第114話 勝ち戦③
「退くか。さすがはノヴァキア王、無駄に足掻く臆病さではなく、戦いを諦める勇気を持っているようだな」
退却を開始した敵軍を眺めながら、レベッカは言う。口調は冷静に、敵将の判断に敬意を示す。
「閣下。追撃なさいますか?」
「無論だ。こちらの目的は完全勝利。この程度の損害を与えただけではまだ足りぬ……弓兵の精鋭を側面に回し、逃げ去る敵騎兵の背中を狙わせろ。その他の敵の退路にはこちらの騎兵を回し、後を追う歩兵と連係して挟み撃ちにしろ。秩序を保った退却など許さない。壊走せしめ、各個撃破して損害を拡大させろ」
「はっ」
副官は敬礼で応え、レベッカの無慈悲な命令は本陣から伝令を介して各部隊に届けられる。
そして、容赦ない追撃が始まる。
エーデルシュタイン王国側の後衛、弓兵部隊の両端には、精鋭が数十人ずつ配置されていた。彼らは即座に左右に展開し、退却する敵騎兵の背中を、狙いを定めた直射で襲う。
軽快な戦いを良しとするノヴァキア王国の騎士には、全身を金属鎧で固めた者は少ない。熟練の腕をもって放たれた矢は彼ら騎士たちの無防備な箇所を的確に捉え、鎧に守られていない首や腕や足、刺突武器に対する防御力の薄い鎖帷子の部分、さらには彼らの乗る馬体に突き刺さる。
弱点に矢を受けた騎士たちは、次々に無力化される。落馬し、あるいは馬ごと倒れる。両翼で合わせて三百五十はいた生き残りの騎士たちは、矢の有効射程から逃れたときには三百を切る。
一方で、弓兵と歩兵の退却はより悲惨な状況だった。
ノヴァキア王国の歩兵たちを蹂躙したエーデルシュタイン王国の騎士たちは、そのまま後衛の弓兵たちの間を突き抜け、彼らの退路を塞ぐように立ちはだかる。既に体力を失い、逃げ足も鈍い兵士たちは、暴れ回る騎馬の前では無力。次々に斬られ、刺され、突き飛ばされ、踏みつぶされ、哀れに泣き叫び、逃げ惑う。
その後ろからは、エーデルシュタイン王国の歩兵が襲いかかる。気力さえ失って逃げるばかりの敵兵など、もはや敵兵とは呼べない。大きな的、逃げ足が遅い獲物でしかない。歩兵たちはほとんど抵抗を受けることもなく、逃げるノヴァキア人たちを一人でも多く狩ろうと武器を振るう。
矢を逃れて下がったノヴァキア王国の騎兵たちは、徒で逃げる仲間の援護に回ろうにも、思うようにいかない。
兵士たちよりはましな食料を回されたとはいえ、騎士たちも空腹で疲労していることに変わりなく、飼い葉も不足していたために馬も万全には程遠い状態。まともに動けたのは全力の騎乗突撃の一回だけ。戦いが長引いて体力が尽きかけ、撤退命令を受けてなけなしの戦意も尽きた今、部隊として統率をとりながらの撤退戦など叶わない。命令はうまく伝達されず、騎士たちは自分が戦場から離脱して追撃を逃れることで精一杯だった。
結果、ノヴァキア王国の軍勢の退却は、戦場から離れるほどに酷い有様となっていく。部隊同士はおろか小隊や分隊内での連係すらまともにとられず、騎士も兵士もてんでばらばらに逃げ、次々に殲滅される。平原のそこかしこに死体と血だまりが赤い斑点模様を描き、逃げる者たちの悲鳴や断末魔の叫び、追う者たちの怒声が響く。
唯一の例外として、未だある程度の秩序を維持して退却しているのが、総大将である国王オスカル・ノヴァキアと王太子ユリウス・ノヴァキア率いる集団。二人を近衛隊が囲み、そこに比較的軽微な損害で下がることのできた各部隊が合流し、数百人規模で下がっていく。敵の追撃を殿の弓兵たちが牽制し、少数の騎士による強襲は、近衛騎士たちができる限り対処して追い払う。
しかしその集団さえも、完全な退却を成すことはできない。絶え間なく迫りくる敵の追撃を全て退けることは到底適わず、端の方から櫛の歯が欠けるようにして削られていく。
そうして隊列の最後尾に食らいつかれ、ただでさえ皆が疲労しているために遅い退却の足は、ますます遅くなる。
オスカルが後方の様子を見やると、しつこく追撃してくる敵兵たちのさらに後方からは、一度隊列を整えた上で前進してきたのであろうより大規模な追撃部隊が迫ってくる。
あれに襲われては、こちらは持ちこたえられないだろう。しかし、このままではとても大勢は逃げきれない。この不毛な撤退戦で兵力をさらに削られ、体力が底を尽き、まともに戦えない兵ばかりとなった頃に追いつかれ、自分と継嗣ごと全員が狩られることになる。
「……いいだろう」
壮絶な戦場には不釣り合いなほど穏やかに呟き、オスカルは傍らのユリウスを振り向く。
「ユリウス。お前は幾人かの直衛を連れ、全力でこの戦場を離脱しろ。優先的に食料や飼い葉を回していた近衛騎士たちと共にであれば、逃げることが叶うだろう」
父王の命令を受け、ユリウスは一瞬固まり、そしてその顔が強張る。
「陛下は如何なさるおつもりで?」
「その他の正規軍人たちと後に残る。お前が退却を果たし、少しでも多くの民兵が逃げ去るための時間を稼ぐ……何を驚いた顔をしている。聡いお前ならば、こうして私が説明するまでもなく察していただろうに」
オスカルが苦笑するのに対し、ユリウスは気色ばむ。おそらくは羞恥と悔しさ故の、憤りの表情だった。
「しかし陛下! 父と軍人たちを犠牲に、この身だけが生き長らえるなど!」
「黙れ。お前の意見は聞いていない。私は王として命令したのだ」
あまり時間がない。悠長に言い争っている余裕はない。そう思いながら、オスカルは声色は冷静に、しかし言葉は冷徹に選んで言い放つ。
「このような状況だ。大きな犠牲なくしてお前や民を救うことはできない。軍人たちに死ねと命じるのであれば、王である私も死なないわけにはいくまい……それに、政治的に考えても、ここが我が命の使いどころだろう」
オスカルはそう言って言葉を切り、嘆息した。
「我々はアレリア王の要求に応えられなかったが、国王である私が死ぬまで戦えば、我が国は精一杯の奮戦をしたのだと言い訳もできる。アレリア王は野蛮だが、己の下で力を尽くした者に対しては慈悲を見せる。私が死ぬことでアレリア王にできる限り慈悲のある処遇を求め、その上でお前が後のこと全てを担うのだ。それが最善だ。お前も頭ではそう考えているはずだ」
「……私はまた、自分だけ逃げるのですか」
ユリウスの表情が苦悩に歪む。彼はアレリア王国との戦いの際も、パウリーナ・バリエンフェルド子爵たちの死と引き換えに生き延びた。
「さぞ悔しかろう。だが、お前がどれほどの恥を覚えようとも、この王命に逆らうことは断じて許さぬ。ここで私と共に死ぬことは許さぬ。お前が顧みるべきは老いぼれた父の命ではない。国のために死ぬ覚悟を決めている軍人たちの命でもない。人質として城に残っている母と妹、我らが守ってきた血統、ノヴァキアの民、そしてノヴァキアの未来そのものだ。このままアレリア王国が大陸西部を支配するにせよ、エーデルシュタイン王国が決戦に臨んで勝利を収めるにせよ、その結果を受けてノヴァキアの地にも未来が訪れる。この地に最善の未来をもたらすため、恥を忍んで今を生き延び、城に帰るのがお前の戦いだ」
喧騒が今だけは遠く離れ、親子の間にしばしの沈黙が漂う。
父からも周囲からも聡明さを認められてきた王太子は、この僅かな時間で現実を受け入れ、少なくとも表面上は冷静に頷いた。
「承知しました。戦士たちの最後の戦いに、神が祝福を与えんことを」
「今生の別れだ。後は任せたぞ、我が息子よ」
オスカルはユリウスの肩を掴み、その目を見据えて言うと、その背を叩いて送り出す。戦場を去るユリウスに、近衛騎士のうち若い者が何人か続く。
離れていく我が子をゆっくりと見送る暇もなく、オスカルは馬首をめぐらす。後方、敵の追撃部隊を向き、口を開く。
「我は誇り高きノヴァキアの君主として、この戦場で散る覚悟である! 民は逃げよ! 命惜しき者も逃げよ! ノヴァキアの未来に命を捧げる戦士のみ、我と共に残るがよい!」
王の宣言に、元はただの平民である徴集兵たちは戦いを完全に放棄し、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。王国軍や貴族領軍の軍人も、一部の者は迷った末、君主に背を向けて走り出す。
それもまた仕方のないこと。死ぬまで戦えと命じても、死を覚悟しきれていない者が従うことはない。華々しい最期よりも己の命を選んだ者たちをオスカルは咎めず、その周囲には真に覚悟を決めた者たちが残り、集まる。
「お供いたします、国王陛下」
「我らは最後までノヴァキアの戦士です!」
口々に言う騎士と兵士たちに、オスカルは笑みを返し、口を開く。
「よくぞ残った。お前たちは我が誇りだ。隊列を整え、突撃に備えよ」
騎士を前に。兵士をその後ろに。単純な陣形を作らせながら、オスカルは敵を見やり、誰にも聞こえないよう嘆息を零した。
「……」
かつては若く勇ましき君主として、大陸西部に名を馳せた。自ら剣を手に、東の国境ではリガルド帝国と、西の国境ではミュレー王国と小競り合いに明け暮れ、大きな戦も何度か経験した。
その自分の最期が、こんな玉砕とは。
ノヴァキアの地は独立を失うことが決まり、今や社会の平穏さえも保たれるか怪しい。そして自分は、侵略者に慈悲を乞うために死のうとしている。
それでも、仕方あるまい。最期を選べる者などそうはいない。若き日の武勇を抱えながら、惨めだが堂々たる散り様をもって神の御許に旅立つしかない。
幸い、未来への希望はかろうじて繋がった。後は、戦場で派手に死ねるだけ幸運だったと思うことにしよう。
「王国に……いや、ノヴァキアの地に栄光あれ!」
隊列中央の最前列。並んだ騎士たちの中心。オスカルは剣を掲げ、馬を駆る。
たとえ国家という形が失われるとしても、自分たちは先祖と同じノヴァキアの地に眠る。
・・・・・・
「……追撃中の者たちには、散開して逃げる敵を狩るよう命じろ。深追いはさせるな。そして、隊列を組もうとしている敵部隊は襲わせるな」
アルブレヒト連隊とアイゼンフート侯爵領軍の正規軍人から成る追撃部隊本隊を引き連れ、レベッカはそう命令を下す。
残存兵力のうち正規軍人を集め、オスカル・ノヴァキア国王が何をしようとしているか、レベッカも既に察していた。彼らが殿として残り、逃げるのではなく立ち向かってくれるのであれば、こちらとしては願ってもないこと。
国王の首をとり、散る気概のある正規軍人の多くを仕留めれば、当面ノヴァキアの再起はなくなる。逃げ惑う民兵や命を惜しんだ軍人たちは、そこまで力を入れて狩らずとも問題はない。
レベッカが手出しをさせずにいたことで、オスカル率いる正規軍人たちは単純な陣形を作り終える。その数は僅かに二百足らず。三倍を超える追撃部隊本隊に対し、それでも怯むことなく突撃を開始する。気力を振り絞った鬨の声が近づいてくる。
「皆の者。かつての友邦、その偉大な王と戦士たちの最期だ。全力の迎撃をもって応えよ」
それが彼らに示すべき敬意。レベッカがそう考えながら命じると、歩兵たちは盾を構えて壁を作り、その後ろで弓兵たちは斉射の用意をする。陣形の両翼では騎士たちが攻撃命令に備える。
射程圏内に入った敵軍に向け、一斉に矢が放たれる。疲労が限界に近づいて人も馬も足の遅い敵軍は、矢の雨を受けて次々に数を減らす。
そして距離は縮まり、敵軍の突撃をレベッカ指揮下の歩兵たちは容易く受け止める。直ちに騎兵部隊が両側面に回り、半包囲の態勢をとる。
一度は崩壊した軍勢の残党。腹を空かせ、体調不良を抱えた軍人たち。そう長くは持ちこたえられず、彼らはエーデルシュタインの軍勢に飲まれて瞬く間に数を減らし、そして消えた。
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