第89話 夫人と令嬢
辿り着いたのは、元よりフリードリヒたちが次に捜索に向かう予定だった、ケルラ村という人口五十人ほどの小さな農村。
村長の先導を受けて村に入るフリードリヒたち王国軍騎士を、住民たちは遠巻きに見ていた。男の住民の中には、農作業に向かうわけでもなく鋤や鍬を持っている者もいる。おそらく侯爵夫人たちの事情を聞き、襲撃に備えてできる限りの武装をしているらしかった。
「夫人とご令嬢には、私の家で休んでもらっています。騎士様は別の村民の家に」
そう語る村長に先導され、立ち並ぶ家屋の中で最も大きな一軒へ。ひとまずフリードリヒとグレゴール、そして女性であるユーリカが中へ入る。
村長家とはいえさして広くない家の奥、客室であるらしい一室へ。扉の前で村長に呼びかけてもらうと、やや遅れて「少し待って頂戴」という声。それから間もなく「どうぞ」と入室を許す言葉が聞こえた。
室内にはベッドに腰かけた女性が一人と、そのベッドで眠っている小さな少女が一人。女性の方はフリードリヒも顔を知っている。確かに侯爵夫人だった。ということは、眠っている少女が令嬢と見て間違いない。
「失礼します。王国軍騎士の方々が――」
「まあ、助けに来てくれたのね!」
先頭の村長がフリードリヒたちを示し、言い終えるよりも前に、夫人は思わずと言った様子で口を開く。服は汚れ、裸足で逃げて傷ついたのであろう足は包帯が巻かれて痛々しいが、大きな声を出す気力はまだあるようだった。
「メリンダ・ラングフォード侯爵夫人。クレア・ラングフォード侯爵令嬢。あなた方を救出するために参りました」
夫である侯爵よりも一回り以上若い、三十代前半ほどに見える夫人と、その横で母の声に目を覚まし、眠そうに起き上がった少女に、フリードリヒは貴族式の礼をした。
敬礼よりもこちらの方が、物々しさがないと判断しての挨拶だった。隣ではグレゴールもただ一礼し、ユーリカもそれに倣う。
「ありがとう。あなた、確かホーゼンフェルト卿のご子息ね。後ろの二人も覚えているわ。宴の場にいたホーゼンフェルト伯爵家の従士の人たちね。来てくれて本当にありがとう……ああ、これでやっと一安心よ」
よほど感極まったのか、侯爵夫人メリンダはフリードリヒに抱きつかんばかりの勢いで近づき、その肩を掴み、間近で何度も感謝を伝えてくる。
ようやくメリンダが離れ、まだ事態を飲み込めていない令嬢クレアを抱き上げて「助けが来たのよ」と語っている間に、フリードリヒは右隣のユーリカに視線を向ける。彼女は微妙な表情で、メリンダに触れられたフリードリヒの肩のあたりを見ていた。
ユーリカの反応を見て、フリードリヒは場違いとは思いながらも小さく苦笑した。
・・・・・・
秋も後半になれば日は短い。フリードリヒたちがケルラ村に着いた時点で、日没まで二時間を切っていた。
村に向かう前に伝令を出しておいたおかげで、付近を捜索していたオリヴァーの小隊も、日暮れ頃になんとか合流することができた。
その後は住民たちとも協力して周囲に見張りを立て、村長家をそのまま拠点として借りる。夕食の提供を受けながら、今後のことを話し合う。
「報告を受けてこのケルラ村に向かう際、北に伝令を送った。報告が伝われば、他の部隊もこちらへ向かってくれるだろう。俺たちはこのまま待機するか?」
「そうだね。敵が十人前後なら、こちらも警戒している以上、さらに襲撃を仕掛けてきてもそれほどの脅威じゃないはずだから。夫人と令嬢もお疲れの様子だし、下手に動かない方がいい」
村長家の居間で食事をとりながら語るオリヴァーに、フリードリヒも頷く。
メリンダの話によると、街道での襲撃者は十数人いた。街道脇からの奇襲の初撃で数人の護衛が一度にやられ、馬車の御者も敵のクロスボウの一撃で死んでしまった。
それによって一行の足は止まり、その混乱の隙を突かれて進路も退路も塞がれることに。乱戦になる中で、帝国騎士の小隊長は自分たちが時間を稼ぎ、護衛対象であるメリンダとクレアを徒歩で逃がす決断を下した。使用人が一人と、騎士が三人、それに付き従った。
森を逃げる中で、追撃を防ぐために騎士が一人残り、さらに森を出る際には使用人と騎士一人が囮に。メリンダとクレアの外套を持ち、あえて目立つように逃げた彼らが追手を釣ってくれたおかげで、メリンダたちは逃走の距離を稼ぐことができた。
その後、手分けして追跡してきたらしい襲撃者の一人と遭遇し、最後の護衛である騎士が奮戦。敵を倒しはしたものの自身も重傷を負い、それにもかかわらずメリンダたちを守りながら移動を続けた。それが災いしたようで、フリードリヒたちが村に着いたときには、騎士は既に口も聞けないほどに容体が悪化していた。
メリンダの語った明瞭な状況説明は、騎士がまだ話せる状態だったときに、彼からこう話すよう教えられたものだという。おかげでこちらは、敵の襲撃部隊が残り十人前後だという正確な情報を得ることができた。
「皆さん」
話し合いを続けていると、メリンダがクレアを連れて居間にやってきた。その歩き方は、裸足で逃げて足を傷つけているために少々ぎこちない。
侯爵夫人と令嬢の登場に、フリードリヒたちは食事の手を止めて立ち上がろうとする。
「ああ、いいの。どうか楽になさって……お食事とお話し合いの邪魔をしてごめんなさいね。あなたたちにあらためてお礼を言わせてほしくて」
メリンダは柔和な笑みを浮かべて言い、この場にいる一同を見回して深く頭を下げる。
「助けにきてくれてありがとう。帝国大使の妻として、心より感謝しています。何度お礼を伝えても足りないほどです。もう駄目かと思っていたところへあなたたちが来てくれて、どれほど安心したことか」
夫人から、あなたもお礼を、と促され、まだ七歳だという令嬢クレアもぺこりと一礼した。みなさんありがとう、と少し舌足らずな言葉も合わせて。
「……恐縮に存じます。我々は王国軍人として、当然の働きをしているまでです。必ずあなた方をお守りしますので、どうかご安心を」
誰かが何か答えなければならない状況だったので、フリードリヒが代表して答える。
「まあ、何と頼もしい言葉かしら。さすがは英雄の跡継ぎね。帝国軍の騎士たちにも引けを取らない心強さだわ」
帝国軍騎士と比較するという、エーデルシュタイン王国の騎士に対するものとしては微妙な称賛に、しかしフリードリヒは引っかかりを感じたことを悟られないよう無難な微笑を返す。
「それにあなたも。確か、お名前はヨハンさんだったわね。あなたの村で保護してもらったおかげで命拾いしました。休むための部屋や食事も提供してくれて、本当に何から何までありがとう」
「……とんでもございません。お役に立てて光栄です」
居間の隅で目立たないようにしていた村長ヨハンは、短く答えるとまた存在感を消す。
と、クレアが母親のもとを離れ、フリードリヒの前にとてとてと歩み寄ってくる。フリードリヒを見上げ、首を傾げる。
「ねえねえフリードリヒ、このまま一緒にいてくれるの?」
昼間にひと眠りして多少元気になったらしい彼女は、物怖じしない性格なのか、この数時間で王国軍騎士たちに一通り話しかけ、中でもフリードリヒを気に入ったようだった。
おそらくは、強面であったり大柄であったり顔に傷跡があったりする騎士たちの中で、細身な上にそれなりに優男であるフリードリヒを、最も優しそうで親しみやすいと感じたらしかった。
「……はい。クレア様がお父様のもとへお帰りになるまで、私たちがお傍でお守りします」
「やったあ! ありがと、フリードリヒ!」
床に膝をつき、視線の高さを合わせてフリードリヒが言うと、クレアは笑顔ではしゃぐ。フリードリヒの深紅の髪も彼女はいたく気に入ったようで、まるで猫か何かを愛でるように頭を撫でてくる。どちらが幼子か分からない扱いに、フリードリヒは苦笑を零した。
そしてユーリカを横目で見てみると、彼女はまた微妙な表情を浮かべて見返してくる。侯爵夫人はともかく、小さな令嬢に対しても彼女は嫉妬心を抱くのか、とフリードリヒは思う。
と、小さな令嬢ことクレア当人が、今度はユーリカの方を向いた。まさか幼子相手にむきになるわけにもいかず、表情を取り繕うユーリカに、クレアはそのまま近づく。
「ユーリカも、ありがと!」
「……はい、クレア様」
何故だかユーリカのこともクレアは気に入っているらしく、満面の笑みで抱きつく。幼い貴族令嬢の扱いなど心得ていないユーリカは、戸惑い気味に答えながらぎこちなくクレアを撫でる。
そのまま抱っこを求められ、ユーリカは言われるがまま要望に応える。珍妙な表情のユーリカに抱き上げられ、上機嫌ではしゃぐクレアに、和やかな笑いが起こった。
「ほらクレア、騎士の皆さんはあなたの遊び相手になるために来たんじゃないの。迷惑をかけては駄目よ。こっちに――」
そのとき。村長家に駆け込んできたのはギュンターだった。
「フリードリヒさん。帝国の騎士が死――帝国の騎士殿が、亡くなりました」
侯爵夫人と令嬢がいるのを見て、ギュンターは言い方をあらためた。
その報告で、今までの和やかな空気は霧散する。
「……そうか」
「お母様、どうしたの? 何があったの?」
フリードリヒがギュンターに答える横で、ユーリカからメリンダに渡されたクレアが尋ねる。
「騎士ハロルドが死んでしまったのよ。ああ、彼まで亡くなるなんて。生きて帰ったら、ラングフォード家として彼の貢献に必ず報いようと思っていたのに」
「そうなんだ……みんな、死んじゃうね」
目を伏せて涙を流すメリンダに、クレアも落ち込んだ様子で答える。事態を正確に把握するには幼過ぎる彼女も、今がただならぬ状況で、人の死が悲しいことだということは理解しているようだった。
「侯爵夫人」
フリードリヒが呼びかけると、メリンダは顔を上げる。顔色は悪く、目の下には隈がある。
王国軍騎士たちの手前、今までできるだけ気丈に振る舞っていたようだが、メリンダが憔悴しているのは明らか。それも当然のことだった。戦いとは縁のない都会暮らしの貴族が、幼い我が子を連れて、道もない森や丘、平原を丸一日以上も裸足で逃げて元気なはずがない。
パニックを起こさないだけ、むしろ相当に努力している方だと言える。
「どうか、お気を強く保たれてください。お二人が無事にラングフォード閣下のもとへ帰られることで、死者の犠牲も報われます。あと少しの辛抱です。おそらく明日には、我が養父であるホーゼンフェルト閣下の率いる援軍が到着し、それでこの悲劇も終わります」
「……ええ、あなたの言う通りね。あと少し頑張らないと。この子のためにも」
涙を拭い、クレアを抱き締めながらメリンダは言った。
「私たちが助かって、使用人や護衛たちの犠牲が報われるのも、こうしてあなたたちが助けに来てくれたおかげよ。本当に、どうお礼をすればいいか……できることなら、皇帝陛下にお願いして、あなたたちに名誉帝国騎士の称号を差し上げたいくらい」
その言葉に、フリードリヒはややぎこちない笑みで応える。
室内に何とも言えない空気が漂っているが、メリンダはその原因が自身の発言にあると気づかないまま再び口を開く。
「あの、騎士ハロルドの遺体に会わせてもらえないかしら? 感謝を伝えて、彼の冥福を祈ってあげたいわ。自己満足に過ぎないけれど……」
「……承知しました。では、私が警護を務めましょう」
「遺体のある家までご案内します」
オリヴァーがそう申し出て、村長ヨハンと共にメリンダとクレアを連れていく。村長夫人も室内の気まずい空気に耐えかねたのかそっと出ていき、後には騎士たちだけが残る。
「さすが、侯爵夫人ともなると帝国仕草も一段とお上手で」
馬鹿にするような半笑いで言ったのは、ヤーグだった。
「よりにもよって、俺たちに名誉帝国騎士か。さすがに勘弁してほしいな」
続いて、オリヴァーがため息交じりの苦笑を零す。
リガルド帝国の名誉騎士号は、皇帝家や帝国そのものに並々ならぬ献身を捧げた者へ送られる称号。言わば「皇帝家に対して特に忠実な臣下臣民」の証。
エーデルシュタイン王国に忠誠を誓い、王国軍に属し、騎士として王国のために戦う立場でありながら、そんなものを貰っても困るだけ。主家たるエーデルシュタイン王家にどんな顔をすればいいか分からなくなる。
そんな名誉帝国騎士の称号がありがたい褒美になると、誰にとっても価値あるものであるという前提でのメリンダの発言は、まぎれもなく「帝国仕草」だと言えた。自分たちこそが最も恵まれた国の最も恵まれた住人であり、自分たちの国はこの世界の中心であり、他の誰もが自分たちの国に畏敬と憧憬を抱いている。そう信じて疑わない者の語り口だった。
「あまり言ってやるな。ひどくお疲れのご様子だったからな。頭が働かない状態なのだろう」
「なるほど。だからつい、友邦の飼い主としての本音が零れちまったってわけですか」
「おい」
皮肉にしても過激なヤーグの言葉に、しかしグレゴールの注意も甘い。二人とも、帝国への反感が根強い世代のエーデルシュタイン人だった。
「まあ、名誉、と付けられただけ、向こうも配慮する気があったんだと思うことにしよう」
上書きするようにユーリカに頭を撫でられながら、フリードリヒは言った。
これが「名誉」という言葉の付かない、帝国のために戦う文字通りの帝国騎士号の話であれば、厄介さは一段増す。仕える祖国を裏切って帝国の騎士になれと言うのかと、抗議して謝罪を要求しても許される段階になってしまう。
フリードリヒたちは異国の君主に仕える異国の軍人。その事実に対して一応メリンダなりの配慮が伺えるのだから、そこは汲んでやるべき。努めて好意的に解釈すればそう考えられる。
「嫌な人ではなさそうなのにね」
「……そうだね。それは間違いない」
こうした場面ではあまり発言しないユーリカが、珍しく口を開いた。フリードリヒもそれに首肯する。
疲れているからこそ不用意に出た言葉。しかしだからといって、メリンダ・ラングフォード侯爵夫人が実は悪意を隠しているというわけではない。おそらく、意識的にこちらを蔑視しているわけでもない。
だからこそ質が悪い。巨大な覇権国家と、その小さき友邦。両国が埋まらない溝越しに手を伸ばして握手を交わしているという、その事実を象徴している。
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