第59話 公爵領軍殲滅戦①

 初春の野外に放置されてから二日。バッハシュタイン公爵領軍の捕虜およそ二百人は、生存者の数を減らしながら耐えていた。

 敵は喉の渇きと、そして夜に襲ってくる寒さ。さらには獣も。


「ま、また狼だ! 昨日の狼の群れが戻ってきた!」


 縛られた捕虜の集団の、外縁の辺りに転がっている兵士の一人が悲鳴のような声で報告する。


「落ち着け! 全員、外を向いて円陣を組め! 足で撃退するんだ!」


 指示を飛ばすのは騎士フランツィスカだった。この二日で散々声を張り、水もないため枯れた喉で、それでも彼女は指揮官として皆を生き長らえさせるために叫ぶ。

 捕虜たちは皆、猿轡だけはそれぞれ仲間の手や足を借りて外すことができている。


「畜生! あっちに行きやがれ!」

「もう誰も食わせねえぞ!」


 捕虜たちはフランツィスカの指示通り外を向き、縛られた両足を突き出すようにして、近づく狼の群れを牽制する。しかし、その効果は限定的なもの。手足が自由な状態で武器を持っていても立ち向かうのが容易でない獣を相手に、拘束された状態ではそうそう敵わない。


「おい止めろ! そいつに手を出すな!」


 賢い狼たちは、手負いの獲物――重傷を負って運悪く端の方に置かれている兵士に狙いを定め、執拗に攻撃しようとする。周囲の者が彼を庇おうとするが、敗北は時間の問題に見えた。


「も、もういい……」

「おい、何やってんだよ! 円を出るな!」


 仲間の制止を無視して、重傷を負った兵士は自らを狼に明け渡すように動く。


「この怪我じゃあ、どっちにしろ俺は助からん。もういいんだ。妻と娘たちに――」


 最後まで言えず、兵士の喉元に狼の牙が突き立つ。周囲の者が泣き叫ぶ中で、その兵士は狼たちによって引きずられていった。大きな獲物をひとつ得たからか、狼たちはそれ以上は誰も襲わず、森へと去っていった。


「くそっ! また一人やられた!」

「助けはまだか! 一体いつ来るんだ!」

「俺たち、見捨てられたんじゃ……」

「馬鹿、そんなわけあるか! 本隊には俺の兄貴もいるんだぞ!」

「俺の娘婿だっている! あいつは騎士身分だ! あいつが俺を見捨てるはずがねえ!」


 兵士たちの声を聞きながら、フランツィスカは悔しげに歯を食いしばる。

 体力の落ちていた重傷者を中心に、既に二十人を超える死者が報告されている。衰弱死。凍死。先ほどの兵士のように、狼や熊に喰われた者も数人いる。

 この地獄はいつまで続く。


「お、おい! あれ、援軍じゃないか?」


 そのとき。北西側にいた誰かが言い、皆がそちらを向く。


「間違いない! ありゃあ確かに公爵家の旗だ!」

「本隊が助けに来てくれた! 俺たち生きて帰れるぞ!」


 街道の緩やかな上り坂の向こう、低い丘の上に見えた軍勢を前に、兵士たちは歓声を上げる。


「隊長! 助かりましたね!」

「……ああ、そうだな」


 部下たちの喜びに水を差さないように答えながら、フランツィスカは内心で緊張を覚える。

 それらしい理由をつけ、これ見よがしに捕虜の集団を街道上に放置する。周囲には森。これは罠に決まっている。

 本隊がそのことに気づいていないとは思わないが、敵の待ち伏せが分かっているからといって、果たしてあっさり脱出を果たせるものか。


・・・・・・


「急げ! お前たちの仲間はもう目の前だぞ! 隊列を組み終えれば救出だ!」


 エルンストが急かすまでもなく、五百のバッハシュタイン公爵領軍は戦闘に向けた隊列変更を進めている。この場への到着早々に、ほとんど休むこともなく。

 進軍する部隊のもとへ、自力で脱出してきた捕虜も僅かにいた。拘束が甘かった数人が、縄から無理やり手足を引き抜き、指の骨が折れて皮膚が剥け、血がしたたる手足で逃げてきた。

 保護された彼らの話によると、野外に放置された捕虜たちは悲惨な状況だという。飢えと渇き、寒さと獣による死者が続出し、生き残っている者もひどく弱っていると。

 敵の攻撃を受けながら弱った捕虜たちを回収し、退却する。おそらく公爵領軍が経験したことのない厳しい戦いとなる。

 それでもやらないわけにはいかない。ここまで来たのだから。


「捕虜回収部隊と護衛部隊は前進! いいか、隊列を決して崩すな! 常に戦闘に備えよ!」


 隊列が完成すると、エルンストは即座に命令を下す。

 いくつもの荷馬車を引き連れた捕虜回収部隊と、それを守るための護衛部隊、総勢およそ四百が第一波として前進を開始する。


「助けに来たぞ! もう大丈夫だ!」

「まだ元気の残ってる奴は名乗り出ろ! 優先的に縄を切る! その後は仲間の救出を手伝え!」


 捕虜回収部隊は、荷馬車の御者を合わせても五十人ほどしかいない。

 彼らはまだ比較的体力のある兵士の縄を切って自由にしてやると、その者にもナイフを渡し、他の捕虜の救出を手伝わせる。こうすることで、最小限の人手からできるだけ多くの捕虜を迅速に解放する。

 その間に、護衛部隊が守りを固める。捕虜たちが放置されている周囲には森が広がっている。それら森の中や森の陰に、フェルディナント連隊が潜んでいるのは明らかだった。


「来たぞ! 北側から敵部隊出現!」


 護衛部隊の隊長である騎士が言い、兵士たちは臨戦態勢に入る。

 地形から考えて、伏兵の主力はおそらく北側の森に潜んでいる。それがエルンストによる事前の推測だった。元より北を向いて戦うことを想定していた兵士たちは、指揮官の推測通りの展開を前に冷静に動く。前衛に盾を構えた精鋭が、その後ろに弓兵が並ぶ配置で堅牢な陣形を構築する。

 面積が広く、比較的なだらかな地勢が広がっている北側の森から、まずは大隊規模の歩兵部隊が姿を現す。さらにその後方からは二個中隊ほどの規模の弓兵部隊が出現し、素早く横隊を組んで矢を斉射してくる。


「ぎゃあああっ!」

「くそ! 捕虜ごとお構いなしかよ!」


 二百の弓兵が矢継ぎ早に放つ矢の雨は、陣形を組んだ護衛部隊と、後方にいる捕虜やその回収部隊にまで届く。盾も持たず捕虜の解放に走り回る兵士たちはもちろん、未だ縛られて転がっている捕虜たちには、矢を防ぐ術などない。自身の幸運を祈るしかない。


「重傷者は縛られたままでいいから荷馬車に乗せろ! 撤退を急ぐぞ!」


 叫んだのは、真っ先に縄を切られてそのまま捕虜解放を手伝っている騎士フランツィスカ。

 肩の負傷に堪えて捕虜たちの指揮官として使命を果たそうとしている彼女に従い、解放された兵士たちは重傷者を担ぎ上げて荷馬車の荷台に放り込む。運び方はどうしても乱暴になり、それが傷に障った重傷者たちの痛々しい叫び声が響く。

 その間にも戦況は動く。敵側だけでなく、公爵領軍の弓兵も矢を斉射するが、如何せん兵数そのものが少ない。二個中隊との撃ち合いでは勢いに負け、その効果は限定的となる。

 しばらく矢の応酬が続いた後、いよいよフェルディナント連隊の歩兵部隊が突撃を開始する。


「いいか、絶対に隊列を崩すな! 死んでも受け止めろ!」


 護衛部隊の隊長が声を張った刹那、突撃する歩兵部隊と、迎え撃つ護衛部隊が激突する。一塊になって突き進んできたフェルディナント連隊の歩兵を、公爵領軍の精鋭が懸命に受け止める。仲間を守るために命懸けで構築された防衛線を前に、歩兵部隊の突撃が止まる。


・・・・・・


 その様を、伏兵の主力が配置されていたのとは反対側、敵部隊から見て南の森の陰に置かれた本陣からマティアスたちは見ていた。


「敵もなかなかやりますな」

「ああ。捕虜解放に最小限の兵のみを割いたこと、そしてこちらの主力の隠れ場所を正確に読んできたことは評価すべきだろう」


 傍らのグレゴールの言葉に、マティアスは首肯する。

 こちらの戦力は、砦の防衛に残している者を除いておよそ七百弱。そのうち五百を北側の森に配置していた。

 対する公爵領軍が捕虜救出に投入してきた正面戦力は四百。急いで捕虜を解放しても戦闘は避けられないと考え、一度は攻撃を受け止める前提で護衛部隊の側に戦力の多くを充てたのは、マティアスから見ても妥当な判断と言える。

 四百弱の戦力では全方位への警戒は難しいが、一方向だけを警戒するのであれば、一時的に伏兵と拮抗することも可能。その推測もやはり正しい。そして敵指揮官は、こちらの主力が北側の森にいる前提で護衛部隊に陣形を組ませていた。

 事前に斥候で確認したわけではないだろう。敵側にはのんびりと偵察をする時間もなく、こちらも森の周囲には見張りを多く配置していた。敵の斥候が近づいてきたとして、周囲の森にフェルディナント連隊の伏兵がいることは分かったとしても、どこに何人程度が配置され、北と南のどちらが主力かまでは読めなかったはず。斥候は万能ではない。限界も多い。

 ということは、北側の森に主力がいると踏んだのは敵の大将の判断ということになる。敵の大将は己の推測を頼りに勝負に出て、その推測は当たった。


「……エルンスト・バッハシュタイン公爵。さすがは大領の主を長年務めた御方だ」


 敵の本陣には公爵家の旗が掲げられ、バッハシュタイン公爵本人の鎧が確認されたという。自ら戦場に出てきて采配を振るい、これだけの戦いを為しているのであれば、少なくとも無能な凡人ではない。王家に挑みかかるだけのことはある。


「騎兵部隊を出し、敵陣の南側を突く……オイゲン、頼んだぞ」

「はっ! 敵を背後から一網打尽にして見せましょう!」


 マティアスが呼びかけると、同じく南側の森で待機していた騎兵大隊長オイゲン・シュターミッツ男爵は意気揚々と答えた。

 オイゲンに率いられた騎兵部隊は、敵の護衛部隊が守っていない南側から無防備な捕虜たちに襲いかかろうと、それぞれの愛馬を狩る。重装備の騎士の群れが、武器すら持っていない者も多い公爵領軍の捕虜とその回収部隊へと迫る。

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