第37話 それが運命と知っても尚

 後には自分とユーリカだけが残され、フリードリヒは愕然としたまま視線を落とす。自分の両手を見つめる。

 知らなかった。こんなことになるなんて思わなかった。

 何者かになるということが、こういうことだったなんて、想像もしていなかった。

 自分の策が失敗して自軍の騎士や兵士たちが死に、その結果の責任を背負って苦しむのはまだ理解できる。しかし現実は違う。たとえ策が成功し、勝利を掴んでも、当たり前のように仲間の誰かが死ぬ。そのことを織り込んで策を立て、その策の中に皆の命を投じる。

 戦友たちの犠牲と引き換えに勝利を掴む。その後に待っているのは、次の戦い。

 小さな戦いで軍師のような役目を務めただけでこれだ。勝利を重ね、戦功を重ねた果てに将にでもなったら。もっと大勢の騎士や兵士を配下に置き、あらゆる結果の、あらゆる犠牲の全責任を負いながら戦うのだ。十人や二十人どころではない。一度の戦いで何百もの死を背負うことになるかもしれないのだ。

 それでも、勝利のためならばその重責を受け入れなければならない。そうして戦い続ける。一体いつまで? 自分が死ぬまで? あるいは、この身を戦場に置けないほど老いぼれるまで?

 命を数字として数えながら、無数の死を背負っていく。勝利を求められ、その求められるままに勝利をもたらす英雄としての役割を演じながら、その裏では仲間の死と共に歩んでいく。そんなことに一生を捧げるのか?

 なんて恐ろしい生き方なのだろう。なんて苦しい業なのだろう。

 自分はこんなことを望んでいたのか。戦う必要などなく、死を背負う必要などなく、衣食住に困らず、最愛の人もいる。そんな穏やかで満ち足りた人生の中にいたのに。それに不満を抱き、こんな道に行きたいと、何も知らないまま望んでしまったのか。


 フリードリヒは両の手で自身の頭を抱える。

 嗚呼、帰りたい。

 全部やめてボルガに帰りたい。

 素朴な人々の暮らすあの田舎都市に、アルマたちのいる教会に帰りたい。

 ろくに代わり映えのしないあの日々が恋しい。自分はあれの一体何が不満だったというのか。あれでよかったじゃないか。あの退屈な日常の中で、ユーリカといつまでも平和に生きていく。それで十分だったじゃないか。

 帰ってもいいのだ。辞めると、ただマティアスにそう告げればあの日常が戻ってくるのだ。


「……」


 駄目だ。帰れない。

 自分はもう、背負ってしまった。あの戦場で、死んだ騎士や兵士たちの命を背負ってしまった。

 泣き叫ぶ声を、生々しい傷を、溢れる血や内臓を、騎士ノエラのあの死に様を、全て忘れてボルガに帰って平和に暮らす。そんなことはとてもできない。そんな人間にはなりきれない。

 もう戻れない。書物の中の英雄に憧れ、何者かになりたいなどと無邪気に夢想しながら、何も背負うことなく、何も背負う気もなく平和な人生を謳歌していた自分には二度と戻れない。

 自分はこのまま生きていくのだ。

 戦場が、自分の生きる場所になってしまったのだ。


「……ねえ、フリードリヒ」


 優しい声が、頭上から降りてくる。

 温かい手が、頭を抱えるフリードリヒの両手を解く。そのままフリードリヒを抱き締める。


「あなたがどんなに苦しいか、私には分からない。どんなに想像しても、きっとこの先も正しくは分からないままだと思う……だけどね、フリードリヒ」


 フリードリヒの頬にそっと手が添えられる。フリードリヒが顔を上げると、ユーリカは吐息が届くほどの距離でこちらを見つめていた。


「私が今まで言ったことは何ひとつ変わらないよ。私はあなたのいる場所に一緒にいるし、あなたのすることを一緒にするの。これからもずっと」

「……ユーリカ」


 泣きそうな顔で、フリードリヒは彼女の名前を呼んだ。

 きっと彼女は知らない。自分がかつて、まだ幼い頃、彼女を救ったことを。結果としてそうなったことを。あの頃、七歳の彼女はまるで獣のようで、周囲の言うことも、自身の状況もほとんど理解していなかった。自分が殺されるかもしれないと理解していなかった。

 もしこのまま自分について来れば、自分と共に戦場に身を置き続ければ、いつか彼女まで死んでしまうかもしれない。

 ユーリカの死を己の業として背負う。それは想像を絶する恐怖だった。

 彼女をこのまま傍に置いていいのか。かつて命を救った彼女を、今度は自分が死なせることになっていいのか。彼女だけでも、有無を言わせず、自分から引き離してボルガに帰らせるべきではないのか。


「ユーリカ、僕は君を――」

「知ってるよ」


 フリードリヒの言葉を遮り、ユーリカは言った。


「私が教会に来たばかりの頃、私を神の御許に返すべきかもしれないって考えた人たちがいたことも、それを聞いたフリードリヒが私を助けてくれたことも、知ってるよ。私が成人したときに、アルマ先生から全部聞いたんだよ」


 彼女はにっこりと笑い、フリードリヒの、かつて彼女がつけた傷の痕に触れた。


「子供の頃から、あなたのことはずっと大好きだった。だけど、この話を聞いてもっと好きになったの。私はあなたを愛してる。あなたを守り抜く……あなたから絶対に離れない。あなたに拒絶されても離れない」


 ユーリカの笑みに、危険な気配が入り混じる。


「何を言われても、あなたに付いていくのを止めないよ。ずっとあなたの傍にいるよ。どうしても止めたいなら、私を殺すしかない。それくらい愛してるよぉ?」


 フリードリヒの鼻先に、自身の鼻先を触れ合わせながら、ユーリカは言った。フリードリヒの視界は、彼女の妖艶な笑みに埋め尽くされた。

 説得などできない。彼女を遠ざけることはできない。フリードリヒはそう理解した。


「だからね、フリードリヒ……あなたがこの先何を抱えても、どう変わっても、私が傍に付いてることだけは変わらないよ。あなたがボルガで暮らしてた頃から、何も背負ってなかった頃から、私があなたを愛してることだけは変わらないよ――約束するよ。私のフリードリヒ」


 ユーリカはそう言って、フリードリヒの唇に自分の唇を重ねた。

 まるで自分の魂を分け与えるように、彼女の吐息がフリードリヒの中に入ってきた。

 そのまま時間が流れる。さして長くはない、しかし深く濃密な時間が。


「……」


 ユーリカの唇が離れる。彼女と見つめ合う。

 大きな黒い瞳と、赤い唇に彩られてニッと広がる口元。どことなく危険な雰囲気も漂わせる、しかし魅力的な笑顔がそこにある。今までと何も変わらない彼女の笑顔が。

 自分は既に多くの死を背負ってしまった。もう、背負う前には戻れない。

 しかし、全てが変わってしまったわけではない。変わっていないものもある。この先も変わらないものもある。ユーリカが、彼女の存在そのものがそうだ。

 彼女は自分が変わる前も、変わった後も知っている。その上で傍にいてくれる。

 その究極の約束が、自分にとって何より強い支えになる。自分は一人ではない。彼女が傍にいてくれるのならば、戦場でも生きていける。そう思えた。


「だから、あなたの好きにして。私は全部任せるから」


 ユーリカに言われ、フリードリヒは頷く。

 そして、決断を下す。答えはもう決まっていた。


・・・・・・


「どちらになると思われますか?」


 撤退準備が進む野営地の只中。司令部として置かれている大きな天幕の中で、グレゴールがマティアスに尋ねる。

 他の士官も伝令も出払い、二人だけになったタイミングでの問いかけだった。


「分からんな。己の運命を正しく理解できる時点で、見込みはあると思っているが……それでも私のもとを去るというのであれば、ホーゼンフェルト伯爵家は私の代で終わりだな」

「そうなっても別に構わないと思っておられるようですな」


 容赦なくこちらの内心を言い当てる従士長に、マティアスは苦笑で応えた。


「フリードリヒが閣下のもとに残ると言った場合は、やはり?」


 グレゴールのさらなる問いに、マティアスは頷く。


「ああ。あの者を養子として迎えようと思っている」


 フリードリヒは能力を示した。一度ならず二度も、智慧をもって勝利を成した。

 残るは資質だけ。仲間の死を背負い、この先の運命を突きつけられた上でなおも戦場から去らないようであれば、将として、英雄の後を継ぐ者として資質を備えていると言っていいだろう。

 マティアスはそう考えている。


「お前は反対か?」

「いえ。熟慮なされた上での閣下のご決断、臣として尊重いたします」


 グレゴールの返事を聞いたマティアスは、再び苦笑を零す。フリードリヒと初めて対面した後、グレゴールと交わした会話を思い出す。


「……閣下。来ました」


 そう言われ、マティアスはグレゴールが視線で示した方を向く。

 フリードリヒが、傍らにユーリカを伴ってこちらへ歩いてくるのが、開け放たれた天幕の入り口の向こうに見えた。

 その顔に、先ほどまでのような狼狽の色はなかった。不安の色もなかった。

 あるのは少しの諦念と、そして覚悟。表情を見れば、彼が己自身に下した結論は聞くまでもなく分かった。


「見込み通りだったようだ」


 マティアスはそう呟いて、フリードリヒたちを天幕の中に迎える。

 グレゴールが天幕の外に出て入り口を閉めた後、マティアスは口を開く。


「結論は出たか?」

「はい、閣下」


 問いかけると、フリードリヒは小さく頷いた。視線は真っすぐにマティアスを向いていた。


「私はこれからも、王国軍人として生きていきます。私の講じた策のもとで死んだ仲間たちの命を背負います。この先死んでいく騎士や兵士たちの命を背負っていきます」


 そう語るフリードリヒの声と表情には、浮ついた高揚は一切なかった。

 似ている、と思った。騎士としての初陣を終え、仲間の戦死を目の当たりにした後のルドルフの表情に。

 もう随分と薄れていた、記憶の中の息子の顔が、また鮮明に思い出された気がした。


「騎士フリードリヒ、お前の覚悟を、お前の主として嬉しく思う。お前のさらなる働きに期待している……そしてひとつ、お前に提案がある」


 マティアスが切り出すと、フリードリヒは表情を少し硬くして身構えた。


「私の養子となり、ホーゼンフェルトの家名を名乗る気はあるか?」


 それを聞いたフリードリヒは、小さく目を見開いたが、それだけだった。まったく予想外のことを言われた者の反応ではなかった。

 稀に見る聡明な若者だ。おそらく彼もこのような展開を、主人が何を思って自分を庇護下に置いたのかを、程度は分からないが想像し理解していたのだろう。マティアスはそう考えた。


「私を父と呼べとも、そう思えとも言わない。ユーリカとの関係を変えろとも言わない。ただお前に、私の与え得るあらゆる力を与える。そのためにこそ、私はお前を養子として迎えたいと考えている。責任を伴う力だが、同時に今のお前にふさわしい力だと思っている……この力を手にするか否か。これもお前自身が決めろ」

「心してご提案をお受けします。ホーゼンフェルト伯爵閣下」


 フリードリヒは迷わず答えた。その赤い双眸でマティアスを見据えながら言った。

 マティアスも青い双眸でフリードリヒを見返し、そしてフッと微笑を零す。フリードリヒの肩に手を置く。

 父と呼べとも、そう思えとも言わない。

 だが、自分はこの若者を息子と思おう。我が息子として守ろう。一人そう決意する。


「帰還した後、まずは王家に報告する。その後、連隊内で公表する。後は勝手に噂として広まっていくだろう……それまで、今はまだ周囲には黙っておけ」

「分かりました、閣下」


 新たな息子は、マティアスの言葉に素直に頷いた。

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