちに定めていた。二千の軍勢と補給部隊はその経路をたどって進軍し、できる限り人目につかないように動いた。
それでも、まったく軍勢を目撃されないというわけにはいかない。そこでツェツィーリアは、軍勢を目撃した民が噂を広めないようにするため、鉢合わせした者は有無を言わせず連行し、この奇襲が果たされるまで拘束した。
不運にも拘束されて軍勢に随行する羽目になった哀れな民たちは、もはや噂を広められても問題なくなった段になってようやく解放され、今は荷馬車数台を使って故郷に送り届けられている。
連行に対して抵抗した民や、途中で逃げ出そうとした民は、致し方なく殺して口を封じた。殺した民の中には、持ち物からしてどうやら行商人に扮した敵側の間諜らしき者もいた。田舎道で間諜と鉢合わせし、それを捕らえ仕留められたのは不運であり幸運だった。
そうして秘密の南進を続けながら、ツェツィーリアは王国軍人たちをできるだけ急がせた。あまり整っていない田舎道を主要街道と変わらない速さで歩かせたために、少数だが落伍者も出た。補給部隊の荷馬車やそれを牽く馬も、道を進むごとに故障が続出したが、無事な荷馬車の荷台、物資を消費して空いた部分に故障した荷馬車の荷を移して先を急がせた。
昨日には、いよいよついて来られなくなった補給部隊を一旦捨て置き、当面の保存食と非常用の水を持たせた二千の戦闘部隊だけで前進した。騎兵部隊の馬の飼い葉は馬たち自身に背負わせ、ツェツィーリアとパトリックも自身の馬に飼い葉を背負わせた上で徒歩で進んだ。
それほどの苦労をして奇襲を果たし、ようやくたどり着いたアルンスベルク要塞。ロワール地方に駐留するロベール・モンテスキュー侯爵の部隊に伝令を送っておいたので二日以内には西から増援と補給が来る予定だが、それまでは野営用の天幕すら持たない二千の兵力で包囲を維持しなければならない。
このような状態でも秩序を乱さず、士気を落とさずにいるのだから、さすがはアレリア王国軍の最精鋭。彼ら以外にこの奇襲は成せなかっただろうと、ツェツィーリアは考えている。
「苦労した甲斐はあるはずですよ。これで我々は、二度目の賭けにも勝利したことになります。全て計画通りに、アルンスベルク要塞の攻略を進められます」
ツェツィーリアはいつものように穏やかな笑みをたたえて言いながら、その内心では小躍りしたいほどの喜びを抱いている。
当然、このように大胆極まる策が絶対の成功を保証されるはずもない。成功確率をできる限り高めるためにツェツィーリアは全力を尽くしたが、それでも運に頼る部分はあった。王都から二千五百の軍勢をノヴァキアとの国境に送る以上の賭けだった。
国王が帰路に連れている軍勢の規模が二百であると具体的に語る者が北にいて、その噂が予想以上に早く南まで伝わり、エーデルシュタイン王国の間諜の耳に入っていたかもしれない。目撃者を見逃して拘束し損ない、二千の軍勢の南進がロワール地方に露呈していたかもしれない。行商人に扮した敵側の間諜を逃がしていたら、その時点で奇襲は失敗だっただろう。不安要素も、思い返して冷や汗が浮かぶ出来事もいくつもあった。
それでも、運は最後までツェツィーリアたちに味方した。
王都の防衛力を削いでまでノヴァキアの地を征服した直後。まさかこの上でさらなる攻勢には及ばないだろう、そのような余裕があるはずもないと敵側の誰もが考える、そんな、二度とは訪れないであろう最良の奇襲の機を利用した大勝負。智将として己の全てを賭したこの大勝負に、自分は勝利した。
「甲斐がなければ困るぞ。本来は一刻も早く王都に帰すべき精鋭たちと、国王陛下のお傍に控えるべき我ら『王の鎧』を、卿はこのような場所に運んだのだからな。これで陛下に大戦果を献上できなければ、卿も私も王国史上最大の愚か者として名を轟かせることになる」
「心配は無用ですよ。これほどまでに順調に策が成功するのです。もはや、神が私たちの勝利を望んでいると考えるべきでしょう……では、『王の鎧』には東側の包囲をお願いします。モンテスキュー卿の率いる増援と、ヴェレク卿の率いる別動隊が追いつくまで、要塞の包囲を何としても維持しなければ。頼みますよ」
「卿に言われるまでもない。要塞の出口を何日か塞ぐ程度の務め、『王の鎧』に成せないはずもないだろう」
パトリックはそう言い残して踵を返し、移動準備を終えた「王の鎧」に命令を下す。
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