エピローグ

 幼い頃の記憶は、靄がかかったように曖昧だ。

 覚えているのは、殺風景な部屋。鉄格子のはめられた窓。内側からは開けられない扉。

 部屋の隅に置かれたベッドと、手慰みのぬいぐるみ。ベッドに敷かれた毛布はいつ見ても破れていて、ぬいぐるみはいつもほつれて綿が飛び出していた。

 そんな場所で、私は大抵一人で過ごしていた。物心がついたときにはもう、そんな生活をしていた。

 偶に知らない大人が来て、私に何か――今思えば、あれは薬のようなものだったのだと思う――を飲ませたり、私に向かって祈るような仕草をしたりしていたことは、ぼんやりと覚えている。

 そして日に何回か、女性が部屋に来て、私の世話をした。彼女は優しかったと思うけれど、彼女の顔はもう憶えていない。

 言葉は彼女から習った。とはいえ、彼女は私の世話が終わるとすぐに部屋を出ていってしまうので、習うのはほんの少しずつだった。憶えた言葉は少なかった。

 いつからか、彼女は来なくなった。顔の見えない誰かが食事だけを置いていくようになった。

 そしてある日、どこかの森の中に連れていかれ、そこに置き去りにされた。当時は森という言葉も知らず、そこがどういう場所なのか分からなかった。私は自分の境遇を正確に理解するだけの言葉を、状況の背景を察するための言葉を、頭の中に持たなかった。

 それでも、捨てられた、ということは分かった。捨てるという言葉は知っていた。私の手でぼろぼろに引き裂かれた毛布やぬいぐるみが捨てられたように、自分も捨てられたのだと思った。

 これからどうなるのか、私は分かっていなかった。死ぬ、という言葉もその意味も、あの頃は知らなかった。

 それでも、身体が動くままに森の中を歩き回り、川を見つけて水を飲み、お腹が空いたら目についたもの――虫や小さな動物を捕まえて食べた。今思えば、あのときの私はきっと、本能、というものに動かされていたのだろう。

 そして、フリードリヒと出会った。

 寝床にしていた木の洞の中で、リスの肉を頬張っていた私を、彼が見つけた。

 ここから、私の人生は始まった。このときから記憶は鮮明になっていった。このときよりも前のことは、靄がかかった幼い頃の記憶は、私にとってどうでもいいものだ。


・・・・・・


 彼と出会った後、私は彼が呼んだ大人たちに、教会という場所へと連れていかれた。

 それまで、私は自分が育った部屋と、自分が捨てられた森しか知らなかった。なので、大勢の人が行き交う街並みも、育った部屋ではない建物も、不思議な格好をした修道女と呼ばれる女性たちも、私にとっては何もかもが初めて見るものだった。

 修道女たちからたくさんの言葉を投げかけられた私は、怯えた。彼女たちに何か聞かれていることは分かったが、言葉の意味はよく分からなかった。なんとか答えられたのは、自分の名前と歳だけだった。この二つは、私の世話をしてくれた女性から教えられていた。

 怯えながらもなんとか大人しくしていられたのは、フリードリヒが傍にいてくれたからだった。自分より小さな少年が、平気そうな顔で隣に付いていてくれたから、私も逃げたり暴れたりする気持ちをこらえていた。

 その日から、私はフリードリヒの真似をして日々を過ごした。彼と一緒にご飯を食べて、彼と並んで眠った。彼と一緒に修道女たちの手伝いもした。簡単な文字なら読めるという彼が、子供向けの物語を読み聞かせたりもしてくれた。

 この暮らしの方が、森でお腹を空かせながら生きるよりずっと良いと思った。拾われてきた猫が家に慣れていくように、私は彼と一緒に過ごす日々に慣れ始めていた。

 そんなある日、若い修道女が何か尖ったもの――それがはさみだということは後で知った――を手に私に近づいてきた。「髪を切りましょうね」と言いながら。

 髪を切る、というのがどういうことかは知っていた。でも、私が育ったあの部屋では、私はいつも目隠しをされて身体を縛られ、次に目隠しをとられたときには髪が短くなっていた。

 だから、尖ったものを持って近づかれて、自分は何をされるのだろうと思った。

 怖いと思った。そして暴れた。

 そこからはあまり憶えていない。気がつくとフリードリヒが叫んでいた。

 彼の腕から血が溢れていて、私の口の周りは血まみれだった。口の中に何かの欠片があって、私はそれをごくりと飲み込んでしまった。

 私の髪を切ろうとした修道女は、恐ろしいものを見るような目で私を見ていた。

 その後、私は彼から引き離された。一人で狭い部屋に閉じ込められ、何日かそこにいた。一人になると急に不安がこみ上げてきて、部屋の中で叫んで暴れた。

 ある朝、フリードリヒが一人で私のもとにやって来た。彼の腕には包帯が巻かれていた。

 そして、急に私に抱きつくと、彼は大声で泣き始めた。教会中に響き渡る泣き声だった。

 血相を変えて部屋に飛び込んできた修道女たちは、暴れるでもなくきょとんとしている私と、私にしがみついて号泣している彼を見て戸惑っていた。

 そんな彼女たちに、フリードリヒは何か早口で話し始めた。何やら難しそうな言葉もたくさん使っていて、私より小さな子供とは思えなかった。

 間もなく、彼がアルマ先生と呼ぶ初老の修道女や、司祭様と呼ぶ老人までやって来た。皆がおろおろしながらフリードリヒと話していた。話し合いは彼の方が優勢なようだった。

 朝から始まった騒動は、夕方まで続いた。根負けした司祭様や修道女たちが、フリードリヒに何か約束をさせられて、そうして騒動は終わった。彼はよほど泣き疲れたのか、そのまま私の膝の上で眠ってしまった。


・・・・・・


 それからまた、フリードリヒと一緒に過ごす日々が始まった。彼はもう、私から離れることはなかった。アルマ先生や他の修道女たちが彼を私から引き離すこともなかった。

 彼が言葉を教えてくれた。多くのことを教えてくれた。彼のおかげで、自分がどれほどものを知らなかったかを知った。彼が私を人間にしてくれた。

 成人するとき、幼い頃の騒動の顛末をアルマ先生が明かしてくれた。彼が私を守るために、あれほど必死になってくれたことを知った。

彼の腕に消えない傷を残した私を、彼は捨てなかった。それどころか救ってくれた。私の傍にいてくれた。

 ずっと一緒にいてくれた。本当に、片時も離れることなくずっと一緒にいてくれた。

 そんなフリードリヒを、私は愛している。彼の全てを愛している。

 いつからそうだったかなんて、もう分からない。生まれたときからずっとそうだったと思えるくらいに愛している。

 書物を読む彼の表情が好きだ。紙の上に並んだ言葉を貪る彼の赤い瞳は、横から見ているだけで吸い込まれそうになる。

 考えを巡らせる彼の表情が好きだ。私の知らない言葉を頭の中でたくさん使いながら、私には想像もできないほど複雑にものごとを考える彼は、とても頼もしくて、時々とても脆そうで。そんな彼を見ていると、その身体に触れたくなる。

 何かを決意する彼の表情が好きだ。私と一緒に生きていくために、智慧を使ってお金を稼いでいくと決めたとき。迫りくる盗賊に立ち向かうと決めたとき。自分の策で三倍の敵軍に打ち勝つと決めたとき。そして、仲間の死を背負いながら生きていくと決めたとき。彼は高揚に頼ることなく、深く考えた末に静かに覚悟を決める。だからこそ彼は強い。

 彼が好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。気が触れてしまいそうなほど好きだ。

 だから、私はフリードリヒの傍にいる。彼の隣に寄り添う。彼のいる場所に一緒にいて、彼のすることを一緒にする。これからもずっと。


・・・・・・


「この家紋は、お前がホーゼンフェルト伯爵家の一員である証。私の養子である証だ」


 ホーゼンフェルト伯爵家の屋敷の一室。マティアス・ホーゼンフェルト閣下が軍服姿のフリードリヒに言うのを、私はフリードリヒの後ろに立って見ている。

 今日、仕立て屋から戻ってきたフリードリヒの軍服と、併せて届いた新しいマント。軍服の左胸の徽章と、マントの背中側に記されているのは、ホーゼンフェルト伯爵家の家紋。

 ノウゼンハレンという花の意匠なのだと、前に閣下が私たちに教えてくれた。

 今までは閣下だけが纏うことを許されていた家紋。これからは、フリードリヒも纏う。ホーゼンフェルトの家名と一緒に。

 アレリア王国との戦いが終わって、フェルディナント連隊が王都に帰還してから、一週間以上が経っていた。

 帰還後すぐに、閣下はフリードリヒを連れて王太女殿下のもとへ戦勝を報告しに行った。そのときにフリードリヒを養子に迎える意向を伝えて、王太女殿下を証人に、正式にフリードリヒを自分の息子にした。

 戦いの後の休暇が終われば、フェルディナント連隊の訓練がまた始まる。皆が集まった場で、フリードリヒがホーゼンフェルト伯爵家の跡取りになったことが宣言される。


「必ず、この家紋にふさわしい人間になります。閣下」

「……ああ。お前ならば大丈夫だ」


 家紋付きの軍装のフリードリヒを見て、閣下はいつになく優しい声と表情で言った。

 そして、フリードリヒが私の方を振り返る。微笑を浮かべる彼に、私も笑みを返す。

 あなたの立場も、人生も、背負うものも、大きく変わった。変わってしまった。

 だけど、それでも。

 私があなたの傍にいることは変わらない。それだけは絶対に変わらない。

 あなたは私の全て。あなたと生きることが私の人生の全て。

 私のフリードリヒ。愛しいフリードリヒ。




★★★★★★★


ここまでが第一章となります。お読みいただきありがとうございます。

第二章からは、月・水・金曜日の週3回、更新していく予定です。次回更新は明日となります。

引き続きフリードリヒたちの物語をお楽しみいただけるよう、著者として頑張ってまいります。


お知らせです。

本作『フリードリヒの戦場』、書籍化が決定いたしました。

これも偏に、本作を応援してくださる読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございます。

レーベルや刊行時期などの詳細はしばらく先の発表になりますが、どうかお待ちいただけますと幸いです。

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